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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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23話 黒田の落日

 黒田が逮捕されたことを知ったのは、朝のラジオだった。


 工房でオモンディと並んでエンジンの分解をしていたとき、棚の上の小さなラジオからスワヒリ語のニュースが流れた。オモンディが手を止め、耳を傾けた。


「タカシ。モンバサで日本人が逮捕された。不正輸入と贈賄の容疑だ」


 隆志の手も止まった。


「名前は」


「クロダ・マコト。港湾地区の中古車ブローカー」


 工具を置き、ラジオの音量を上げた。英語のニュースに切り替わった。モンバサ港での大規模な摘発。事故車の不正輸入、車検記録の偽造、港湾当局職員への贈賄。容疑者は日本国籍の黒田誠、四十六歳。他にも地元の仲介業者数名が拘束されている。


 発端は内部告発だった。黒田の下で働いていた若いケニア人の仲介業者が、警察に証言した。事故車を「修理済み」と偽って販売していた書類の写し、港湾職員への現金受け渡しの記録、車検を通すための偽造ステッカー。証拠は積み上がっていた。


 ニュースを聞き終えた後、工房は静かだった。サミュエルが入口に立ち、腕を組んでいた。エリックが工具を握ったまま、ラジオを見つめていた。


「ようやくか」


 サミュエルが言った。声には感情が薄かった。喜びでも安堵でもない。長く続いた何かが、ただ終わったという響きだった。


「五年だ。五年間、あいつの安い車に客を取られ続けた。噂を流され、工房に石を投げられ、息子が殴られた。それが終わった」


「終わったな」


「だが、すっきりはしない」


 サミュエルの言葉に、隆志は頷いた。黒田が捕まっても、すでに売られた事故車は道を走っている。ブレーキの利かない車、フレームの歪んだ車、水没した車。それらが今この瞬間も、子どもを乗せ、荷物を積み、赤土の道を走っている。黒田がいなくなっても、車は残る。


「お前、会いに行くつもりか」


 サミュエルが聞いた。隆志の表情を読んだのだろう。


「行こうと思っている」


「なぜだ。あいつはお前を潰そうとした」


「分かっている。だが——」


 言葉を探した。黒田に会いたい理由を、論理的に説明することはできなかった。ただ、会わなければならないという感覚があった。モンバサの港で初めて会ったとき、黒田は「この国で正しいことをやると、正しさの分だけ遅くなる」と言った。あの言葉が、ずっと頭の隅に引っかかっていた。


「行ってくる」



         *



 モンバサの警察署は、港から十五分ほどの場所にあった。古いコンクリートの建物で、壁にひびが走り、入口の鉄扉は錆びていた。


 面会の手続きに二時間かかった。身分証を見せ、書類に記入し、荷物を預け、金属探知機をくぐり、鉄格子の向こうの廊下を歩いた。壁は灰色で、蛍光灯が点滅している。消毒液の匂いと、湿った空気。日本の面談室とは何もかもが違うが、人を隔てるための空間であることは同じだった。


 面会室は狭かった。机が一つ。椅子が二つ。間にアクリルの仕切りはなく、直接向き合う形だった。


 黒田が入ってきた。


 十ヶ月ぶりだった。モンバサの港でタバコを吸っていた男は、別人のように見えた。日焼けした肌は色が抜け、リネンのシャツの代わりに灰色の囚人服を着ている。サングラスはなく、目が剥き出しだった。疲れた目。だが、光は消えていなかった。


「田中さん。まさかあんたが来るとは思わなかった」


 声は変わっていなかった。低く、乾いた声。


「来ないわけにはいかないだろう」


「なぜだ。俺はあんたを潰そうとした。記者に嘘をリークし、噂を流し、工房に石を投げさせた。あんたの娘のことまで調べて、札束で揺さぶった。恨まれて当然だ」


「恨んでいる」


「だろうな」


「だが、お前に聞きたいことがある」


 黒田は椅子に深く腰を下ろした。囚人服の袖から見える手首が細くなっていた。留置所の食事が合わないのか、単に痩せたのか。


「港で会ったとき、お前は言ったな。『この国で正しいことをやると、正しさの分だけ遅くなる。遅い奴は食われる』と」


「言った」


「サミュエルは、お前が最初は真面目な男だったと言った。品質にも気を遣っていたと」


 黒田の目がわずかに動いた。過去を突かれた人間の反応だった。


「……昔の話だ」


「どこで変わった」


 沈黙が落ちた。面会室の外から、廊下を歩く靴音が聞こえる。鍵の束がぶつかる金属音。遠くで誰かが怒鳴る声。


「二年目だった」


 黒田が口を開いた。目はテーブルの上を見ている。


「最初は品質をやっていた。あんたと同じだ。丁寧に整備して、適正な価格で売る。客は喜ぶ。だが、金が回らない。一台に時間をかけすぎて、固定費が賄えない。従業員の給料が払えなくなった」


 黒田の指がテーブルの上を叩いた。無意識の動作だった。


「二年目の雨季に、従業員の一人の子どもがマラリアにかかった。薬を買う金がない。病院に連れて行く金もない。俺のところに来て、泣きながら前借りを頼んだ。だが工房の口座にも金がなかった」


 隆志は黙って聞いていた。


「その日、港で事故車を安く買った。ほとんど整備せずに、翌日売った。利益が出た。その金で従業員の子どもを病院に連れて行った。子どもは助かった」


 黒田は顔を上げた。


「それが最初だ。一回だけのつもりだった。だが一回やると、二回目が来る。三回目が来る。従業員が増える。固定費が増える。品質に時間をかければ金が回らない。事故車を流せば金が回る。最初の一台が、百台になり、千台になった」


「従業員の子どもを救うために」


「最初はな。だが途中から、動機が変わった。金が入ると、もっと欲しくなる。もっと楽に稼げる方法を探す。品質なんかどうでもよくなる。気づいたときには、もう戻れなかった」


 黒田は笑った。乾いた笑いだった。


「あんたは戻らなかった。コロナのとき、俺が百万シリングを積んでも、手を出さなかった。あのとき思ったよ。こいつは俺とは違う、と」


「違わない。俺も手が伸びかけた」


「だが止まった」


「止まったのは——」


 折り鶴のことを言おうとして、やめた。白い折り鶴の話を、この場でする気にはなれなかった。代わりに、別のことを言った。


「止まったのは、俺が正しかったからじゃない。たまたま、止まれる場所にいただけだ。お前が二年目に事故車を売ったとき、従業員の子どもが死にかけていた。俺がお前の立場だったら、同じことをしていたかもしれない」


 黒田は長い間、隆志を見つめていた。


「あんたは嘘が下手だな」


「嘘じゃない」


「嘘じゃないとしたら、もっと始末が悪い。本気でそう思っているなら、あんたは俺を救おうとしている。俺は救われたくないんだ」


 黒田は立ち上がった。面会時間が終わりに近づいていた。


「田中さん。一つだけ教えてやる。俺が流した車のうち、何台がまだ走っているか分かるか」


「分からない」


「俺も分からない。何千台も売った。そのうち何台が事故を起こし、何人が死んだか。数えたことがない。数えたら、もう眠れなくなるから」


 黒田は背を向けた。看守がドアを開けた。


「あんたの工房の名前、聞いた。サクラモーターズだってな」


「ああ」


「桜か。いい名前だ。桜は散るが、また咲く。俺の方は——散ったきりだがな」


 黒田は廊下に消えた。足音が遠ざかり、鉄のドアが閉まる音がした。


 面会室に一人残された隆志は、しばらく動けなかった。


 黒田の最初の一台。従業員の子どもを救うために売った事故車。その一台から、すべてが始まった。善意から始まった道が、いつの間にか闇に沈んでいった。隆志の道とは、紙一重だった。


 警察署を出ると、モンバサの午後の風が吹いていた。潮の匂いと排気ガスが混じった風。港の方角に、コンテナ船のクレーンが見える。あの港から、今も車が入ってくる。黒田がいなくなっても、別の誰かが同じことを始めるかもしれない。


 だが少なくとも、サクラモーターズの車は違う。ブレーキが効く。エンジンが安定している。整備士の名前が記録に残っている。


 隆志はポケットの折り鶴に触れた。四羽の鶴。「げんき」「がんばれ」「いってらっしゃい」「いのち」。


 黒田には折り鶴がなかった。止まれる場所がなかった。それだけの差が、二人の道を分けた。


 赤土の風が、港の方から吹いてきた。

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