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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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31話 七番と千羽

 みゆきがケニアに来て三日目の日曜日、ナイロビ・ライオンズのリーグ戦があった。


 相手はマチャコス・スターズ。リーグ中位のチーム。ライオンズにとっては、初戦の大敗以降、少しずつ力をつけてきた中での五戦目だった。ここまでの戦績は一勝三敗。勝ったのはリーグ最下位のチームからだけ。まだ強いとは言えない。だが、毎試合走り続けるチームとして、対戦相手からの評価は変わり始めていた。


 隆志はみゆきを連れて行くかどうか迷った。試合会場はナイロビ郊外の市営グラウンド。車椅子でのアクセスは良くない。日差しも強い。みゆきの体力を考えれば、ホテルで休んでいる方がいい。


 だが、みゆきが言った。


「行きたい。パパが応援してるチームを見たい」


 智子が隆志を見た。「大丈夫?」と目で聞いている。隆志は頷いた。智子も頷いた。


 会場に着くと、スタンドは前回より人が多かった。百人ほど。地元の住民が家族連れで来ている。サクラモーターズのスポンサー効果で、少しずつ知名度が上がっているのだろう。ユニフォームの赤と黒を着た子どもが、フェンスの前に張り付いている。


 車椅子のみゆきを、スタンドの最前列に置いた。コンクリートの段差があるため、隆志がみゆきを抱き上げ、智子が車椅子を運び、最前列の通路に設置した。みゆきの目の前に、芝のピッチが広がっている。


「わあ……緑だ。きれい」


 みゆきにとって、これが人生で初めてのサッカー観戦だった。テレビでは見たことがあるが、生のピッチは初めてだ。芝の匂い、風に乗って届く選手の声、ウォーミングアップのボールを蹴る音。すべてが画面越しとは違う。


 アシャがスタンドに来た。みゆきを見て、膝をついた。


「あなたがみゆきちゃんね。パパからたくさん聞いてるわ」


「アシャさん? コーチの人?」


「そう。今日はうちの7番に注目して。きっと気に入ると思うわ」


 ジェームズ。背番号7。裸足で走っていた少年は、今はスパイクを履き、赤と黒のユニフォームを着て、ピッチの上でストレッチをしている。細い体。だが足の筋肉は以前より確実についていた。栄養管理が始まってから、選手たちの体つきが変わり始めている。


 キックオフ。


 マチャコスは堅守のチームだった。守備ラインを低く保ち、カウンターを狙う。ライオンズがボールを持っても、攻めるスペースがない。前半は膠着状態が続いた。ジェームズが何度かドリブルで仕掛けるが、二人三人と囲まれて止められる。


 みゆきは身を乗り出して見ていた。車椅子の肘掛けを握り、体を左右に揺らしている。ボールが動くたびに、首がそちらに向く。


「パパ、あの7番の子、速いね」


「ああ。ジェームズだ」


「でも、みんなに囲まれてる。一人で行こうとしてるから囲まれるんだよ」


 隆志は驚いた。みゆきはサッカーの素人だ。だが、八歳の目が本質を見抜いている。ジェームズは個人技に頼りすぎている。一人で打開しようとするから、守備に囲まれる。パスを出せば、もっと楽に崩せる場面がある。


 前半は0-0で終わった。


 ハーフタイムにアシャが選手に話しているのが、スタンドから見えた。身振り手振りで何かを伝えている。ジェームズが頷いた。


 後半が始まると、ジェームズのプレーが変わった。ボールを持ったとき、以前なら突っ込んでいた場面で、一度止まった。周囲を見回した。右サイドにフリーの選手がいる。パスを出した。受けた選手がクロスを上げ、ゴール前に走り込んだ別の選手がヘディングで合わせた。枠を外れたが、崩しの形ができた。


 スタンドから拍手が起きた。みゆきも小さな手を叩いた。


「パパ、今の! 7番の子、パスした!」


「ああ。見てたか」


「見てた。一人で行かないで、仲間に渡した。えらいね」


 後半二十分。ジェームズが左サイドでボールを受けた。ディフェンダーが寄せてくる。以前なら切り返して突破を試みた。だが今度は、ボールを足元に止め、半歩引いた。ディフェンダーの重心が前にかかった瞬間、スルーパスを出した。ゴール前に走り込んだサイモンが、右足で流し込んだ。


 ゴール。


 1-0。


 スタンドが沸いた。みゆきが両手を上げた。車椅子の上で、体を伸ばして叫んだ。


「入った! 入ったよパパ!」


 ジェームズはゴールを決めたサイモンに駆け寄り、抱きついた。自分が決めたわけではない。だが自分のパスから生まれたゴール。一人で走るより、仲間と走る方が遠くまで行ける。十四歳の少年が、それを学んだ瞬間だった。


 試合は1-0のまま終わった。ライオンズのリーグ二勝目。初めて「格上」ではないチームに勝った。勝因は守備の粘りと、後半のジェームズのプレーの変化。アシャがハーフタイムに何を言ったのかは分からないが、ジェームズを変えた。


 試合後、ジェームズがスタンドに来た。汗だくのユニフォーム。赤と黒のストライプが汗で暗く染まっている。背番号7が、近くで見ると刺繍の糸がほつれかけていた。何度も洗って着ているのだ。


 みゆきを見て、ジェームズは少し戸惑った。車椅子の小さな女の子が、日本語で何かを言っている。


「すごかったよ! パスしたの、すごかったよ!」


 隆志が英語に訳した。ジェームズは照れくさそうに笑った。


「Thank you. あなたは、タカシの娘さん?」


「みゆき。みゆきです」


 みゆきが名前を言うと、ジェームズは膝をついた。車椅子の目線に合わせるために。汗だくの十四歳の少年が、八歳の女の子の目の高さまで降りてきた。


「Miyuki. いい名前。どういう意味?」


 隆志が訳す前に、みゆきが自分で答えた。英語ではなく、日本語で。だがジェームズには伝わったのだろう。みゆきの目が、言葉以上のものを語っていたから。


「みゆきは、美しい雪って意味。日本の冬に降るの。白くて、きれいで、すぐ溶けるの」


 ジェームズは「Snow」と呟いた。ケニアに雪は降らない。だがジェームズは何かを感じたようだった。白くて、きれいで、すぐ溶けるもの。この小さな女の子が、なぜ車椅子に座っているのか。なぜ父親がケニアに来たのか。すべてを理解したわけではないだろう。だが、目の前の女の子が特別な存在であることは、直感で分かったはずだ。


 みゆきがポケットから何かを取り出した。折り鶴。白い紙で折った小さな鶴。


「これ、あげる。日本の折り紙。千羽折ると、願いが叶うの」


 ジェームズは白い鶴を受け取った。大きな手のひらに、小さな鶴が乗っている。汗と赤土で汚れた手の上に、白い紙が光っている。


「What is your wish? あなたの願いは?」


 みゆきは笑った。


「パパの願いが叶うこと。あと、7番の人がもっとゴールすること」


 隆志が訳すと、ジェームズは笑った。白い歯が、褐色の顔に光った。


「I will score. For Miyuki. みゆきのために、ゴールする」


 ジェームズはポケットに鶴を入れた。ユニフォームのポケット。背番号7の裏に、白い鶴が入った。アシャの兄の番号と、みゆきの鶴が、一枚の布の中で隣り合っている。


 智子がスタンドの上の方から、その光景を見ていた。カメラを向けていたが、シャッターは押さなかった。ただ見ていた。娘が異国の少年に折り鶴を渡す姿を。目は乾いていなかった。


 帰りの車の中で、みゆきが言った。


「パパ。千羽鶴、あと百五十六羽。ジェームズくんにあげたから、一羽減っちゃった」


「もう一羽折ればいい」


「うん。帰ったら折る。ジェームズくんの分も、願いを込めて折る」


 智子が助手席で窓の外を見ながら言った。


「みゆき。千羽鶴が完成したら、どうする?」


「パパに渡す」


「全部?」


「全部。千羽全部。パパの工房に飾ってもらうの。ホワイトボードの横に」


 隆志はバックミラーでみゆきを見た。小さな顔が、夕陽に照らされている。頬にふっくらとした丸み。手術前には見られなかった健康的な色。その顔が、真剣に、千羽鶴の行き先を語っている。


「ホワイトボードの横に、千羽鶴。名前の横に、願いが並ぶ。いいでしょ?」


 いい。とても、いい。


 隆志は答えられなかった。声が出なかったからだ。代わりにバックミラー越しに頷いた。みゆきは笑った。


 赤土の道を走る車の中で、五羽の折り鶴がポケットの中で揺れていた。あと百五十六羽。みゆきの指が一羽ずつ折る。一日一羽。百五十六日後に、千羽が揃う。


 その日までに、隆志は走り続ける。一台ずつ。丁寧に。みゆきが折り鶴を折るのと同じ速さで。

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