3、カップ麺
隣町の駅前にそびえ立つ六階建ての雑居ビルは、灰色の分厚い防音シートにすっぽりと覆われていた。
来週には取り壊しが始まるというその物件は、周囲の街灯の光すら拒絶する巨大な墓標のように夜の闇に沈んでいる。
一階の暗がりに足を踏み入れた瞬間、私の感覚は瞬時に建物内部の状況を正確に捕捉した。
最上階である六階に、人間の気配が五つ。
さらに、ひんやりとした空気の中に混じる、古い鉄錆のような匂い。過去に何度か、ここで人間が血を流した気配がコンクリートに染み付いている。やはりここは、鮫島組が日常的に非合法な暴力を行使するための「処理場」だったらしい。
夜の帳と共に降りて来た魔素は、私の肉体を極めて安定した状態へと導いているが、階段を歩いて上るという物理的な労力だけはどうにも軽減されない。
停止したエレベーターを横目に、私はひたすらに面倒くささを噛み締めながら埃っぽい階段を上っていった。
六階の防火扉の前に辿り着くと、隙間から男たちの会話が漏れ聞こえてきた。
「いいか。権田の旦那はもう痺れを切らしてる。今晩中にあの馬鹿社長が書類にサインしないようなら、明日の朝、登校中のあのガキを攫え」
「へえ。そりゃ手っ取り早いッスね」
「あの阿呆は会社だの家族だのと綺麗事ばかり並べてるが、自分のガキの指でも詰められりゃ一発で折れるだろうよ」
極めて下劣な作戦会議だ。
私は深くため息を吐き、防火扉を無造作に押し開けた。
「こんばんは。明日の朝の予定はキャンセルすることをお勧めする。私の依頼人の登校スケジュールに支障が出るのでね」
私が極めて事務的なトーンで声をかけると、パイプ椅子に座って、カップ麺を啜っていた四人の男たちが一斉にこちらを振り返った。
三人は作業着姿、一人は安っぽい柄の入ったスーツを着ている。スーツの男がこの場の指揮を執っているのだろう。
彼らは私の姿を見ると、警戒するどころかひどく間抜けな顔を見合わせた。
「誰だてめえ。どこから入ってきた」
スーツの男が、顎をしゃくって私を値踏みした。
「しがない探偵だ。三百七十円という、栗羊羹の一切れにも満たない報酬で請け負った労働をこなしに来た。奥の部屋に押し込んでいる溝鹿社長を返していただきたい」
私の要求を聞いた瞬間、男たちは一斉に下品な笑い声を上げた。
「探偵だァ? あのスナックのババアが雇いでもしたか」
スーツの男がカップ麺を床に投げ捨て立ち上がった。
「食べ物を粗末にしちゃだめだと習わなかったか」
その言葉に触発されたかのように、作業着姿の三人もカップ麺を続けて床に投げ捨て、壁に立てかけてあった鉄パイプやバールを手に取り、私の前へ立ち塞がった。
その中の一人、首が太く体格の良い男が、ステップを踏みながら前に出た。両手を顔の前に上げ、顎を引いている。打撃系の格闘技をかじった人間の構えだ。
「おいおい、こんな細身の優男がいっちょ前に探偵気取りかよ。俺は、総合をやっててね。お前みたいな貧弱な素人、三分もあれば骨の髄まで砕けるぜ」
「ほう、人は見かけによらぬものとはよく言ったものだ、AO入試の対策をやっているのか」
「なにわかんねぇこと言ってんだ! 総合だよ! 総合格闘技」
男は己の拳を鳴らし、見せびらかすように空中で鋭い蹴りを放ってみせた。
「悪いが、お前はここで消えてもらう。俺たちを嗅ぎ回るような奴を生かして帰すわけにはいかねえからな。お前をこのビルの基礎にでも埋めた後で、予定通り明日の朝、あのガキを攫いに行ってやるよ」
圧倒的な数の優位と、武器の存在。そして自身の暴力への絶対的な自信。彼らは私が怯え、命乞いをする姿を期待して、わざと時間をかけて言葉で脅しているのだ。
だが、私からすれば、アリが靴底に向かって自身の牙の鋭さを自慢しているようなものでしかない。
「君たちはひどく饒舌だな。無駄口を叩く時間は、そのまま無駄な労働時間に直結する。さっさと終わらせよう」
私の冷え切った声に、自称格闘技経験者の男が激高した。
「粋がってんじゃねえぞ、三流探偵が!」
男が床を蹴り、私の顔面めがけて鋭い右ストレートを放ってきた。常人であれば反応すらできない速度だろう。
私は思わず声を漏らした。
「おっそ」
私はポケットから手を出さないまま、飛んできた拳をほんのわずかな首の傾げだけで回避した。
空気を切った男の体勢が前のめりに崩れる。私はその瞬間、男の顎の先端に、右手の掌底を軽く――本当に、豆腐の角を撫でる程度の力で――叩き込んだ。
人間の脳は、顎への適切な衝撃によって容易に脳震盪を起こし、意識を強制終了させる。
男の白目が剥き出しになり、彼の巨体は糸の切れた操り人形のようにコンクリートの床へ崩れ落ちた。
「……は?」
スーツの男が、信じられないものを見る目で固まった。
「て、てめえ!」
残る二人の作業着の男が、パニックに陥りながら鉄パイプとバールを振りかぶって左右から同時に襲いかかってくる。
私は小さく息を吐いた。
能力を使って彼らを空間の彼方へ葬り去るのは容易いが、不要な目撃情報を残すわけにはいかない。そして何より、彼らの汚れた血や体液で私の衣服を汚すことだけは絶対に避けなければならなかった。
右から迫る鉄パイプの軌道を半歩退いて躱し、すれ違いざまに男の鳩尾へ肘を正確に落とす。男が肺の中の空気をすべて吐き出してうずくまる。
左から振り下ろされたバールは、男の手首の内側を指先で弾くことで軌道を逸らした。武器を取り落として無防備になった男の頸動脈に、手刀を極めて弱く当てる。
ほんの数秒の出来事だった。
作業着の男三人が、呻き声すら上げずに床に転がっている。
「な……!」
最後に残されたスーツの男が、悲鳴を上げて後退した。先ほどまでの余裕は微塵もなく、腰を抜かして床にへたり込んでいる。
「格闘技の経験を自慢するのは構わないが、君たちのそれはあくまで『人間という種族の枠組みの中』での話だ。私の労働時間をこれ以上長引かせないでいただきたい」
私は腰を抜かしたスーツの男の襟首を掴み、もう一人の人間――溝鹿社長の監禁されている部屋の鍵を開けさせた。彼が震える手で鍵を開けた直後、その首筋を軽く叩いて意識を刈り取る。
薄暗い部屋の中央。
そこに、一人の初老の男がパイプ椅子に縛り付けられていた。
顔面は腫れ上がり、仕立ての良かったはずのスーツは埃と泥で薄汚れ、見る影もない。彼が溝鹿建設の社長であり、駿平の父親であることは間違いなかった。
私が足音を立てて近づくと、社長は虚ろな目を持ち上げた。
「……権田くんか。何度やっても無駄だぞ。私は、絶対にサインなど……」
「残念ながら、私は君を裏切った部下ではない。通りすがりの、しがない探偵だ」
私は椅子に巻き付けられたロープの結び目を解きながら、極めて事務的に名乗った。
「なぜ、探偵が……」
「君の息子から依頼を受けた。母親が奇抜な服の制作に没頭して動かないので、全財産の三百七十円を私に支払い、不出来な父親の捜索を依頼したのだ」
私の言葉に、社長の目が大きく見開かれた。
「駿平が……?」
「ああ。スナックのママも心配していたぞ。……まったく、家族経営の幻想に酔うのも大概にしていただきたい。『話し合えば分かる』などという君の無責任な善意が、結果として息子に夜の街を徘徊させるという異常事態を引き起こしたのだ」
私の辛辣な言葉の連打に、社長は反論することなく、ただ深々と項垂れた。
腫れ上がった目から、大粒の涙がコンクリートの床へとこぼれ落ちる。
「私は……会社のみんなを家族だと信じて疑わなかった。だが、その甘さが、本当の家族を一番危険な目に遭わせていたんだ……馬鹿な事をした」
自身の愚かさを悔いる、底抜けの善人の涙。
それを見て、私の胸に湧き上がったのは、同情でも憐憫でもなかった。
ただ、人間という生き物の、途方もない不器用さに対する呆れと、ほんのわずかな安堵だった。
少なくともこの男は、己の過ちを認めるだけの知性は残していたらしい。
「反省は帰宅してからゆっくりすればいい。とりあえず、立てるか」
私は手を貸すような真似はせず、冷たく見下ろしたまま告げた。
「君の息子と、うるさいアルバイトと、何の役にも立たないホストが、全席禁煙のスナックでオレンジジュースを飲みながら君の帰りを待っている」
社長は涙を拭い、ひどく不格好な動作で、自らの足で立ち上がった。
転がっている連中の処理は……誰かがするだろう。私の肉体労働は、これで終わりだ。
「帰ろう。私の深夜の落語の時間が、これ以上削られるのは御免だからな」
私は社長に背を向け、気絶した男たちの間を抜け、足早にビルを後にした。




