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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その2 災厄を呼ぶ善人

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4、カフェオレ




 全席禁煙という、この街の歴史と情緒を完全に無視したコンプライアンスの波に飲まれたスナック『夜鳴き鳥』の重い木製ドアを開けると、店内の空気が一瞬にして静まり返った。


 オレンジジュースの氷をストローでつつかせていたママ、無駄に周囲を警戒して立っていた保、そして駿平に寄り添っていた琴巴。彼らの視線が、私の背後に立つ、顔を腫らした薄汚れたスーツの男へと一斉に注がれる。


「……お父さん」


 駿平が、ひどく掠れた声を出した。

溝鹿社長は痛む足を引きずるようにして前へ出ると、自身の息子を前にして、崩れ落ちるように両膝を床についた。


「駿平……すまなかった。お父さんが、全部間違っていた」


 社長が両手を広げると、駿平は弾かれたようにその胸に飛び込んだ。

 そして、小さな両手で握り拳を作り、父親の汚れたスーツの胸元を何度も、何度も打ち据えた。

 それは十歳の児童の非力な拳であり、物理的なダメージなど皆無に等しいはずだが、社長はその一撃ごとに顔を歪め、大粒の涙をこぼしていた。


「馬鹿! 馬鹿! なんで勝手にいなくなるんだよ!」


「ああ、すまない。本当に、すまない……」


 泣きじゃくる息子と、謝罪を繰り返す父親。


 極めて非論理的で、生産性の欠片もない物理的接触だ。だが、人間の感情という厄介な代物を処理するためには、こうした無益な儀式がどうしても必要なのだろう。

 私はひたすらに面倒くささを噛み締めながら、カウンターの隅に置かれていた私のグラスを手に取り、生ぬるくなった水を胃に流し込んだ。


 ふと横を見ると、琴巴が両手で顔を覆って号泣しており、その隣では自称二十二歳のホストが「社長ォ、あんた最高に不器用ッスよ!」などと叫びながら男泣きしていた。ママも目頭を押さえている。


 この空間で、私だけがひどく決定的な温度差の中に取り残されていた。


「感動の再会に水を差すようで心苦しいが」


 私は空になったグラスを置き、極めて事務的に告げた。


「ここは夜の歓楽街だ。十歳の児童の生活リズムをこれ以上崩すのは、教育上好ましくない。反省会は帰りのタクシーの中で継続していただきたい」


 私の冷え切った正論に、琴巴が涙声で非難の言葉を紡ごうとしたが、社長がそれを手で制した。

 彼は深く頭を下げ、私に向かって震える声で礼を述べた。私はそれに適当な会釈で返し、早々に店を後にした。


 残務処理は鬼面組の蓮司が手回しをしてくれたのか、遠くの方からパトカーのサイレンが近づいてくるのが聞こえていた。




 数日後。


 我が『堤門探偵事務所』のデスクの上には、十円玉や五十円玉で構成された三百七十円の硬貨が、極めて整然と並べられていた。


 労働の対価としては栗羊羹一切れ分にも満たないが、契約は契約だ。私はこの硬貨を次元収納の奥底ではなく、事務所の小銭入れに正式な売上として収納した。


 溝鹿建設の権田専務と、鮫島組の面々は、あの夜のうちに警察に身柄を確保されたらしい。

 会社の不正が明るみに出たことで溝鹿建設の株価は暴落し、経営は致命的に傾いた。だが、あの底抜けの善人である社長は、文字通り一からやり直す決意を固めたという。今度は「会社は家族」などという幻想を捨て、本物の家族のための堅実な土建屋として再出発するのだそうだ。


「所長、これ、開けてもいいですか?」


 給湯室の方から、琴巴がいくつかの包みを抱えて出てきた。


 溝鹿社長からではなく、駿平の小遣いから捻出されたらしい「個人的な」お礼の品だという。琴巴が丁寧に包装を解くと、中から三つの品物が姿を現した。


 一つ目は、桐箱に入った老舗和菓子屋の特選大粒栗羊羹だった。


「わあ、駿平くん分かってますね! あの時のお菓子がすごく美味しかったから、お姉さんにってメッセージがついてますよ。所長、これ後で一切れ切ってあげますね」


「……」


 私は無言で視線を逸らした。つい大人気なく睨んでしまいそうになったからだ。

 あの夜、私が引き出しの奥深くに秘匿していた栗羊羹を彼に差し出したのは君だ。

 本来であれば、その極上の栗羊羹による恩恵は全て私の胃袋に還元されるべきなのだが、それを指摘する労働すら今はひどく億劫だった。


 二つ目は、葉巻の形をした洋菓子、ヨックモックのシガールである。


「おおっ! 駿平のやつ、俺には葉巻のプレゼントッスか! やっぱ探偵の助手にはこういうハードボイルドなアイテムが似合うって、あいつも分かってるんスね!」


 保が筒状のクッキーを指の間に挟み、ひどく間抜けなポーズを決めている。

 私は彼に向かって、中身が空洞であるというその菓子の特性が君の頭脳を的確に表している、という言葉を投げかけるのをすんでのところで堪えた。


 そして三つ目。


 私宛に指定されていた木箱の中身は、岩手かどこかの牧場から直送されたという、見るからに濃厚そうな瓶入りの特製カフェオレだった。


 琴巴がそれを見て、ひどく怪訝な顔をした。


「所長宛てが、よりによってカフェオレって……駿平くん、間違えちゃったんですかね」


 彼女は瓶の成分表示をまじまじと見つめ、心配そうに私を覗き込んだ。


「あの、所長。こんな甘そうなもの、飲めますか? 所長のいつものブラックコーヒーとは真逆ですよ。無理して飲んで胃もたれでもしたら大変ですし、私が下の自販機でいつもの無糖コーヒーを買ってきましょうか?」


 十歳の児童の観察眼と気遣いを、十九歳の女子大生が台無しにしようとしている。

 あの日、自販機の無糖コーヒーを押し付けられそうになった駿平だけが、私の背中に漂っていた「本物の、暴力的なまでに甘くて濃厚な乳脂肪を求める哀愁」を正確に読み取っていたのだ。


「いや、結構だ」


 私は極めて事務的な、そして微かに不本意そうな声色を装った。


「糖分の過剰摂取は通常であれば忌避すべきだが、極度の精神的疲労を回復させるためには、致死量の一歩手前の糖分と乳脂肪が医学的に有効な場合もある。せっかくの誠意だ、薬だと思って摂取しておこう」


 私は見え透いた嘘を並べ立て、琴巴が用意したグラスに琥珀色の液体をたっぷりと注いだ。


 そして、一口。

 甘い。

 そして、圧倒的に美味い。


 喉を通り抜ける暴力的なまでの甘さ。上質なミルクのコク。あの夜、自販機の漆黒の泥水によって完全に荒廃していた私の口腔内が、慈しみ深い乳脂肪の恩寵によって急速に再建されていくのが分かった。

 長寿ゆえの慢性的な倦怠感すら、この極上の糖分によって一時的に霧散していくようだ。


「……本当に大丈夫ですか? すごい顔してますけど」


「問題ない。良薬は口に苦しというが、時としてその逆も真なり、ということだ」


 私は丁寧にそっとグラスを置き、静かに息を吐いた。


 人間の営みなど刹那の瞬きに過ぎない。三百七十円の依頼料も、大人の見栄も、善意の押し売りも、すべてがひどく矮小で滑稽だ。


 だが、この甘いカフェオレを舐めるように味わいながら、深夜に独りで上方落語を聴く時間だけは、間違いなく今の私の人生において価値のあるものだった。


 保がシガールを咥えたまま帰宅し、琴巴が戸締まりを終えて事務所を出ていく。


 静寂が降りた室内で、私は古い音源再生機のスイッチを押した。軽快な出囃子と共に流れ始める今日の演目は『饅頭こわい』だ。


 手元に残された極上のカフェオレの瓶を見つめながら、私は誰に言うでもなく呟いた。


「次は、絶対に自分で菓子を調達しよう」


 私は冷たいグラスに残った甘露を胃に流し込み、無表情のまま、イヤホンから流れる滑稽話に耳を傾け続けた。




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