1、交番とけし餅とネコミミ少女
矢吹町中央公園前交番の所長である今泉裕次郎巡査部長(二十六歳)は、ひどく深く、そして粘り気のあるため息を吐いた。
休日の昼下がり。現在、この矢吹町一帯は『YABU CON』なる大規模コスプレイベントの開催により、非日常の仮装に身を包んだ人間たちで溢れ返っている。交番の窓の外を通り過ぎる顔ぶれは、魔法使いから宇宙人、果ては意思を持った自我のある家電まで様々だ。
だが、今泉の頭痛の種は窓の外の喧騒ではない。
現在進行形で交番のパイプ椅子に行儀よく座っている、一人の外国人少女だった。
年齢は十歳から十二歳程度。色素の薄い銀髪に、頭には精巧な獣の耳がついている。タンクトップの上から革製の胸当てを装着し、ハーフパンツの尻部分からは長い尻尾が垂れ下がっていた。腰には何重にも幅広のベルトが巻かれている。
これだけなら、よく出来た仮装の範疇だ。
問題は、彼女の前に置かれた長机の上にある。
二本のダガーナイフ。刃渡りおよそ三十センチ。
模造刀ではない。本物の、極めて殺傷能力の高い刃物である。
三十分前、公園の入り口で騒ぎがあった。
この少女が、巨大なモンスターの着ぐるみを着た二人組のコスプレイヤーに突如として斬りかかったのだ。幸いにも着ぐるみの装甲(というか内部の空間)が分厚かったため、中の人間に怪我はなかった。
周囲の観客はそれをイベントのゲリラ的なパフォーマンスだと勘違いして拍手喝采を送っていたが、警備にあたっていた今泉の部下が刃物の鋭い反射光に違和感を覚え、即座に少女を補導したのである。
少女は一切暴れることなく、むしろ不思議そうな顔をして素直に交番までついてきた。斬りかかられた二人組も、「一緒に写真を撮らせてくれれば事件にはしない」という極めて現代的な寛容さを示し、撮影後に身元だけ確認すると意気揚々と去っていった。
事件としては未遂だが、銃刀法違反の現行犯には違いない。
しかし、ここで最大の障壁が立ちはだかっていた。
「……で、君はどこから来たんだ?」
今泉がゆっくりとした日本語で尋ねるが、少女は首を傾げ、全く聞き覚えのない言語で何かを返してくる。
英語ではない。中国語でも韓国語でもない。
身元を証明するものも一切持っていなかった。ポケットから出てきたのは、金属製のコスプレアイテムのようなカードが一枚と、どこの国のものか見当もつかない奇妙な硬貨が数枚。そして、色付きの液体が入った小さなガラス瓶が四本だけだ。
周辺に保護者らしき姿もなく、迷子として処理するには武装が本格的すぎる。
こちらが目を離すと、様子を窺いながら、こそっとカウンターの上にある刃物に手を伸ばす様は、まるでネコのようだった。
「ソレ。ノータッチ。ダメダメね」
今泉が胃の痛みに耐えかねて交番の入り口へ目を向けた時、視界の端を通り過ぎようとする見慣れた長身の男の姿を捉えた。
矢吹町の雑居ビルで探偵業を営んでいる、堤門統である。
彼は現在、手にした小さな紙袋の中身に全神経を集中させていた。指定暴力団『鬼面組』の組長からたった今もらい受けた、老舗和菓子店の上質な『けし餅』である。
事務所に戻り、急いで湯を沸かして煎りたてのほうじ茶と共にこれを食す。それ以外の思考は、現在の彼の脳内から完全に排除されていた。
「堤門さん!」
今泉は交番から身を乗り出し、すがるような声を出した。
「堤門さん、外国語強かったですよね。この子の言葉、どこの国のものか分かりますか!?」
統は歩みを一切止めることなく、交番の方へ一瞥すら向けずに答えた。
「分からない。私は極めて純粋なドメスティック探偵だ」
「嘘つけ、この前ロシア人の不法投棄の件で書類読んでたじゃないですか! 頼むからちょっとだけ聞いてみてくださいよ!」
今泉は交番から飛び出し、足早に去ろうとする統の行く手を物理的に塞いだ。
統はひどく不機嫌そうに、今泉と、彼が指差す交番の中の少女を交互に見比べた。
「……私の手元にあるけし餅は、鮮度が命だ。皮の柔らかさとケシの実の風味が損なわれる前に、私はこれを消費する重大な義務がある」
「一分! いや三十秒でいいですから! どこの国か分かれば領事館に丸投げできるんですよ!」
警察官の必死の懇願というより、完全に職務放棄を前提とした泣き落としに負け、統は深い舌打ちと共に交番の敷居を跨いだ。
パイプ椅子に座る銀髪の少女と、不機嫌な探偵の視線が交差する。
少女は統の姿を見るなり、丸く大きな目をさらに見開き、その口から再び未知の言語を紡ぎ出した。
「ミソ on seレ リna niミ⁉︎」
今泉には、それがどこの国の言葉か全く判別できなかった。
だが、統の表情が、わずかに、しかし決定的に変化したのを今泉は見逃さなかった。
面倒くさそうな探偵の顔から、ひどく理不尽な事象に直面したような、微かな驚きと諦めの色へ。
(……おいおい。嘘だろう)
統は心の中で独りごちた。
どこの世界で、何度目の転移の際に聞いた言語だったかは即座には思い出せない。
だが、間違いなくそれは、地球上のどの辞書にも載っていない、統にとってひどく聞き覚えのある『異世界』の言語だった。




