2、嘘と妥協と揺れる尻尾
地球という星の、極東の島国にある地方都市。その交番の中で、私は完全に思考を停止させていた。
目の前のパイプ椅子に座る少女の口から紡がれる言語。それは間違いなく、私が過去に滞在したことのある、魔素に満ちた別次元の言語だった。
数千年の記憶の引き出しを漁るのも面倒なので詳細は割愛するが、要するに面倒な部類の迷子である。
彼女の言い分を要約するとこうだ。
新しく発見されたダンジョンにシーフ(盗賊)として挑んだところ、入り口付近の転移トラップを踏み抜いた。
気づけばこの見知らぬ街の路地に立っており、大通りへ出ると、魔法使いらしき少女が巨大なモンスターに襲われそうになっていた。
慌てて助けに入ったが、相手が祭りのための偽物の扮装であることに気づき、そこへ駆けつけた衛兵(警察官)に素直に同行した。
言葉が通じず途方に暮れていたところ、私という理解者が現れてひどく安心している。
完璧なまでのファンタジー世界の住人である。しかも生真面目で善人だ。
私の右手にある紙袋の中では、先ほど手に入れたばかりのお取り寄せ不可の『けし餅』が、刻一刻と最適な消費期限をすり減らしている。
このまま彼女の身の上話に付き合っていれば、皮の柔らかさは失われ、ほうじ茶との完璧なマリアージュは永遠に損なわれるだろう。
「……堤門さん? どうしました、黙り込んじゃって。やっぱり言葉、分かりませんか」
今泉が期待と不安の入り交じった目で私を見てくる。
「いや、おおよその事情は把握した」
私は極めて平坦な声で、脳内で一秒で構築した杜撰なカバーストーリーを口にした。
「彼女は京都の知人宅にホームステイ中の外国人だそうだ。このコスプレイベントのために矢吹町へ来たが、着替えや身分証を入れたバッグをひったくられたらしい。腰の刃物も、現地の露店で買った模造刀だと思い込んでいたようだ」
「なるほど! ひったくりですか、それなら辻褄が合う!」
今泉は手を打って喜んだ。
あまりにも都合の良い解釈だが、彼はこの厄介な事案を「単なる盗難被害と軽犯罪法違反の合わせ技」という、処理しやすい枠組みに落とし込めたことで安堵しているのだ。公僕の鏡である。
「そういうわけだ。では、後の書類仕事と京都への照会は、税金から給与を得ている君たちに任せよう。私はこれで失礼する」
私が踵を返した瞬間、今泉が血相を変えてカウンターを回り込み、私の行く手を塞いだ。
「ちょっと待ってください! 京都の知人だけじゃ何も調べようがないですよ! そのうち連絡が来るかもしれないとか、そんな無責任なこと言わないでくださいね!」
「無責任なのはお互い様だ。私はただの一般市民であり、通訳のボランティアすら終わらせた善良な納税者だぞ」
「探偵なんだからなんとかしてくださいよ! こっちで保護するとなったら、二十四時間体制で監視して、家庭裁判所の手続きとか、言葉も通じないのにひたすら面倒なんですよ!」
「今泉君、いま自分から職務放棄の理由を大声でぶっちゃけたな」
「俺と堤門さんの仲じゃないですか! 頼みますよ!」
「ただの顔見知りだ」
私が冷たく切り捨て、交番の引き戸へ手を伸ばそうとした時だった。
私のコートの裾を、小さな手が強く握りしめた。
「tyutyumi! tyutyumi! ヤta セ maハ ?」
見下ろすと、パイプ椅子から立ち上がった銀髪の少女――スズナと名乗った彼女が、私の衣服を掴んで離そうとしない。
この世界は極端に魔素が少ない。そのため、かつて真祖と呼ばれた私から微かに漏れ出る魔素の気配を、彼女は無意識のうちに嗅ぎ取り、絶対的な安全地帯として認識してしまったらしい。
彼女の丸い目は、私に対する全面的な信頼と依存で満ちていた。
おい、尻尾は振るな。さすがに変だと思われるぞ。
この手を物理的に引き剥がし、泣き喚くであろう彼女を今泉に押し付け、背後から浴びせられるであろう非難の声を無視して帰宅する。
その一連の肉体労働および精神的摩耗を計算した結果、私の脳は「とりあえず事務所に連れ帰る」という、長期的には面倒だが短期的には極めて効率的な選択肢を弾き出した。一応、異世界からの来訪者にも慣れてはいる。
何より、これ以上ここで時間を浪費すれば、けし餅が完全に乾燥してしまう。
「……今回だけだ」
私が深い溜息とともにそう告げると、今泉は深々と頭を下げ、スズナは破顔した。
こうして私は、右手にけし餅の紙袋を、左手に異世界から来たネコミミのシーフを連れて、自らの平穏な事務所へと帰還する羽目になったのである。




