2、オレンジジュース
夜の矢吹町を、極めて非日常的な集団が歩いていた。
先頭を意気揚々と歩くのは、無駄に派手なスーツを着た自称二十二歳のホスト。
その後ろを、十九歳の女子大生が十歳の男児の手を引いて歩き、最後尾を、不機嫌な顔でポケットに手を突っ込んだ年齢不詳の探偵がついていく。
すれ違う酔客や客引きたちが、一様に怪訝な視線を向けてくる。私の長い人生において、ここまで統制が取れておらず、かつ視覚的に不快なパーティ編成は記憶にない。
「所長、俺の裏社会ネットワークを舐めないでくださいよ。さっき知り合いの黒服や同業に連絡を回したんスけど、溝鹿建設のヤバい噂、結構入ってきましたからね」
狗村保が、自身のスマートフォンを誇らしげに掲げて振り返った。琴巴の感心を買うためなら、彼の行動力は時として諜報機関をも凌駕する。
その情報源の大半が、キャバクラ嬢やその太客からの又聞きという極めて信憑性の薄いものであることを除けば、だが。
「……それで、君のその薄っぺらいネットワークは、何を捉えたのだ」
「溝鹿建設、表向きは二部上場の優良企業ってことになってますけど、実態はかなり黒いッスよ。資材の横流しに、産廃の不法投棄。下請けの土建屋を安くこき使って、利益を特定の幹部だけで回してるって専らの噂です」
保の言葉に、琴巴に手を引かれていた駿平が弾かれたように顔を上げた。
「嘘だ! お父さんの会社はそんなことしない! お父さんはいつも、会社のみんなは家族だって言ってたんだ!」
「あ、いや、ごめん。俺も聞いた話だから……」
駿平の痛切な叫びに、保は慌てて口を噤んだ。
十歳の児童にとって、父親の会社が悪事に手を染めているという事実は、直視するにはあまりに過酷だろう。だが、客観的な情報と駿平の証言をすり合わせれば、事態の輪郭は極めて容易に浮かび上がる。
今後の親子関係のためにも、一応のフォローは入れておこう。
「怒ることはない、駿平くん。君の父親が嘘をついていたわけではないのだろう」
私は歩きながら、極めて事務的に告げた。
「ただ、経営者として致命的に脇が甘く、そして無能だっただけだ」
「所長! 言い方というものがあるでしょう!」
琴巴が私を鋭く睨むが、私は事実を述べているに過ぎない。
家族経営という幻想に酔いしれ、周囲の人間すべてが自分と同じ善意で動いていると錯覚する。
そんな底抜けの善人は、悪人よりもはるかに性質が悪い。悪人は自身の利益のために合理的に動くが、無能な善人は周囲を巻き込みながら、ただひたすらに状況を悪化させるからだ。
「目的地に到着したようだ」
私の視線の先、ネオン管の半分が切れた古びた看板が、雑居ビルの二階で力なく明滅していた。
スナック『夜鳴き鳥』。
急な階段を上り、重い木製のドアを開ける。
店内はひどく埃っぽく、長年染み付いた紫煙とアルコールの匂いが空気を重くしていた。カウンターの奥でグラスを磨いていた五十代半ばと思しき着物姿の女性が、私たちの集団を見て怪訝な顔をした。
「いらっしゃい。……随分と珍しい組み合わせのお客さんね」
私はカウンター席に腰を下ろし、深い疲労と共に胸ポケットからハイライトの箱を取り出した。指先で一本引き抜き、唇に咥える。
「ちょっと、あんた!」
ママと呼ばれた女性が、血相を変えてカウンターから身を乗り出した。
「うち、先月から全席禁煙にしたのよ! 表のステッカー見なかったの!?」
「所長! 子供の前ですよ、信じられません!」
「そうッスよ所長! 児童虐待ッスよ!」
ママ、琴巴、保の三方向から一斉に非難の集中砲火を浴びた。
元風俗街の片隅にある場末のスナックが、健康増進法の波に飲まれてコンプライアンスを遵守している。この国の文化的な歪みには頭が痛くなる。
私は無言で煙草を箱に戻し、極めて不本意ながら事の経緯をママに説明した。
ママは駿平の顔をまじまじと見つめ、小さく息を呑んだ。
「……本当に、駿平くんなの。社長がいつも、嬉しそうに写真を見せてくれたから、すぐに分かったわ」
ママは駿平の前にオレンジジュースを置くと、手元のグラスを磨く手を止め、伏し目がちに語り始めた。
「社長が最後にこの店に来たのは、四日前の夜よ。……ひどく落ち込んでいたわ」
「権田専務の不正に気づいた、というわけか」
「ええ。決定的な証拠を見つけたって、このカウンターで子供みたいに泣いてね。私は、すぐに警察に行くべきだって言ったのよ」
ママは言い淀み、濡れた布巾で無意味にカウンターの同じ場所を何度も拭き始めた。
「でも、あの人は首を縦に振らなかった。……『家族だからこそ、私が直接彼らを説得して自首させる』って」
「は」
私は短い冷笑を漏らした。
「権田とかいう男が、そんな感傷的な説得で自首するような人間であれば、最初から不正など働いていない」
「私もそう言って止めたわ。でも社長は店を出て行って……それっきりよ。人が良いにも程があるわよね。おそらく権田たちに捕まって、会社の全権を譲る書類にでも無理やりサインさせられそうになっているんじゃないかしら。でも、私にはどこにいるのか見当もつかない」
完全に手詰まりだ。
心当たりのない場所を自力で探し回るなど、私の最も忌避する肉体労働である。依頼金三百七十円分は十分に働いた。おおよその経緯は判明したし、適当な理由をつけて警察に丸投げしようと決意した、まさにその時だった。
背後のドアが開く音がした。
「邪魔するぜ、ママ。今月の組合費の集金に……おや」
入ってきたのは、仕立ての良いスーツを着た険しい顔つきの男だった。
高階市の裏社会を仕切る指定暴力団『鬼面組』の若頭、鷹司蓮司である。
みかじめ料、もとい、商店街の組合費の徴収という地道な業務の最中だったらしい。彼は私を一瞥すると、即座に極道としての威圧感を消し去り、恭しく頭を下げた。
「これは、堤門さん。奇遇ですな。このような店で何を?」
「少々、厄介な人探しをしていてね。蓮司、権田という土建屋の専務に心当たりはないか」
私の問いに、蓮司は鋭い目をさらに細めた。
「溝鹿建設の権田ですか。……あいつは、うちのシマでもたちの悪い下請け『鮫島組』を頻繁に使っています。素人に平気で暴力を振るうような、品のねえ連中です」
「その鮫島組だが、大の大人を数日間、誰にも気づかれずに監禁できる場所を持っていたりするか」
蓮司は少し考え込み、やがて低い声で答えた。
「監禁ですか? まぁ組事務所ですかね……あとは……溝鹿の権田絡みだと、隣町の駅前にある第七バンビーナって言う雑居ビルです。溝鹿建設が施工し、来週には取り壊しが決まっている物件だ。防音シートで完全に覆われている上に、夜間は誰も近づかない。人を隠すにはうってつけの場所です」
「ビンゴッスね!」
保が間抜けな声を上げたが、蓮司の表情はひどく険しいものだった。
「旦那、行くなら急いだ方がいいかもしれません。鮫島組は最近、うちへの上納金が滞るほど金に困っている。権田から急かされれば、監禁されてる奴の命を奪って、コンクリートの基礎にでも埋めかねない連中です」
琴巴が短い悲鳴を上げ、駿平がオレンジジュースのグラスを両手で強く握りしめた。
暴力に躊躇のない素人集団。命のタイムリミット。
極めて面倒な状況だ。
だが、私の胸の奥で、ひどく冷たい好奇心が頭をもたげていた。
数千年の歴史の中で、数え切れないほどの欲望と裏切りを見てきた私にとって、「従業員は家族」などと本気で信じて裏切られ、自ら死地に赴くような男の存在は、天然記念物にも等しい。
二百年の長きにわたりこの資本主義の地球で生きてきたその男が、絶望の淵でどのような顔をしているのか。ほんの少しだけ、この目で確かめてみたいという衝動に駆られたのだ。
「仕方ない、行ってくるか」
私はソファから立ち上がった。
が、コートの裾を琴巴が掴んだため、不恰好な中腰になってしまった。
「所長! あとは警察に任せた方が」
裾を引き戻す。
「確実じゃない。時間が掛かりすぎる」
「じゃ、私も行きます!」
「足手まといだ。君たちはこの全席禁煙の健全な店で、オレンジジュースでも飲んで待機していなさい。保、君は琴巴くんと駿平くんの護衛だ」
「護衛」という言葉に、保は分かりやすく胸を張った。
私は蓮司から取り壊し前のビルの正確な住所を聞き出すと、一人で店を後にした。
夜の冷たい空気が、頬を撫でる。
上空の魔素が、静かに地表へと降り注いでいた。
「さて……底抜けの善人の顔でも拝みに行くとしよう」
私は誰に言うでもなく呟き、極めて非生産的だが、ほんの少しだけ興味を惹かれる労働へと足を踏み出した。




