1、栗羊羹
矢吹町の夜は早い。と言っても、太陽がこの街の真上だけ足早に通り過ぎていくわけではない。歓楽街であるこの街では、真っ当な給与所得者たちが帰宅の途につく前から、居酒屋や風俗店がすっかり夜の準備を終えて蠢き始めているのだ。
そんな街角に立ち、私は手の中の物体を見つめて呆然としていた。
二本の缶コーヒー。
そして、そのどちらもが『無糖・BLACK』である。
目の前にある自動販売機のダミー缶には、しっかりと『ミルクコーヒー』と印字されている。ご丁寧に、横を向いた乳牛のイラストまで添えられて。
だが、そのボタンを押して排出されたのは、漆黒の缶に巨大な白抜き文字でBLACKと刻まれた、極めて攻撃的な液体だった。
一本目の過ちに気づき、隣の同じボタンを慎重に押した結果がこれである。致命的なシステムエラーだ。
私は深くため息を吐き、自販機横のくすんだガラス戸を開け、我が探偵事務所が入る雑居ビル『Mストーク』へ足を踏み入れようとした。
その時、視界の端に極めて異質なものが映り込んだ。
ランドセルを背負った、小学生の男児である。
普通の住宅街であれば、奇妙でも何でもない光景だ。だがここは矢吹町であり、大通りから一本外れた裏道である。通学路に指定されているはずもなく、学習塾の類もない。
徹底して無視を決め込むのが、最も効率的な自己防衛である。しかし、もしこの児童がここで何らかの事件に巻き込まれでもしたら、第一発見者や目撃者として警察の長時間の事情聴取に付き合わされるリスクがある。
それは私の人生において、ひたすらに忌避すべき無駄な労働だ。
私は仕方なく踵を返し、その小さな背中に声をかけた。
「道に迷ったか?」
男児は肩を強張らせて振り返った。年齢は十歳前後だろうか。着ている衣服はやたらと奇抜で、まるで小学二年生の女児が画用紙に描いた『さいきょうのドレス』を無理やり三次元の男児用に具現化したような、ひどく落ち着かないデザインのシャツと半ズボンを身につけている。
彼は私を下から見上げ、警戒心を露わにした。
「……迷ってません」
「そうか。ではこんな場所で何をしている。君のその前衛的な装いは、この街のひねくれた大人たちの劣情を煽りかねない。さっさと帰宅することをお勧めする」
私の忠告に、男児は不満げに顔を歪めた。
私は手の中にある、忌まわしい黒い缶を一つ差し出した。
「飲むか? 新手の押し売りコーヒーだ」
「……僕、コーヒーは飲めないので」
男児は怪訝な顔で首を振った。大人の事情を察しない、ひどく率直な拒絶である。
私は大人げなく責任を転嫁し、二本のブラックコーヒーを仕方なくコートのポケットにねじ込んだ。
彼をこのまま放置するわけにはいかない。「とりあえず安全な場所へ案内してやろう」と嘘はつかずに彼を促し、薄暗いビルの階段を四階まで上った。
事務所のドアを開けると、今日も押し掛けアルバイトの虎見澤 琴巴が、私のデスクで勝手に大学の課題を広げていた。
彼女はこちらを一瞥すると、私の背後にいる男児と、私のコートのポケットから覗く缶コーヒーを交互に見比べた。
「所長。……私の淹れるコーヒーより、随分とそのブランドの缶コーヒーがお好きなんですね」
琴巴の口調に、微かな棘が混じる。
彼女は私が『こだわりの無糖コーヒーを愛飲する渋い男』であると決定的な勘違いをしている。
誤解を解く労働すら面倒なので、私は沈黙をもって肯定の代わりとした。
「とりあえず、彼を適当に保護して交番へ連れて行ってやってくれ。私はひどく疲れている」
私がソファに男児を座らせると、琴巴は手慣れた様子で給湯室へ向かった。
そして彼女が男児の前に差し出したのは、冷たい麦茶と、小皿に乗った美しい琥珀色の塊だった。
私のデスクの一番下の引き出しに、厳重に秘匿されていたはずの老舗和菓子屋の特製栗羊羹である。
私は声を上げそうになるのを必死に堪えた。
数少ない私の日々の潤いが、今まさに十歳の児童の胃袋へ消えようとしている。
「これ、食べていいんですか?」
「ええ、どうぞ。迷子で疲れちゃったでしょう?」
「ありがとうございます」
男児は上品に一礼すると、私の栗羊羹を躊躇なく口に運んだ。育ちの良さが窺える所作だが、私の精神的ダメージが軽減されるわけではない。
人心地ついたのか、男児は壁に掲げられた『堤門探偵事務所』のプレートを見上げ、目を輝かせた。
「ここ、探偵の事務所なんですか?」
「いかにも」
「じゃあ、人を探したり、困っている人を助けたりするんですよね。テレビで見たことがあります」
「テレビの脚本家は、現実の資本主義を著しく美化する傾向にある。我々は対価と引き換えに調査を行う、ただの営利企業だ。正義の味方ではない」
私の冷や水のような正論に対し、男児――溝鹿駿平と名乗った彼は、ランドセルを下ろし、ズボンのポケットに手を入れた。
そして、デスクの上に硬貨を並べた。
百円玉が三枚。五十円玉が一枚。十円玉が二枚。
合計、三百七十円である。
「これしかありませんが、お願いします。お父さんを探してください」
ひどく真剣な眼差しだった。
「君は、現代社会における探偵の労働単価を著しく見誤っている。その金額では、先ほど君が食べた栗羊羹の一切れ分にも満たない」
「所長! 子供相手に何を言ってるんですか!」
琴巴が私の背中を鋭く叩いた。
駿平の話によれば、父親――溝鹿 洋造は中堅の土建会社『溝鹿建設』の社長なのだという。
数日前から急に家に帰ってこなくなり、駿平の母親は「いつもの大人の家出よ」と意に介していない。警察にも一応相談したようだが、事件性がないと判断され、全く本腰を入れていないらしい。
駿平は今日、学校の帰りに少し遠回りをしてこの矢吹町へやってきたのだという。父親の書斎のゴミ箱から、この街にある『夜鳴き鳥』というスナックのマッチ箱を見つけたからだ。
「お父さん、よくそのお店の名前を出してたから。何か分かるかもしれないと思って」
十歳児にしては論理的な思考回路だが、私の労働意欲を刺激するには決定的に何かが足りない。
「身代金の要求もない。会社の方でも大騒ぎになっていないのなら、営利誘拐の線は薄い。単に経営の重圧から逃げ出して、どこかの温泉宿で羽を伸ばしているだけだろう。交番へ行くぞ」
私がそう断言し、忌まわしいブラックコーヒーのプルタブに指をかけた、その時だった。
勢いよくドアが開かれ、安っぽい香水の匂いが室内に吹き込んできた。
「ちわっス! 琴巴ちゃん、今日も可愛い——って、あれ?」
近隣のホストクラブで働く自称二十二歳、狗村保である。
彼はソファに座る駿平の姿を視界に収めるなり、ひどく狼狽した表情を浮かべた。
「しょ、所長! まさかそいつ、少年探偵ってやつスか!? 俺という優秀な助手見習いがいるのに、新しいポジションを採用したんスか!」
「君の脳内における探偵の概念は、昭和の児童文学から一歩もアップデートされていないようだな」
私は事務的に溜め息をついた。
琴巴が保に駿平の事情を簡潔に説明すると、保は即座に首を縦に激しく振った。内容など二の次で、琴巴の意見に全面賛成するのが彼の行動原理である。
「許せねえ! お父さんを探してやろうぜ、所長! この俺の裏社会ネットワークを駆使すれば、矢吹町のホステス情報なんて一発ッスよ!」
「そうですよ、所長。見過ごせません。私が保護者代わりに付き添いますから」
お節介な女子大生と、的外れな対抗心を燃やすホスト。そして、三百七十円を握りしめた十歳の小学生。
狭い事務所に充満した彼らの熱量を前に、私の平穏な一日は完全に終わりを告げた。
「……行くぞ」
私は冷めきったブラックコーヒーを胃に流し込み立ち上がった。
この時点で気づくべきだった。この依頼が370円で済まないことに。




