5、蹂躙
そして、今。
埃っぽい廃工場の空気と、肌に食い込むナイロンロープの安っぽい感触。
車の移動時間を合わせれば、私が拉致されてからおよそ一時間が経過している。効率を優先して大人しく運搬されてやったものの、この無益な拘束時間は私の人生――正確には人生的サムシング――において、ひたすらに非生産的な損失でしかない。
ああ、本当に煙草が吸いたい。
先ほどから、胸ポケットのハイライトの箱が、物理的な実体を持って私を誘惑し続けている。
こんな事なら箱だけでなく、バラで煙草を【収納】に入れておくんだった。箱を一つの個体と認識して収納したため、中身の煙草だけを部分的に引き出すことができない。
無理に取り出せば、口にハイライトの箱を丸ごとくわえるというひどく滑稽で非知的な姿を晒すことになる。
思考の沼に沈みかけていた私の耳に、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
工場の奥、錆びた鉄扉が軋んだ音を立てて開く。
現れたのは、私をここまで運んできた末端の労働者たちと、その中心に立つ、仕立ての良い――しかし趣味の悪い――スーツを着た男だった。
彼が、この半グレ集団のリーダーだろう。三十代半ば、顔には隠しきれない焦燥と、安っぽい全能感が同居している。
「おい、探偵さんよ。状況は理解できたか」
リーダー格の男が、私の椅子の脚を爪先で蹴った。
私はゆっくりと瞼を持ち上げる。闇に慣れた私の目には、彼の毛穴の汚れまでもが不愉快なほど明瞭に映っていた。
「こんばんは。拘束具の食い込み具合から察するに、あまり歓迎されているとは言い難い状況のようだが」
私は意識を取り戻した人間の演技を交えつつ、極めて事務的な声を絞り出した。
「減らず口を。……兎我野玲奈はどこへやった」
「さあね。私の事務所の優秀でひたすらにお節介なアルバイトの元へ向かったはずだが。今頃は、警察へ保護を求めているか、あるいは美味しい紅茶でも飲んでいるのではないかな」
「てめえ……!」
男の顔が怒りで歪んだ。彼は懐から黒光りする金属の塊を取り出し、私の額に力任せに押し付けた。
自動拳銃だ。蓮司の忠告通り、彼らは実銃を所持していたらしい。現代日本の治安維持能力も、彼らのような存在の前では形骸化していると言わざるを得ない。
「とぼけるな。あの客が玲奈に託した『データ』はどこにある。吐かなければ、その冴えない頭を吹き飛ばすぞ」
冷たい銃口の感触を肌で味わいながら、私は小さくため息をついた。
額に押し付けられた銃口。背後の男たちが手に持つ特殊警棒。
普通であれば、この状況は決定的な暴力の行使と絶対的な死を意味するのだろう。だが、私にとっては、それはあまりに稚拙で退屈な、子供の遊戯に過ぎない。
しかも今は夜だ。上空の魔素が地表へと降り注ぎ、私の肉体は完全に人外の領域へと回帰している。この程度の鉛玉が、私の皮膚を貫通することすら叶わない。
しかし、至近距離で発砲されれば、硝煙と多少の飛び散る血肉で私の服が汚れる。それは極めて非効率だ。クリーニング代がかさむ上に、琴巴に不必要な心配をかけ、言い訳をするという労働が発生してしまう。
「……もう、いいか」
私は誰に言うでもなく呟いた。
次の瞬間、私の両手を縛っていたナイロンロープが、まるで限界まで乾燥したパスタのように、何の抵抗もなく弾け飛んだ。
「な、……!?」
男たちが驚愕に目を見開く。
私はゆっくりと椅子から立ち上がり、額に押し付けられた銃口ごと男を、人差し指で静かに押し返した。
「交渉の決裂だ。君たちの稚拙な暴力に付き合うのは、もう飽きた」
屈辱とパニックに顔を引きつらせたリーダーが、反射的に引き金を引いた。
発砲による火薬の破裂音が、狭い廃工場に轟く。
だが、その光景は私の目にはひどく緩慢に映っていた。銃口から吐き出された閃光と、空気を切り裂いて私の眉間へと迫る鉛色の弾頭。
「【収納】」
私は無機質な声で告げた。
私の周囲五メートルに展開された、時間すら停止する異次元の空間。
飛来した銃弾は、私の眉間からわずか数センチの空中で、まるで透明な分厚い壁に衝突したかのようにピタリと静止した。運動エネルギーのすべてが次元の彼方へ飲み込まれ、そのまま空間から綺麗に消失する。
「は……?」
男の喉から、間の抜けた音が漏れた。
彼は自分の握る銃と、無傷のまま立っている私の顔を、理解不能なものを見る目で交互に見比べている。
「バ、バケモノか……!」
背後にいた末端の男が、ついに恐怖に耐えきれず悲鳴を上げた。
「失礼な。バケモノではない」
私は彼らを見下ろし、冷たく言い放った。
「強いて言うなら、『古き者』だ。まあ、人類の歴史の中で、真祖の吸血鬼などという不愉快な呼ばれ方をした時期もあるがな」
皮肉げに唇を歪めながら、私は空間に手を入れた。
次元収納の奥底から引きずり出したのは、無造作に掴み取った数枚の硬貨だ。
どこの世界のものだったか。何度目の転移の際に手に入れたものだったか。私の長い記憶の引き出しを漁っても、すぐには思い出せない。ただの重い金貨だ。
今の地球の日本において、貨幣としての価値は皆無に等しいが、物理的な質量と硬度だけは十分に備わっている。
私は親指の爪に硬貨を乗せ、彼らに向けて無造作に弾いた。
その瞬間、世界が再びスローモーションに切り替わる。
私の指先から放たれた数枚の硬貨が、薄暗い工場のわずかな光を反射して黄金の軌跡を描く。
それらは空気を鋭く切り裂きながら、圧倒的な質量兵器となって男たちへと殺到した。
直後、物理法則が暴力的に追いつく。
散弾銃を至近距離で浴びたかのような破壊力が、男たちの肩や太腿を容赦なくえぐった。肉が裂け、骨が砕ける。
先ほどまで私を囲んでいた男たちの身体が、見えない巨大なハンマーで殴られたように後方へ吹き飛び、コンクリートの床に無様に転がった。
「あ、ぎゃああああっ!!」
遅れて、絶叫が工場内にこだまする。
リーダーの男も例外ではなかった。右肩を完全に粉砕され、拳銃を取り落とした彼は、血溜まりの中で痙攣していた。彼の脳は、目の前で起きた現象――撃ったはずの銃弾が消え、男が弾いたコインに肉体を破壊されたという事実――を処理しきれず、完全にショートを起こしている。
「あ、あ……うそだろ、なんだよ、お前……」
彼は肩から大量の血を流しながら、這いつくばって後ずさりしようとした。先ほどまでの傲慢さは微塵もなく、そこにあるのは、理解の及ばない捕食者を前にした脆弱な獲物の姿でしかない。
「ひぃっ、来るな! 頼む、金なら払う、なんでもするから、殺さないでくれ……!」
涙と鼻水に顔を濡らしながら、彼は必死に命乞いを始めた。
「安心しろ。命まで奪うと、その後の清掃や死体の処理がひたすらに面倒だからな」
私は彼の傍らにしゃがみ込み、床に広がる彼の血だまりに、静かに指先を浸した。
「【リード】」
他人の血に触れることで、その記憶を――本人が意識していない記憶まで――読み取る能力。
彼の脳内から、膨大な記憶の断片が私の意識へと直接流れ込んでくる。
……昨日パチンコで負けた苛立ち。
……中学生時代に書いた痛々しいポエム。
……彼らが玲奈に対して抱いていた、身勝手な欲望と執着。
……彼らの背後にいる、半グレ集団の陳腐な組織図。
……消えた客がデータを隠したと思われる場所。
目的のデータに辿り着くまでに流れ込んでくる無駄なノイズの処理は、ひたすらに脳のメモリを浪費する。
これだから他人の脳内など覗きたくないのだ。
とりあえず必要なデータはすべて把握した。
「なるほど。例のデータは、居酒屋の裏にある、古い配電盤の中か。君がちゃんと推理していれば自ずと解ったはず」
私が事務的な声で結論を口にすると、男は絶望に目を見開き、そしてついに痛みに耐えきれずに意識を手放した。
「君たちのくだらない勘違いのせいで、私は貴重な時間を無駄にした」
私は男の血で汚れた指先を、彼の高級そうなスーツの襟で丁寧に拭き取った。これで私の労働は終わりだ。事後処理は、警察か鬼面組の連中にでも任せておけばいい。
工場の外へ通じる鉄扉を開けると、夜空には無機質な月が浮かんでいた。
私は胸ポケットからハイライトの箱を取り出す。指先で器用に煙草を一本引き抜き、唇に咥える。
ライターの火が、煙草の先端を赤く染める。
紫煙を深く肺に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
不死ゆえの退屈と、現代社会の雑音。そのすべてが、煙と共に、夜の闇へと消えていく。
さて、帰路につこう。
私の帰りを待ち構えているであろう、うるさいアルバイトと自称探偵見習いを適当にあしらった後、ミルクをたっぷりと入れたコーヒーを飲みながら、上方落語を聴くのだ。
それが、七千年を生きる私の、今のささやかな至福なのだから。




