4、誘拐
太陽が高階市の雑居ビルの向こうへ沈み、空が鈍い藍色に染まり始めた。
上空に滞留していた微小な魔素が地表へと降りてくる時間帯だ。私の肉体は、昼間の不完全な状態から本来の絶対的な安定へと移行しつつある。
もっとも、街の半グレ集団を相手にする程度で、七千年以上を生きる私の身体が万全である必要など全くないのだが、それでもコンディションが良いというのは精神衛生上悪くない。
午後十一時。勤務を終えた兎我野玲奈が、足早に家路についていた。
彼女が選んだのは、駅前の喧騒から外れた人通りの少ない裏路地だ。硬いヒールの音が、不規則なリズムでコンクリートに響いている。
彼女は何度も背後を振り返り、自身の影が街灯に引き伸ばされるたびに肩を強張らせていた。極度の恐怖で呼吸が浅くなっているのが、離れた位置から尾行している私にもはっきりと伝わってくる。
路地の中腹、街灯の光が届かない暗がりに、不自然に停車している黒いワンボックスカーがあった。エンジンはかかったままだが、ライトは消えている。
玲奈がその横を通り過ぎようとした瞬間、重いスライドドアが勢いよく開け放たれた。
中から吐き出されるように三人の男が滑り出てくる。
彼らは無言のまま玲奈の進路を塞いだ。
玲奈の動きが完全に硬直する。
声帯が恐怖で麻痺し、悲鳴すら上げられない。
男の一人が無造作に手を伸ばし、彼女の細い腕を乱暴に掴んで暗い車内へ引きずり込もうとした。
「こんばんは。夜道での強引な勧誘は、現代の法律に照らし合わせると極めてリスクの高い行為だと思うのだが」
私が極めて事務的なトーンで背後から声をかけると、男たちの動きが停止した。彼らの敵意に満ちた視線が、一斉に私へと向けられる。
「誰だお前、引っ込んでろ」
先頭に立っていた男が、懐から鈍く光る金属製の短い棒を取り出した。特殊警棒だ。背後の車内からも、さらに二人の男が降りてくるのが見える。
ここで彼らを物理的に破壊するのは容易い。指先一つで首の骨を折ることも、顎を砕くことも可能だ。
しかし、末端の労働者を何人か処理したところで、事態の根本的な解決には至らない。残党が再び玲奈を狙うだろうし、何より彼らのアジトを私自身が足を使って探さなければならなくなる。
それは想像するだけで明確な疲労感を覚えるほどの、極めて非生産的な重労働だ。
最も効率が良いのは、彼らが自発的に私を組織のトップの元へ案内してくれることである。
自分の足でアジトを探し回るなど、カロリーの無駄遣いにも程がある。トランクでの移動は極めて不衛生だが、移動の手間が省けるという一点においては評価できる。
つまり、誘拐されるという受動的な移動手段の活用だ。
私は背後の玲奈を一切振り返らず、静かに告げた。
「兎我野さん。私の事務所へ走りなさい。琴巴がいる」
あのお節介なアルバイトなら、こんな時間まで無駄な残業をしているはずだ。
玲奈が躊躇う気配があったが、男の一人が私に向けて特殊警棒を全力で振り下ろしたことで、彼女は弾かれたように路地の出口へと駆け出した。
後頭部に硬質な衝撃が走った。
無論、私に痛みは全くない。
私の強靭な骨格は微塵も揺るがず、むしろ反作用によって殴った側の男の手首に深刻なダメージが返っている。
男は短い苦痛の声を漏らし、ひどく痺れた手から特殊警棒を取り落とした。彼が手首を押さえてうずくまる前に、私は人間としての適切な物理法則に従い、あえて膝から崩れ落ちる演技を採用した。
「くそ、女が逃げたぞ!」
「追うな、目立つ! こいつを車に積め。顔を見られた以上、ただじゃ済まさねえ。おい、手首どうした」
「わかんねえ、こいつの頭、鉄みたいに硬え……」
男たちの焦燥した声が頭上で交錯する。
極めて短絡的な判断だが、目撃者であり自身の計画を邪魔した得体の知れない探偵をこのまま放置するわけにはいかないらしい。完全に私の計算通りの行動だ。
意識を失った肉体の重さを正確にシミュレートしながら、私は車の冷たい金属製の床板の上へ転がされた。乱暴にドアが閉められ、外の空気が遮断される。
車内はひどく蒸し暑かった。染み付いた安煙草のヤニと、古い機械油の匂いが充満している。さらに、以前誰かを無理やり運んだ際のものだろうか、微かな血の臭いまで混ざり合っていた。お世辞にも快適な空間とは言えない。
タイヤが乱暴にアスファルトを蹴る振動が、床から直接私の身体へと伝わってくる。運転席からは苛立った会話と荒い息遣いが漏れ聞こえていた。
ここから先は、彼らが安全運転で私を目的地まで運搬してくれるのを待つだけだ。
劣悪な空気環境に顔をしかめながら、私は帰宅後に聴く落語の演目を「時うどん」にするか「ちりとてちん」にするか、ひたすらに平和な思考を巡らせていた。




