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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その7 中身違い

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9、「やはり苦いな」




 日向を壁へ叩きつける。

 肺から空気が抜ける鈍い音。だが完全には沈まない。腕を振り回し、爪を立て、床を蹴ってまた起き上がろうとする。

 質の悪い薬だ。雑に力だけを押し出して、痛みの認識を遅らせる。


 女の方がベッドから落ちた。

 熱に浮かされた目でこちらを見ているが、判断は残っていない。飢えと興奮だけが先に出ている。


 私は一瞬で距離を詰め、首筋へ手刀を落とした。軽い。意識は浮いていたぶん、落ちるのも早い。


 その隙に日向が倉庫の奥へ逃げかける。


「待て」


 待つわけがない。

 ラックの陰を回り込もうとしたところで、日向の足がもつれた。すでに薬の帳尻が合わなくなり始めている。出力だけ上げて、肉体が追いついていない。

 それでも必死に立て直し、今度は保冷庫へ手をかけた。


「証拠隠滅の趣味まであるのか」


「これは渡せない……!」


 扉を開けた瞬間、冷気が漏れる。

 中にはアンプルの箱と、小さな採血チューブ、それから記録媒体がいくつか並んでいた。

 日向はその一番奥のケースを掴み、床に叩きつけようとする。


 先に懐へ入った。

 手首を打つ。ケースが落ちる。蹴って遠ざける。

 日向はそのまま私に掴みかかってきたが、もう最初の速度はない。目の焦点が揺れ、口元に唾が浮き、皮膚の張りがみるみる悪くなる。

 見覚えのある崩れ方だった。朝まで持たない顔だ。


「こんなもの……本来なら、もっと完成に近かった……!」


「町でやるな」


「必要な犠牲です!」


「お前が言うな」


 膝を入れる。男の体がくの字に折れる。

 その後頭部を、保冷庫の側面へ軽く打ちつけた。軽くで十分だった。


 日向は崩れ落ち、そのまま床で荒い呼吸だけを続けた。起き上がれる類の音ではない。


 静かになった倉庫で、冷却装置の低い唸りだけが残る。

 私はしばらくその場に立ち、もう動くものがないことを確認してから、床のケースを拾った。


 中にはUSBメモリ、簡易帳簿、アンプル管理表。

 覗いた紙片には、嫌になるほど事務的な文字が並んでいる。


 Y系 局所配布 反応観察

 高齢層 脚力・興奮 良

 若年女性 美容訴求 歩留まり低

 対暴力事例 出力良/崩壊早


 商品説明ではない。

 家畜市場でも、もう少し情がある。


 さらに奥のファイルには、社名でも病院名でもない、いくつかの送信先コードが残っていた。

 どれもここで完結する人間の書き方ではない。回収先が別にある。

 日向庫次は現場の手だ。頭ではない。



 倉庫の外へ出て、一度だけ電話をかけた。

 二度目の呼び出し音で、相手が出る。


『――烏丸です』


「私だ」


 数秒の間があった。

 それから受話器の向こうで、声の温度がわずかに変わる。


『御前でしたか。これは失礼いたしました。てっきり、もう少しどうでもいい用件かと』


「期待を裏切って悪かったな」


『いえ。御前から直々にご連絡が入る時点で、たいてい碌でもない話だと承知しております』


「理解が早くて助かる」


『光栄です。それで、今回は何を拾われたのです』


「面倒な医者を一人だ。場所は後で送る。回収と後始末を頼みたい」


 烏丸はすぐには返さなかった。

 断るかどうかではなく、どの程度の厄介事かを先に測っている沈黙だった。


『医者、ですか。表で処理できる類の人間ではない、と見てよろしいので?』


「難しいな。表で裁ける部分はある。だが、それだけで済ませると、あとで余計に増える」


『つまり、こちら向きの案件だと』


「そう取ってくれて構わない」


『御前が“頼みたい”などと仰る時は、たいてい断る方が高くつくのですよね』


「よく分かっているじゃないか」


『長い付き合いですので』


 そこで烏丸は一度だけ呼吸を置いた。

 向こうでも、すでに人と場所を動かす算段に入っている気配がある。


『規模を伺っても』


「矢吹町ひとつの騒ぎとしては十分。国ひとつの厄介事としては、たぶん入口だ」


『……それは、また。御前はいつも、報告を簡潔に済ませた結果として内容だけが重くなる』


「無駄話を削ってやっているんだ。感謝しろ」


『ありがたく存じますよ。こちらも余計な夢を見ずに済む』


「日向庫次。現場の手だ。頭ではない。倉庫にアンプルと記録が残っている。まだ回収先が別にある」


『承知しました。では、人を回します。現場の封鎖と対象の確保、証拠物の回収を優先すればよろしいですね』


「そうしてくれ。投与済みが一人いる。生きてはいるが、状態は良くない」


『保護対象として扱います』


「助かる」


 受話器の向こうで、烏丸がごく小さく笑った気配がした。


『御前がそう素直に仰ると、いっそ不吉です』


「相変わらず失礼な奴だな」


『上の機嫌には敏感なものでして』


「なら急げ」


『かしこまりました。位置情報をお待ちしております』


「送る」


『では、御前。どうかそれ以上、現場を増やされませんよう』


「善処する」


『それは期待しないでおきます』


 通話を切る。

 警察へ渡して終わる話ではない。少なくとも今夜は。

 表向きに処理できる部分と、そうでない部分を分ける人間が必要だった。



 倉庫へ戻り、女の呼吸を確認する。


 浅いが、生きている。今夜を越えられるかは分からないが、少なくとも日向の都合で薬を打たれた人間まで、ここで勝手に終わらせる気はなかった。


 回収箱に残っていたアンプルはすべて封をして、ケースごと持ち出す。床に散った分は靴底で砕いておいた。誰かが拾って都合よく使える類のものではないが、残しておく趣味もない。




 事務所へ戻ると、時計は日付を跨ぐ少し前を指していた。

 別室はようやく静かだった。よほどまともな順序で寝かしつけが成功したらしい。奇跡に近い。


 本室では、琴巴がソファで半分うとうとしていた。

 ノートを抱えたまま目を開け、こちらを見る。


「……おかえりなさい」


「帰ってなかったのか」


「一応、待機なので」


 待機というより、意地に近い顔だった。

 向こうの机では志織がまだ端末を閉じていない。


「どうでした」


 私はケースを机に置いた。


「線は止めた。注射も回収した。今夜の追加被害は、たぶんない」


 琴巴はそれ以上を聞かなかった。

 聞いても返ってこない範囲があることを、もう学んでいる。


「今泉さんから、あとで連絡がありました」


 彼女はノートを差し出した。


「ここ数日、すずらん通り裏の女の子たちが何人か急に姿を見せなくなってたみたいです。体調崩したって噂も。 たぶん……これ、ですよね」


「だろうな」


 短く答えると、琴巴は唇を引き結んだ。

 怒っているのか、気持ち悪いのか、まだ自分でも判別しきれていない顔だ。


「普通じゃないですね」


「今さらだな」


 彼女はノートを閉じた。


「今さらですけど……今さらでも、嫌なものは嫌です」


「その感覚は捨てるな」


 言うと、琴巴は少しだけ驚いた顔をした。

 たぶん、この事務所で長くやるには邪魔になると思っていたのだろう。実際、半分はそうだ。だが半分は、それがないとただの処理装置になる。



「スズナ様は眠っています。少年は帰しました。保さんが送って行ったようです」


 志織が静かに立ち上がり、机の上のケースを手袋越しに引き寄せた。


「日向庫次はどうしました?」


「回収を頼んだ」


 それだけで志織は察したらしい。余計な確認はしない。

 その代わり、ケースの中身を一瞥してから、ほんの僅かに眉を動かした。


「検体Y系、ですか」


「趣味が悪い」


「同感です」


 私はそこでようやく、収納から無糖ブラックを取り出した。

 朝、間違って出てきた缶だ。


 プルタブを起こす。

 音だけは妙に軽い。


 一口飲む。

 苦い。それで十分だった。


 机の上には、回収したアンプルと記録。

 別室には、事情を知らずに眠っている少女。


 町のどこかには、まだ回収しきれていない噂の残り滓がある。

 そしてその向こうには、日向庫次程度では終わらない、もっと大きな意志か、もっと小さくて醜い利権がある。


 矢吹町の流通ラインは、今夜で一度切れた。

 それで十分かと問われれば、もちろん足りない。

 だが世の中の仕事はだいたい、足りないところで一度終わる。そうでなければ、誰も眠れない。


 私は缶を机に置いた。


「やはり苦いな」


 甘い顔をしたものから、苦い方が出てくる。


 だが、妙に今夜に似合う味がした。




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