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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その7 中身違い

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8、「人間の顔をして言うな」




 町外れの古い配送倉庫へ向かう前、私は事務所で一度だけ机の上を片づけた。

 片づけたところで何かが整うわけではない。だが散らかった机は、判断まで濁す。


 志織は端末の前から顔も上げずに口を開いた。


「白いワゴン、三十分前に倉庫へ入りました。今のところ出ていません」


「人の出入りは」


「少ないです。業者は夕方で引いたようです。奥の区画だけ、まだ通電しています」


 琴巴はノートを抱えたまま、明らかに何か言いたそうな顔をしていた。

 言いたそうな顔と、聞いてはいけない気がする顔を同時にできるのは、ある意味で器用だと思う。


「私、やっぱり――」


「残れ」


 先に切った。


「分かってますよ」


 返事は少しだけふくれていたが、本気で食い下がる気はないらしい。

 今日の相手が、表の事件として追いかけていい種類を半分ほど踏み外していることくらいは、もう察しているのだろう。


「今泉から何か来たらまとめろ。保冷庫の業者か、近所の苦情か、どっちでもいい」


「はい。電話番と記録整理ですね」


「それと」

 私は別室の方を顎で示した。「向こうが静かすぎたら、それはたぶん碌でもない前兆だ。様子を見ろ」


 琴巴は眉をひそめた。


「そこを私にやらせるんですか」


「保を信用していない」


「その点は全面的に同意します」


 別室から、ちょうどその保の笑い声が聞こえてきた。

 続いて駿平の「だから今のは違うって言ってるだろ!」という切実な反論、さらにその上を行くスズナの無邪気な問い返しが重なる。

 文明の維持には、やはり志織が要る。


「御前」


 志織がようやくこちらを見た。


日向ひむか庫次くらつぐが単独でいるとは限りません。投与済みの対象が残っている可能性もあります」


「だろうな」


「保冷庫を見つけた場合、できる限り回収を優先してください。割られると面倒です」


「面倒で済ませるな」


「本音です」


 私は上着の内ポケットに手を入れ、薄い手袋を取り出した。

 こういう時、素手で触ると気分が悪いものが多すぎる。


 玄関まで来たところで、琴巴が小さく呼び止めた。


「統さん。あ、いえ所長」


 振り返る。


「……気をつけてください、くらいは言っておきます」


「殊勝だな」


「たまには普通の助手っぽいこともします」


「その方向性は守っておけ」


 そう返して外へ出た。

 階段を下りる途中で、収納の中に放り込んだままの無糖ブラックを思い出す。

 まだ飲んでいない。

 苦いものは後回しでいいと思っていたが、世の中はだいたい、後回しにした分だけ嫌な形でこちらへ戻してくる。




 倉庫は、古いくせにまだ完全には死んでいなかった。


 使われなくなった建物には二種類ある。完全に放置されて風雨に負けるものと、ぎりぎりの用途だけ残されて、かえってみすぼらしく長生きするものだ。ここは後者だった。


 表の搬入口は暗い。

 だが奥の一角だけ、シャッターの隙間から白い光が漏れている。冷蔵設備のある区画だろう。


 白いワゴンは脇に停まっていた。今泉のメモどおり、外見は実に普通だ。普通の顔をしているものほど中身が悪い、というだけの話である。


 裏手の通用口は施錠されていたが、施錠というのは、守る気がある相手にしか意味を持たない。

 音を殺して中へ入る。

 鼻についたのは、古い埃と消毒液、それから低温で保存された何かの匂いだった。あまり親しくなりたくない種類の清潔さである。


 足音はひとつ。

 話し声も、今のところひとつだけ。


 奥の区画へ近づくと、ラックに積まれた段ボールの陰から中が見えた。


 簡易ベッドが二つ。折り畳み机。保冷庫。医療用に見えなくもない白い箱が三つ。

 そして男が一人、ステンレスのトレーにアンプルを並べていた。


 日向庫次は、思っていたより小柄だった。

 痩せているせいで、白衣でも着れば余計に輪郭が薄く見えただろう。だが今日は地味なシャツに濃い色のベストで、病院よりは訪問販売に近い雰囲気をしている。


 顔は清潔だ。爪も整っている。

 人間を検体として扱う類の人種にありがちな、道具だけは無駄に丁寧な手だった。


「夜間診療にしては、設備が寂しいな」


 声をかけると、日向は飛び上がるでもなく、静かにこちらを振り向いた。

 驚きはしたらしい。ただし驚き方が小さい。慣れている人間の顔だった。


「……どなたです」


「苦情処理だと思ってくれ」


「それで裏口から入るんですか」


「表が好きなら、そういう商売はやめた方がいい」


 日向の視線がこちらを測る。

 警察か、組の人間か、あるいは別口の回収屋か。そういう分類を頭の中で走らせている目だ。


「もし薬が必要なら、今日はもう受付を終えています」


「そういう客に見えるか」


「見えませんね」


「結構だ。話が早い」


 机の上には、アンプルが四本。

 どれもラベルは簡素で、日付と記号だけが書かれている。

 そのうち二本には、見覚えのある頭文字があった。Y-7。

 趣味の悪い命名だ。


「日向庫次」


 名を呼ぶと、男は眉ひとつ動かさなかった。


「医師免許を持っていながら、こんな倉庫で元気の出る注射を売って歩く趣味でもあるのか」


「売って歩く、という言い方は乱暴ですね。私は必要な人間に、必要な処置をしているだけです」


「その必要の先で人が死んでいる」


「適応しなかったのでしょう」


 反射で殴ってもよかったが、一応は話を聞くことにした。

 人間は、自分が正しいと信じている時ほど勝手によく喋る。


「適応」


「世の中には、一般的な医療では届かない領域があります」


 日向は、まるで説明会でも始めるみたいな口調で言った。


「慢性的な疲労。機能低下。意欲の摩耗。年齢による失速。人はもっと、効率よく補強できるはずなんです。 ――無駄に老いる理由が、私には理解できない。私が扱っていたのは、その入口に過ぎません」


「入口だけ開けて出口を作らなかった結果が、老人みたいに萎んだ死体か」


「試作段階ですから」


「街を実験場にするな」


「実験場にした覚えはありません。需要が先にあっただけです。求められたから応じた。年寄りには脚力を。女には美容を。夜の連中には気力を。皆、自分から近づいてきた」


「立っていた女も、その“入口”か」


 日向は一度だけ視線を保冷庫へ滑らせた。

 否定しないのが答えだった。


「便利な媒介でした。路地で声をかけるのは、昔から効率がいい。本人たちにも利がある。少量で動けるようになる。見た目も崩れにくい。最初のうちは、ですが」


「薄井武史は適応しなかった」


「名前は知りません」


「犬塚紫乃は」


「仮名ならいくつもあります」


 正直だ。

 正直であることとまともであることは、ほとんど関係がない。


「久田野家に出入りしていたな」


 その瞬間だけ、日向の目がこちらをはっきり見た。

 ここが地雷だと分かりやすい。


「……そこまで辿りましたか」


「お前が採った血のせいで、町が荒れている」


「違う」


 日向は初めて、少し強く否定した。


「血のせいじゃありません。使い方の問題です。あれは非常に有望なサンプルだった。形質変化を伴わずに、出力だけを引き出せれば理想的だった。だから希釈した。分離した。反応層だけ抽出した。 ……あとは適応率の問題でした」


「検体Y」


 私が言うと、日向の唇がわずかに引き結ばれた。


「趣味の悪い呼び方だな」


「識別記号に趣味を持ち込む気はありません」


「人間に対しては持ち込め」


 机の横、簡易ベッドの方から、小さなうめき声がした。

 日向が一瞬だけそちらを見る。

 私も見る。


 ベッドの片方には、女が一人、横たえられていた。

 二十代前半くらい。腕には新しい穿刺痕。シーツの上で指先だけが落ち着きなく震えている。

 意識は半分しか浮いていない。だが、呼吸が浅く速い。嫌な変化の入り口だ。


「まだ打っていたのか」


「経過観察中です」


「人間の顔をして言うな」


 女の喉から、乾いた音が漏れた。

 暑い、と言ったように聞こえた。次いで、腹、と。

 十分だった。


 私は一歩踏み出した。

 日向も同時に動いた。だが患者の方ではなく、机の上のアンプルへ手を伸ばす。

 選んだのは、透明ではなく少しだけ濃い色の液体が入った一本だった。


「それ以上近づくなら、こちらも手段を選びません」


「医者の台詞ではないな」


「あなたの方も探偵には見えませんよ」


 日向はアンプルを自分の腕へ突き立てた。

 注射というのは、たいてい見ていて気分の良いものではない。特に、打つ理由が保身ならなおさらだ。


 押し込まれた液が消える。

 数秒の静寂。

 そのあと男の呼吸が変わった。


 目が開く。

 瞳孔がわずかに広がり、白目の縁が熱に浮かされたみたいに赤くなる。肩が持ち上がり、細い腕に不釣り合いな力が入る。

 成功ではない。失敗が、ほんの少し長く保っているだけだ。


「なるほど。適応していない人間に打つとこうなるわけだ」


「黙れ」


 日向が机を蹴る。トレーが飛び、アンプルが床へ散る。


 速さだけなら、たしかに普通の中年男ではない。だが動きは荒い。制御を捨てた力の出方だ。

 私は正面を外し、伸びてきた腕を取ってそのまま捩じる。骨が鈍く鳴った。

 悲鳴は出ない。代わりに、喉の奥で潰れた音がした。


 次の瞬間、背後のベッドでも女が跳ねた。

 シーツがずれ、細い体が反り返る。目が開く。まだ金色まではいかないが、焦点の合い方が人間のものではなくなり始めている。


 面倒が二つになった。




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