6、「最低ですね」
事務所へ戻るころには、夕闇がすっかり腰を据えていた。
別室からは、駿平が妙に張り切った声で何かを読み上げ、スズナが三分の一ほどしか真面目に聞いていない気配がする。そこへ保が要らない合いの手を入れ、そのたびに志織に訂正されていた。
教育と子守りと雑音が、壁一枚向こうで同時進行している。平和なようで、構成要素に不安しかない。
「御前、お帰りなさいませ。琴巴様も」
別室から出てきた志織が端末を二つ開いた。
ひとつは登記。ひとつは医療関係の公開情報。画面の並びだけで、ろくでもない方向へ話が進んでいると分かる。
琴巴は机の端にノートを開いて座っていた。交番帰りの顔はまだ少し残っているが、もう逃げる気はないらしい。表の仕事だけでも助手見習いとして踏みとどまる程度には、この事務所の空気に汚染され始めている。
「進展は」
「あります」
その一言の時点で、だいたい悪い。
志織が画面をこちらへ向ける。
「日向庫次。五十一歳。医師免許は実在します。取り消し歴なし。ただし、経歴はきれいに見えて、きれいではありません」
地方病院、短期勤務、個人クリニック、訪問診療、健康相談会社の嘱託、自由診療寄りの施設。
履歴書の行数だけは整っているが、どこにも根を張っていない。医者として使える最低限の看板を持ったまま、責任の薄い場所だけを渡り歩いてきた人間の経歴だった。
「まあ、嫌な感じの医者ですね」
琴巴が画面を見ながら眉を寄せる。
「嫌な感じの、で済めばましです」
志織は淡々と画面を切り替えた。
「白いワゴンの名義になっていた合同会社は、表向きには在宅ケア支援と健康器具販売。従業員二名。実体はほぼペーパーカンパニー。住所はレンタルオフィス。口座の動きも不自然です」
小口の入金が細かく散っている。
美容相談、疲労回復、栄養指導、在宅フォロー。名目だけがそれらしく並んでいるが、金額の刻みが妙に揃っていた。看板だけ取り替えて、中身は同じ商品を売っている時の動きだ。
「相手ごとに体裁だけ変えてる」
「はい。高齢者には元気が出る注射。若い女には美容。夜の街には気付けか、疲労回復。入口の言葉だけ変えれば、同じものでも売れます」
「最低ですね」
「効率はいい。その気色の悪さも含めてな」
私はそう言って、画面を指で叩いた。
別室で保が「俺もだいぶ教育向きだと思うんだけど」と、事実に反する発言をした気配がした。即座に駿平の「どこがですか」と刺々しい声が返る。
志織はそちらに目も向けない。慣れとは恐ろしい。
「もうひとつあります」
志織の指が別ウィンドウを開いた。
「過去の訪問先を洗っていたら、前件の依頼先と重なる出入りがありました」
琴巴が顔を上げる。
「前件、って……前の依頼人ですか」
「可能性が高い、という段階です」
志織はそこまでしか言わなかった。
言わなくていい。ここから先は琴巴に聞かせる話ではない。
私は椅子から腰を浮かせた。
「琴巴は残れ。どちらにしても出掛けるのは明日の早朝だ。学業を優先しろ」
「え?」
「電話番と記録整理。今泉から追加が来たら回せ。それだけでも助かる」
不満そうな顔はした。だが、反射で食い下がってはこなかった。その程度には、自分が踏み込んでいい範囲とそうでない範囲を覚え始めているらしい。
「……またそれですか」
「今回は本当にそうだ。危ないとかそういうことじゃなく、説明が面倒になる」
「全然安心できない説明なんですけど」
「安心する必要はない」
「ひどい」
「御前。私は」
志織が、こちらではなく別室の方へ一瞬だけ意識を向けた。
「明日は琴巴が来るまで、事務所を頼む」
「かしこまりました。生体資産の教育もありますし」
「そうしろ。保と駿平だけに任せると、二時間で文明が壊れる」
壁の向こうで、なぜか保だけが「俺そんなに?」と傷ついた声を上げた。聞こえていたらしい。
聞こえる耳を持っているだけ、まだ救いがある。
「ひとりで行くんですか」
琴巴が最後に聞いた。
「その方が早い」
「……分かりました。今泉さんから連絡が来たらまとめます。あと、記録も取っておきます」
「助かる」
そう返すと、琴巴は少しだけ居心地悪そうにした。褒められ慣れていないというより、この事務所で褒められると次にろくでもない仕事が飛んでくると学習しつつある顔だった。
翌朝。
久田野家へ向かう道程は、前より短く感じた。
距離ではなく、行く理由がはっきりしているからだろう。
前回は“何が起きているのか”を見に行った。
今回は“誰がそこから何を持ち出したのか”を確かめに行く。




