1、「今日は土産だけ持ってきたわけじゃないの」
土曜日の午前。
いつもの古びた自販機に、小銭を順番どおり流し込み、私はカフェオレのボタンを押した。
がこん、と鈍い音がして、無事に缶が一本落ちてくる。取り出し口からそれを拾い上げ、手の中で軽く重みを確かめる。
よろしい。正常に作動している。
私は機械を過信しない。
異世界の青空市で多数のオートマタが、水漏れする花瓶や、甘みの全くない桃を、誠実そうな声色で売っている景色に比べれば、日本の自販機は驚異的に誠実だ。だが、誠実と絶対は違う。
一本目が問題なく出たなら、缶コーヒー程度は備蓄しておいてもよい。次元収納に放り込むぶんには誰にも迷惑はかからないし、私の生活は概ね備蓄によって支えられている。
私は同じボタンを、もう一度押した。
落ちてきたのは、無糖ブラックだった。
「……」
しばらく無言で、黒い缶を見下ろす。
押し間違えてはいない。私はまだそこまで耄碌していないし、午前中から判断力が崩壊するほど寝不足でもない。少なくとも今日は。
つまり、表示と中身が一致していない。
些細な裏切りだった。だが、こういう小さな齟齬は妙に記憶に残る。甘い方を押したつもりで、出てくるのは苦い方。世の中にはそういう類の悪意がある。
カフェオレはその場で開けた。
ブラックの方は収納へ放り込む。苦いものは後回しで構わない。
私は雑居ビルの階段を上がり、いつもより少しだけ慎重に事務所の扉を開けた。
中は、予想どおり面倒そうな空気だった。
ただし、本室ではなく別室の方が少し騒がしい。
「駿平くん、それ僕の分じゃない?」
「保さんはさっき二つ食べましたよね」
「食べ盛りの青年にその言い方する?」
「あ! ボスだ!」
「スズナちゃん、待って、まだ出ちゃ駄目。今は大人の話だから」
「スズナは大人だぞ」
「そういう問題じゃなくて!」
戸一枚向こうから、そんなやり取りが聞こえてくる。
志織が、血の匂いのしそうな来客を見越して、子供と保を先に別室へ隔離したらしい。判断としては正しい。
扉を閉め直して本室を見る。
応接用の安ソファに、鬼面組十七代目組長・市堂 瑠衣が腰掛けていた。
対面には志織。どちらも声を荒げているわけではない。だが静かだからといって穏当とは限らない。極道の組長と感情を表に出さない式神が、互いに相手の綻びを探り合っている光景は、茶会というより陰湿な高等戦術に近い。
その中間で、琴巴だけが別種の困惑を顔に出していた。
机の上の大きな壺を覗き込みながら、まるで新種の生物でも見つけたような目をしている。
「お帰りなさいませ、御前」
志織がいつもの温度で言った。
瑠衣は私を見ると、少しだけ口元を和らげた。
「おかえり、統の旦那。遅かったのね」
「下の自販機が軽く裏切った」
「なにそれ」
「カフェオレの顔をしてブラックを出してきた」
「朝からあなたに喧嘩を売るなんて、命知らずな機械」
瑠衣はそう言って笑った。
こういう時の彼女は、組長の顔より先に女の顔が出る。普段はそれをきちんと畳んでいるぶん、こういう小さな綻びの方が却って目につく。
「で、これ何ですか」
琴巴が壺を指さした。
中身はうぐいす色のどろりとした餡で、その表面に白玉がいくつも半分だけ顔を出している。見た目だけなら、やや深めの湿地帯である。
「くるみ餅よ」
瑠衣が答えた。
「七百年の歴史ある銘菓よ」
「餅って言われると、もうちょっとこう……個体でいてくれるものを想像してました」
「可愛い感想ね」
「褒められてる気がしません」
「褒めてはいないから」
私は壺の中を覗き込んだ。
「そのままでも十分美味いが、私は上にかき氷を乗せる氷くるみが好みだな」
琴巴が振り返る。
「所長、そういう時だけ急に本気ですよね」
「食い物の話だからな」
「優先順位どうなってるんですか」
瑠衣が口を挟む。
「少なくとも、あなたのその上司は人間の生死より和菓子の方が反応がいいの」
「否定できません」
否定しなかったのは正しい判断だ。
なお、事務所にかき氷機はない。正確には、ないことになっている。
「じゃあ買ってきます」
保が別室から顔だけ出した。「俺、コンビニでロックアイスと――」
「保は座っててください。あなたが出ると、たぶん余計なものまで買ってきます」
志織が冷たく言い放った。
「ひどくない?」
「ひどくないです」
「じゃあ僕が行く」
と、今度は駿平の声が向こうから上がる。「そのくらい――」
「少年も駄目。君は生体資産――スズナと保の見張りを」
「見張りじゃない。護衛だ」
別室で、スズナが不満そうに言い返した気配がした。
どうやら、くるみ餅の小皿は既に向こうへ回してあるらしい。そうでもしなければ、甘味の気配だけで扉を開けてくる。
「氷かきは若いのに持ってこさせるわ」
瑠衣が私を見た。
「今日は土産だけ持ってきたわけじゃないの」
「だろうな。君が善意だけでこの階段を上がるとは思っていない」
「相変わらずひどい言い方するのね」
「事実確認だ」
「そこは“会えて嬉しい”くらい言ってくれてもいいでしょう」
「朝から気味の悪いことを言うな」
「冷たい」
言いながらも、瑠衣の声はどこか楽しそうだった。
その空気を、志織が無言のまま零度で切り落とす。私は面倒なので見なかったことにする。
瑠衣は一度だけ笑みを引っ込め、湯呑みに指を添えた。
「矢吹町の周辺で、妙な薬が流れてるの」
空気の温度が、一段落ちた。
私は手にしていたカフェオレを机へ置いた。
琴巴もさっきまでの和菓子顔を引っ込めて、姿勢を正す。
「覚醒剤とか、そういう既存のものと少し違うわ。飲んだ人間が妙に気が大きくなる。全能感が出る。すぐに攻撃的になる。力も、たぶん上がってる」
「たぶん、というのは」
「現物を押さえられてないから」
瑠衣は肩をすくめた。
「錠剤も粉も出てこない。売人の顔も見えない。ただ、妙な暴れ方をした人間の噂だけが積み上がっていくの」
彼女は続けた。
「うちの店で揉めた客がいてね。値段が高い高くない、払える払えない、そういうありがちな揉め方だったのよ。だから最初は、酔っ払いが少し面倒を起こした程度だと思ってた。でも、違った」
「違った?」
「急に切れたの。店の子を二人。止めに入ったうちの若いのを二人。まとめて叩きのめしたわ。固定してあるスタンドチェアを引き抜いて振り回して、一息でカウンターに飛び乗ったって」
私は何も言わなかった。
瑠衣の視線が、こちらの沈黙を確かめるように一度だけ止まる。
「目が、金色に光ってたそうよ」




