4、虎の尾
烏丸が事務所へ現れたのは、その日の夜だった。
京都から高階市まで、車を飛ばしてきたのだろう。
いつも通り無駄に仕立ての良いスーツを着込み、顔にはあの胡散臭い薄笑いを貼りつけている。人を苛立たせることに特化したような、実に完成度の高い表情だった。
「急なお呼び立てとは穏やかではありませんね、御前」
ドアを閉めるなり、烏丸は肩の埃でも払うような軽さで言った。
「しかも、お声の調子から察するに、あまり愉快な案件ではなさそうだ」
「察しが良いのは結構だ」
私はデスクへ腰掛けたまま答えた。
「その美徳を普段の会話にも少しは活かしたまえ。君の声を長く聞かされるのは苦痛だ」
「手厳しい」
烏丸はそう言いながらも笑みを崩さない。
だが、その目だけはすでに室内の空気を読んでいた。スズナの気配、志織の無表情、机上に置かれたままの資料。どうやら本当に、雑談を挟んでいる場合ではないと理解したらしい。
「それで。極上の手土産とは?」
「これだ」
私は引き出しから、あらかじめまとめておいたレポートを取り出し、彼へ向かって差し出した。
高鳩興隆の表向きの経歴。
そこへ繋がる不自然な継ぎ目。
通信履歴の解析結果。
そして、琴巴の尾行から深夜侵入に至るまでの推定経路。
烏丸はそれを受け取り、立ったまま数枚をざっとめくった。
最初の数行では薄ら笑いを保っていたが、通信ログのページへ差しかかったあたりで、口元から完全に色が消えた。
「……これは、確かな情報ですか」
「私の情報収集能力を疑うなら、その紙を置いて帰って構わないぞ」
「まさか。疑ってはいません」
烏丸は目線を紙面へ落としたまま言った。
「ただ、あまりにも質が悪い」
「私もそう思う」
室内に、わずかな沈黙が落ちた。
烏丸は最後の一枚まで目を通し終えると、ようやく顔を上げた。
「つまり、事の発端は女子大生の善意による浮気調査」
「そうだ」
「その対象が、中国系情報機関に連なる現役の工作員」
「そうだ」
「しかも、尾行があまりに稚拙だったせいで、逆に陽動を疑われた」
「実に馬鹿馬鹿しい話だろう」
私が言うと、烏丸は小さく息を吐いた。
「質の悪い喜劇ですね」
「笑い事ではない」
私は即座に切り捨てた。
「高鳩は琴巴の素人尾行を見て、その背後を読もうとした。帰属先を辿り、この事務所へ来た。そして何も見つからなかったことを、“何も出ないよう徹底して処理されている”と解釈した」
「スズナ嬢と志織殿、それに御前の存在が、余計な補強になったわけですか」
「そういうことだ。一般人から見れば説明不能で、工作員から見れば国家機密に見える。最悪の組み合わせだな」
烏丸はレポートを指先で軽く叩いた。
「高鳩はどこまで見たとお考えで?」
「机と端末をざっと洗った程度だ。ダミーの顧客名簿と、琴巴の作った稚拙な素行調査レポート。それ以上は出ていない」
「では、実害は軽微とも言えますね」
「そうでもない」
私は背もたれへ体重を預けた。
「プロは空白を空白のまま受け取らない。何も見つからなかった、で終わらん。何も残していない、あるいは何も残させない種類の組織だと読む。当然、周辺の調査も終えているだろう。今頃あの男の報告は、海の向こうで妙な重みを持って保管されているだろう」
烏丸は何も言わなかった。
否定しないということは、同じ絵を見ているのだろう。
私はそこで、はっきりと線を引いた。
「言っておくが、ここから先は私の仕事ではない」
「でしょうね」
「異常存在の管理、あるいはそれに準ずるものへの防諜は、この国の裏側を牛耳っているそちらの管轄だ。情報は渡した。あとは一条家の責任で処理しろ。私に火の粉を飛ばすな」
烏丸はその言葉を受け、珍しくすぐには返答しなかった。
額へ指先を当て、数秒だけ考える。あれはポーズではない。損得勘定を高速で回している時の顔だ。
「……承知いたしました」
やがて彼は、低くそう言った。
「確かにこれは一条家案件です。こちらで引き取ります」
「当然だ」
「ただし、ひとつだけ確認を」
「何だ」
「対象者の排除までお望みですか。それとも接触経路の切断だけで十分ですか」
私は少しだけ眉を上げた。
物騒な言い回しだが、一条家としては自然な確認なのだろう。
「私が望むのは、平穏だ」
私は平坦に答えた。
「高鳩がどういう形で日本から消えようと知ったことではない。ただし、この事務所やここにいる連中へ、これ以上興味を向けさせるな。それだけだ」
「承知しました。では、対象者には“別件”でご帰国いただく方向で調整しましょう」
「実に便利な言い回しだな」
「便利でなければ、この種の仕事は務まりません」
そう言うと、烏丸はレポートを丁寧に折りたたみ、内ポケットへしまった。
その動作だけは妙に上品で、かえって腹立たしい。
「それにしても」
彼は薄く笑みを戻しながら続けた。
「女子大生の恋愛相談から始まって、工作員の誤認監視、果ては国家規模の疑心暗鬼ですか。御前の周囲は、実に賑やかで結構なことです」
「君がそれを賑やかと呼ぶなら、地獄もまた観光地だろうな」
「怖いことをおっしゃる」
「怖がっているようには見えん」
私はそこで話を打ち切るようにデスク上のカップを持ち上げた。
「用が済んだなら帰れ。君の顔を長く見ていると、こちらの寿命が縮む」
「それは失礼いたしました。では、この極上の手土産、ありがたく頂戴しますよ」
烏丸はそう言って一礼し、来た時と同じ滑らかさで事務所を後にした。
ドアが閉まる。
ようやく室内の空気が少し軽くなった気がして、私は深く息を吐いた。
厄介事を他人へ押しつけることに成功した時だけ、人は文明社会の一員である喜びを噛みしめられるのかもしれない。
もっとも、それで完全に安心できるほど私は楽観的ではない。
高鳩という男は処理されるだろう。少なくとも、こちらを直接嗅ぎ回ることはなくなる。
だが、彼が送った報告書までは消えない。
名前だけは、もう残ってしまったのだ。
次の日の夕方。
何も知らぬ顔で事務所へやってきた琴巴は、片手に紙袋を提げていた。
「ただいま戻りましたー。あ、スズナちゃん、クレープ買ってきたよ」
スズナの耳がぴんと立つ。
志織がいつも通り無言で中身を確認し、保はどこから湧いたのか「俺のは!?」と騒いでいる。
私はその光景を横目に、コーヒーをカップへ注ぎながら、極めて平坦な声で琴巴へ告げた。
「君の友人の彼氏だが、私費留学生のようだな。浮気などする暇もないほど、自身の使命と祖国のため、学業に打ち込んでいる真面目な男らしい。友人にはそう伝えておきたまえ」
その言葉に、琴巴は目を丸くした。
「えっ? 所長、もしかして……私が休んでる間に、調べてくれたんですか!?」
「勘違いするな。私の平穏を脅かすノイズを排除した結果、ついでに判明しただけだ」
「もう、素直じゃないんだから」
琴巴は、ひどく都合の良い解釈を即座に採用したらしい。
ぱっと顔を明るくすると、クレープの箱を机へ置きながら笑った。
「でも、やっぱり私の調査通りだったんですね。高鳩くん、ちゃんとしてる人だったんだ。美咲に教えてあげなきゃ」
私は何も答えなかった。
答える必要がないからではない。
言ったところで理解する段階ではないし、理解させる義理もないからだ。
彼女は自分がどれほど危うい尾を踏み抜いたか、おそらく一生知らずに済むだろう。
そしてそれは、きっとその方がいい。
高鳩はほどなく、何らかの理由をつけて帰国を余儀なくされるはずだ。
病気か、家庭の事情か、研究上の都合か。表向きの理由など、一条家ならいくらでも整える。
だが、それで全てが消えるわけではない。
彼が本国の担当部署へ送った『堤門探偵事務所』に関する不気味な報告書は、すでに海の向こうのどこかで保管されていることだろう。
そこには、おそらくこう記されている。
――高階市所在の小規模民間探偵事務所。
――公的情報上は無害。
――しかし構成員に説明不能な点が多い。
――要継続監視。
全くもって、不愉快だ。
快適なベッドの購入。
ただの浮気調査。
その二つの些細な出来事が、見事な化学反応を起こして私の平穏をまた少し遠ざけてしまった。
紫煙をくゆらせながら、私は窓の外を見つめる。
虎の尾を踏んだのが、琴巴だったのか。
それとも、過剰な深読みをした高鳩だったのか。
その答えは、きっと誰にも分からないままだ。
ただ一つ確かなのは、どちらにせよ、面倒事の請求書は最終的に私の机へ届く、ということである。




