3、沈黙の手
その日、私は予定していた雑務をすべて後回しにした。
帳簿の確認、返答の必要なメール、いくつかの細かい依頼の整理。どれも本来なら片づけておくべきものだったが、優先順位というものは状況によって容赦なく変動する。
そして今、もっとも優先すべきなのは「学生の浮気疑惑」ではなく、その調査対象がなぜ深夜に私の事務所へ侵入し、何を確かめようとしたかを見極めることだった。
私はデスクへ腰を下ろし、志織へ向かって短く告げた。
「高鳩興隆を洗う。表も裏も、通信も経歴も、全部だ」
「承知いたしました」
志織は感情のない声で応じると、すぐに別の端末を立ち上げた。
指先が滑るようにキーボードの上を走る。速度だけを見れば人間離れしているが、もともと彼女はそういう存在だ。今さらそこに驚く必要はない。
スズナはソファの端にちょこんと腰掛けたまま、こちらの様子を不安そうに見ていた。
「ボス。ことは、へいき?」
「へいきかどうかは知らん」
私は画面から目を離さず答えた。
「だが少なくとも、本人は自分が何を踏み抜いたか理解していない。その点についてだけ言えば、今は幸せだろうな」
スズナはよく分からないという顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
賢明である。
まず洗ったのは、高鳩の表向きの履歴だった。
私立大学の工学系学部に在籍。成績優秀。遅刻欠席は少なく、指導教員の評価も悪くない。留学生向けの奨学制度を利用しており、生活態度も極めて真面目。
アルバイト歴はなし。サークル活動も目立つものはない。交友関係は狭く、恋人である坂倉美咲との交際以外に派手な異性関係も見当たらない。
姓は父方に合わせて日本式だが、戸籍上は特に不自然ではない。
一見すると、非の打ち所がない。
だからこそ、逆に不自然だった。
現代の若者というものは、もう少し生活の滲みがある。
SNSの不用意な投稿、友人の何気ない写真への映り込み、購買履歴の偏り、趣味の小さな癖。そうしたものの積み重ねが人間の輪郭を形作る。
だが高鳩の情報には、それがなかった。
綺麗すぎるのだ。
交友関係は必要最小限。
購買履歴も実用品ばかり。
ネット上の痕跡も、存在しているのに存在感が薄い。
削除した形跡があるのではない。最初から「余計なものを残さない生活」を選んでいる人間の薄さである。
私は椅子にもたれ、琴巴がこぼした言葉を思い返した。
――歩く速度がいつも一定。
――立ち止まる場所が妙。
――背中を壁へ向けたがる。
――店内が見渡せる席を選ぶ。
あれは、ただの神経質な学生の癖としても説明できる。
だが、複数重なると別の輪郭が浮かぶ。
志織が隣の端末から報告を上げた。
「対象者の居住アパート周辺の防犯映像を確認しました。高鳩興隆は出入りの際、ほぼ例外なく一度立ち止まり、背後および通りの死角を確認しています」
「無意識ではなく、手順として染みついているな」
「はい。また、大学構内の映像でも同様の行動が散見されます。食堂、図書館、構内の休憩スペースにおいても、着席位置は概ね固定されています」
私は顎に手を当てた。
訓練を受けた人間は、時に自分の癖を完全には消せない。
むしろ「普通に見せる」ことに長けた人間ほど、深い部分では同じ安全確認を何度も繰り返す。本人にとっては呼吸と変わらぬ自然な動作だからだ。
「琴巴は、よく二日も尾行して生きて帰ってきたものだな」
私がそう呟くと、志織がわずかに顔を上げた。
「対象者が明確な敵意を持たなかったためと推測されます」
「違うな。持たなかったのではなく、持つ必要がなかったのだ」
私は低く言った。
「稚拙すぎて、かえって判断を保留したんだ。素人が単独で動いているように見えたが、あまりに素人くさい。ならばこれは囮で、本命が別にいるのではないかと考える」
プロは、時に巧妙な罠よりも、雑な違和感を警戒する。
完璧な尾行なら切り捨てて終わる。だが、あまりに拙い尾行には別の意図を疑う余地が生まれる。
琴巴は、おそらくその最悪の位置にいた。
午後を過ぎる頃には、高鳩の生活パターンがかなり詳細に見えてきた。
朝は決まった時間に起床。
外出時は必ず一度、室内で足を止める。おそらく耳を澄ませて外の気配を拾っているのだろう。
アパートを出てから大学へ向かうまでの歩行速度はほぼ一定。移動経路は数パターンあるが、ランダムではない。曜日や時間帯、天候、人通りによって使い分けている。
図書館では毎回違う席を選んでいるようでいて、実際には条件が決まっていた。
入口が視界に入ること。背後に人の流れがないこと。窓が近すぎず、反射で外の様子が見えること。
ただの几帳面な学生にしては、選び方が洗練されすぎている。
さらに妙だったのは、会話の少なさだ。
高鳩は必要なことは話す。
指導教員とも美咲とも、周囲の学生とも、表面的にはまるで問題なく意思疎通している。
だが会話の中身を拾うと、自分のことをほとんど語っていない。家族の話、過去の失敗談、好み、軽い愚痴、そうした普通の若者なら無意識に零すはずの細部が極端に少なかった。
自分を作っている人間の話し方だ。
夕方近くになって、志織が再び声を上げた。
「御前。対象者の経歴データについて、いくつかの矛盾を検出しました」
私は自席から少し身を乗り出した。
「言え」
「高校以前の記録が部分的に不自然です。存在はしていますが、複数の自治体データベースで更新タイミングが不自然に揃いすぎています。また、医療履歴と転居履歴に連動が見られません」
「後から繋いだ痕だな」
「はい。加えて、家族構成上の父親――日本人名義の人物について、勤務記録の時系列に空白があります。対象者が来日する以前の数年間、実体が極めて希薄です」
私は小さく息を吐いた。
ここまで来ると、ただの偽装戸籍や単純な経歴ロンダリングではない。
誰かが高鳩という人間を「ちゃんとそこに生きてきたように見える程度には」整え、その上で余計な逸脱を削っている。
丁寧で、慣れた仕事だ。
「さらに、対象者の居住アパートの通信履歴を解析したところ、複数の偽装プロキシを経由した暗号化パケットが、一定間隔で特定の外部ノード群へ送信されていることを確認しました」
「送信先は」
「中国系情報機関。本国の担当部署が使用している可能性が高いノードです」
決定打だった。
私はモニターの光から目を逸らし、眉間を強く揉んだ。
「ただの留学生ではないとは思っていたが、現役の工作員か」
室内が静かになる。
スズナでさえ、言葉の意味を正確には分からぬまま、空気の重さだけは察したらしい。
「日本の技術情報でも漁りに来ていたところへ、琴巴がちょっかいを出した。高鳩はそれを見て、素人の恋愛相談とは思わなかった」
「はい」
志織は淡々と頷く。
「対象者の行動から推測するに、尾行への気づきはかなり早い段階であったと考えられます」
「当然だろうな。琴巴の尾行は、良く言えば素直、悪く言えば露骨だ」
私は肘掛けへ肘を置き、思考を整理した。
高鳩が琴巴に気づく。
だが、そこで切り捨てなかった。
それは相手が稚拙すぎたからだ。
プロは、単純な脅威よりも「不自然な雑さ」を嫌う。
琴巴は一人で張りついているように見える。尾行も甘い。観察も浅い。
だからこそ逆に、背後に本命の組織がいるのではないかと疑う余地が生まれた。
日本の公安か。
あるいは民間を装った別系統の監視組織か。
素人を囮に使い、別働隊がどこかで見ているのではないか。
そう読めば、高鳩の次の行動は自然だった。
「琴巴の帰属先を洗い、この事務所へ辿り着いた」
私は低く言った。
「そして深夜侵入までやったわけだ」
だが、それだけでは終わらない。
問題は、あの男が何を見たかではなく、何も見つからなかったことをどう解釈したかだ。
スズナの常人離れした身のこなし。
志織という、そもそも戸籍的にも生物学的にも説明のつきにくい存在。
デジタル上に履歴が薄すぎる私。
一般の探偵事務所にしては妙に整理された空白。
高鳩のような人種は、空白を空白のまま受け取らない。
何も出なかった、では終わらない。
何も出ないように徹底して処理されている、と読む。
「高鳩は我々を、日本政府の非公認組織か、あるいは何か別種の研究機関だと誤認したのだろう」
私は事実を順に並べた。
「スズナや志織を“国家が秘匿している異常存在”だと見れば、辻褄は合う。だからこそ、決定的証拠を求めて自ら事務所へ入った」
そこまで言ったところで、自分でもひどく疲れた気分になった。
出来の悪い喜劇だ。
女子大生の善意と、工作員の深読みと、こちら側の事情が最悪の噛み合い方をしている。
「……実に質の悪い誤読の連鎖だな」
私が呟くと、志織が静かに補足した。
「現時点で、対象者がどの程度の情報を本国へ送信したかは不明です」
「送っているだろうな。何も掴めなかったという報告も含めて」
私はそう言って、デスク上のスマートフォンへ手を伸ばした。
国家間の諜報戦など、私の時給にはまるで見合わない。
これ以上こちらで抱える理由も義理もなかった。
こういう時に使うべき相手は、一人しかいない。
通話先に表示された名前を見て、私はうっすらと嫌な顔をした。
よりによって、あの男へ連絡を入れねばならないのだ。
コール音が二回鳴る前に、烏丸が出た。
『堤門の御前からお電話とは珍しい。何か吉報でも?』
「凶報だ。しかも、そちら向きの極上の手土産を用意した」
私は椅子へ深く座り直し、低く告げた。
「今すぐ高階市まで来い。国家規模で面倒な話になりかけている」
通話の向こうで、烏丸が一瞬だけ黙った。
あの男が黙る時は、だいたい碌でもない案件に当たった時だ。
『……なるほど。そういう種類の声色ですか』
「そういう種類だ。手ぶらで来るな。持ち帰る覚悟だけはしてこい」
私は通話を切り、スマートフォンを机へ放った。
スズナがそっと尋ねる。
「ボス。だれくるの?」
「一条家の不愉快な窓口だ」
「やなひと?」
「極めて」
私は即答した。
「だが、こういう時には便利でもある」
窓の外では、夕方へ向かう光がゆっくりと色を変え始めていた。
まだ何も爆発していない。誰も死んでいない。表向きには、ただの小さな探偵事務所の日常が続いているだけだ。
それでも、私はもう分かっていた。
この件は、ただの学生の恋愛相談だった時点には戻らない。
海の向こうに届くべきでない名前が、もうどこかの報告書へ載り始めている。
面倒事というものは、たいてい音もなく近づいてくる。
そして、気づいた時にはもう、こちらの机の上へ請求書だけを置いていくのだ。




