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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その6 虎の尾を踏んだのはどっち?

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2、助手の足




 琴巴が事務所に顔を出さなくなってから、数日が経過したある日の午後。 

 来客用ソファを我が物顔で占拠し、スマートフォンの画面を延々とスワイプしていたたもつが、ふと思い出したように顔を上げた。


「そういや所長、琴巴ちゃん、ここ数日全然顔出さないッスね。なんかあったんスか?」


「私用で少し休むと連絡があった。それ以上は知らん」


 私は手元の資料から目を離さず答えた。


「もともと彼女は大学の空き時間に来ているだけで、私が時間を拘束しているわけではない。来るも来ないも本人の自由だ」


「へえ。まあ、大学生って意外と忙しいッスからねえ。サークルとか、合コンとか、あとなんか、急に病んだり」


「最後の一項目だけ妙に現実味があるな」


 私はページをめくりながら、ようやく保へ視線を向けた。


「それより、私がはるかに疑問に思っていることがあるのだが」


「なんスか?」


「アルバイトでもない君が、なぜ毎日この事務所に当たり前のように入り浸っているのだ。君にはホストという本業があるだろう」


 私の指摘は至極もっともなものだったが、保は悪びれる様子すら見せなかった。


「夜の仕事って夕方まで暇なんスよ。ここ、適度に静かだし、エアコンも効いてるし、何より所長が淹れるコーヒー、結構うまいッスからね。俺なりの出勤前ルーティンってやつッス」


 図々しいことこの上ない。

 だが、彼を物理的につまみ出すのも労力の無駄だ。私は深く息を吐き、その存在を視界の端へ追いやった。


 結局のところ、保は騒がしいが無害だ。

 少なくとも、この時点ではそう思っていた。




 数日後。

 当の琴巴は、こちらが予想していたより少し疲れた顔で事務所へ戻ってきた。


 ドアを開ける動作には勢いがなく、机へ鞄を置く音も控えめだ。どうやら本人なりに、尾行ごっこが想像以上に骨の折れる作業であることを学んだらしい。


「で、素人探偵の調査結果は」


 私が開口一番そう問うと、琴巴は露骨に肩を落とした。


「それが、全然です。浮気の気配なんて欠片もありませんでした。っていうか、どうして私が調査してたの知ってるんですか」


「君のしそうな単細胞な行動など、容易に想像がつく」


「ひどい」


 琴巴は唇を尖らせたが、すぐに諦めたように椅子へ腰を下ろした。


「丸二日ですからね。土曜も日曜も使って、美咲の彼氏……高鳩たかはとくんの後をつけてたんですよ。でも、本当に普通だったんです」


「普通、か」


「はい。朝は決まった時間に部屋を出て、図書館に行って、大学の研究室っぽいところにも顔を出して、美咲と会う時はちゃんと約束の時間ぴったりに来て。デート中も、変な女の人と連絡取ってる様子もないし、目移りしてる感じもなくて」


 私は無言で先を促した。


「それに、すごく真面目なんです。服はいつも地味で、持ち物も必要最低限しか持ってないし、買い食いとか寄り道もほとんどしないんですよ。図書館でも、私が見てた限りずっと同じ席で勉強してて」


「優等生だな」


「そうなんです。でも、なんていうか……」


 そこで琴巴は少しだけ言い淀んだ。


「変、って言うほどじゃないんですけど、ちょっとだけ変なんです」


「どちらだ。変なのか、変ではないのか」


「だから、上手く言えないんですって」


 琴巴は眉を寄せ、記憶を辿るように言葉を探した。


「例えば、歩く速度がいつも一定なんです。人混みでも、信号待ちでも、あんまり乱れなくて。あと、立ち止まる場所が変っていうか……コンビニの前でも、いきなり入口の横じゃなくて、ちょっと離れたところで一回周りを見るんですよ。癖なのかなって思ったんですけど」


 私は本を閉じた。


「他には」


「電車の中でも、背中を壁側に向けることが多いし、カフェでもできるだけ店内が見渡せる席に座ってました。たまたまかもしれないですけど」


「それを、浮気の証拠ではなく妙な印象として記憶していたのは褒めてやろう」


「えっ、ほんとですか」


「だが同時に、君がその“妙さ”の意味を全く理解していないこともよく分かった」


 琴巴はむっとした顔をしたが、反論はしなかった。

 おそらく自分でも、高鳩という男の印象を「真面目で普通」だけで片づけるには、何か僅かな引っかかりが残っていたのだろう。


「結局、美咲の勘違いだったみたいです」


 彼女は結論を急ぐように続けた。


「高鳩くん、たぶん本当に忙しいだけでした。美咲がメッセージ送っても返信遅いのも、勉強とか研究で手が離せないからみたいで。日曜の夜も、ちゃんと電話してましたし」


「平和で何よりだ」


 私は気のない相槌を打った。


「これで君も、無報酬の労働の無意味さを学んだだろう」


「無意味じゃないです。美咲が少し安心したなら、それで十分です」


「その“十分”に家賃が払えるなら感心するがな」


 私はそこで話を切り上げ、その件を終わったものとして記憶の片隅へ追いやった。


 だが実際には、その時点で話は終わっていなかった。

 むしろ、そこから静かに、ひどく面倒な方向へ転がり始めていたのである。




 翌朝。

 私は自宅のマンションから、志織しおりとスズナは一条家が手配した別のマンションからそれぞれ出勤し、事務所の入る雑居ビルの前で落ち合った。


「おはよう、ボス!」


 スズナが元気よく手を挙げ、その背後で志織が静かに一礼する。

 私は短く応じ、階段を上って事務所のドアの前に立った。


 物理鍵を差し込み、回す。

 カチャリという乾いた音とともにドアを押し開けた、その瞬間だった。


 足が止まる。


 一晩閉め切られていたはずの室内に、微かな違和感があった。

 空気の淀み。塵の沈み方の乱れ。家具の配置は変わっていないのに、場の静けさだけが一度触られている。


 私はドアを開けたまま、しばらくその場に立った。


 魔力や術式の痕跡ではない。

 純粋に物理的な「他者が立ち入った」気配だ。


 背後の二人へ無言の制止を送るより早く、スズナが鼻をひくつかせ、獣耳をぴんと立てた。


「ボス。知らない匂いがする」


「……どんな匂いだ」


「香水じゃない。布と、油と……ひどく薄いけど、緊張した人間の汗の匂い」


 野生の嗅覚が、昨日までこの空間に存在しなかった異物を確実に捉えていた。


 志織もまた、ガラス玉のような無機質な視線を室内へ走らせる。


「現在、室内に生体反応はありません。ですが、何者かが深夜に侵入した形跡を認めます」


「だろうな」


 私は靴音を殺して中へ踏み込み、まず窓、次いで金庫、最後に自分のデスクを見た。


 一見したところ、室内は荒らされていない。

 現金を入れた金庫も無事だ。窓ガラスも割られていない。書棚にも不自然な乱れはない。


 だが、それが逆に不自然だった。


 物理鍵も電子セキュリティも壊されていない。

 鮮やかに解除され、退室時には元通り施錠されている。


 ただの空き巣や素人の手口ではない。


 私は自分のデスクへ歩み寄った。

 引き出しの隙間へ挟んでおいた、肉眼では見えないほど細い糸が切れている。簡易の侵入確認用に仕込んでいたものだ。大した防御ではないが、誰かがこの机を触ったかどうかくらいは分かる。


 机上のペン立て、端末、資料の角度。

 どれもぱっと見では元通りだ。だが、元通りに“戻されている”と分かる程度には、私の記憶とずれていた。


「志織。システムログを洗え。どのデータに触れられたか特定する」


「承知いたしました」


 志織がすぐさまパソコンを起動し、異常な速度でキーボードを叩き始める。

 その間、私は机の引き出しを順に確認した。現金はそのまま。帳簿も動いていない。顧客台帳の紙媒体にも大きな変化はない。

 つまり、相手の目的は窃盗ではない。


 見に来たのだ。

 しかも、かなり絞った目的をもって。


 数分後、志織がいつもの感情のない声で報告を上げた。


「盗まれたデータはありません。閲覧されたのは、顧客名簿のダミーファイル。それと……」


 彼女は一瞬だけ画面を見直した。


「琴巴様が昨夜ローカル保存していた『高鳩たかはと 興隆おきたかの素行調査報告書』のみです」


 その瞬間。

 私の脳内で散らばっていた点と点が、ひどく嫌な形で繋がった。


 高鳩。

 真面目で、時間に正確で、視界の広い席を選び、背中を壁へ向けたがる男。

 琴巴の素人尾行に気づかぬはずがない人間。


「……なるほど。そういうことか」


 私は重い溜息を吐き、デスクチェアへ深く沈み込んだ。


 どうやらあの無能な助手は、小動物の尾を追っているつもりで、とんでもない虎の尾を踏み抜いてしまったらしい。


 スズナが不安そうにこちらを見上げる。


「ボス。わるいやつ?」


「たぶんな」


 私は短く答えた。


「しかも、面倒の種類が悪い」


 机上に置いた指先で、私はごく軽くデスクを叩いた。

 いくつかの可能性はある。だが最悪の筋道が、もうほとんど見えている。


 琴巴の尾行は開始早々に露見した。

 相手はそれを泳がせ、帰属先を辿り、この事務所まで来た。


 問題は、ここで何も見つからなかったことだ。


 私はゆっくりと立ち上がった。


「志織。今日の予定を全部切れ」


「承知いたしました」


「高鳩興隆を洗う。表も裏も、通信も経歴も、全部だ」


 志織は無言で頷き、すぐに別の端末へ手を伸ばす。

 スズナは空気の重さを察したのか、珍しく何も言わず、私の顔と志織の指先を交互に見ていた。


 事務所の窓から差し込む午前の光は、いつもと何も変わらない。

 だが私の中では、つい先ほどまで取るに足らない学生の恋愛相談だったはずのものが、ひどく面倒な別種の案件へ変質し始めていた。


 どうやら、本当に踏んだらしい。


 しかも、ただの虎の尾ではない。

 噛みつかれた後で初めて、その獣の大きさが分かる種類のやつだ。




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