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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その6 虎の尾を踏んだのはどっち?

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1、電子の目




 あの因習と黴の匂いにまみれた東北の旧家から生還して数日。

 私の背骨は、ようやく本来あるべき優美なS字カーブを取り戻しつつあった。


 もちろん、肉体が回復したからといって、精神まで平穏を取り戻したわけではない。

 あの土蔵の前室に敷かれていた煎餅布団――圧縮された綿の塊と呼ぶべき代物の記憶は、未だ私の危機管理能力に深刻な警鐘を鳴らし続けていた。


 必要なものは、必要になった時に金さえ払えば手に入る。

 そうした現代文明の利便性が、長い年月を生き延びてきたはずの私から、最低限の備えを奪っていたのである。


 この先、いつまた一条家の気まぐれで地方の旧家へ放り込まれるか分からない。あるいは、世界の理不尽な都合によって異界へ転移させられる可能性だってゼロではない。

 己の背骨と睡眠の質を守るためには、良質な寝具を常に次元の奥底へ備蓄しておく必要がある。


 結論は明白だった。


 私は夜の帳が下りるのを待ち、郊外の大型家具店へ足を運んだ。


 白々しいほど明るい蛍光灯の下、広大な売り場に並ぶ無数の家具を一通り見て回る。

 スプリングの反発力。ウレタンの密度。フレームの剛性。掛け布団の軽さと保温性。枕の高さと復元力。

 睡眠という本来きわめて原始的な行為に対して、資本主義が執念深く積み上げてきた技術の集積がそこにあった。


 私は吟味の末、最高級のマットレス、ベッドフレーム、掛け布団、枕を含めた寝具一式を四セット購入した。


 一組で十分、などという発想は危機管理能力の貧困さを露呈するだけだ。

 ひとつは自分用。ひとつは予備。ひとつは同行者用。そして最後のひとつは、極端な状況変化に備えた冗長性である。

 冗談ではない。これは生存戦略だ。


「配達は不要だ。駐車場まで運んでくれればいい」


 会計を済ませ、私はレジの店員へそう告げた。

 あとは店の裏手か駐車場の端、誰の目も届かない場所へ移動し、まとめて次元収納へ放り込んで帰るだけで済む。

 極めて合理的で、無駄のない計画だった。


 ただし、その完璧な算段には二つの誤算が含まれていた。


 ひとつは、現代日本の商業施設における防犯カメラの設置密度である。


 人間の視覚や認識力など、軽い術式をひとつ編めばどうにでも誤魔化せる。

 だが電子の目はそうはいかない。レンズを通した記録映像に「大型のベッド四セットが虚空へ消える」という、あまりに説明しづらい現象を残せば、後々ひどく面倒なことになるのは火を見るより明らかだった。


 そしてもうひとつ最大の誤算は、真面目で、善良で、余計に親切な店員の存在だった。


「お車までお運びしますよ! お客様お一人では積み込みも大変でしょうし」


 大型台車を押しながらそう言って笑う青年を前に、私は舌打ちを胃の奥へ押し戻した。


 彼に悪意はない。むしろ善意しかない。

 だが社会生活というものは、たいてい悪意ではなく善意によって効率を削られる。


 店内の視線を避けつつ断るのも不自然だ。かといってそのまま駐車場で収納すれば、今度は監視カメラへ異常現象を記録することになる。

 結果として私は、防犯カメラの死角を求めて店の周辺を一周したのち、次元収納の奥底から長年放置していたシボレー・エルカミーノを引っ張り出す羽目になった。


 いつ入れたのか、もはや自分でも曖昧な年代物のピックアップトラックである。

 車体には薄く埃が積もり、内装も現代日本ではやや浮く趣味だったが、荷台が広いという一点においてだけは極めて有能だ。


 私はそれを搬入口近くへ回し、店員の好意に笑顔で付き合いながら、寝具一式を律儀に荷台へ積み込ませた。


「ありがとうございました! お気をつけて!」


 手を振る店員へ適当に片手を上げて応じ、そのまま素直に帰宅することもできず、私は再び人通りの少ない高架下まで車を走らせた。


 そこでようやく、本来なら不要だった作業に取り掛かる。


 荷台の結束をほどき、車とベッドを分離させ、別々に収納し直すという無駄な作業をしなければならない。

 このまま収納すれば、ベッドを出すたびにトラックごと呼び出す羽目になる。それはさすがに、我ながら馬鹿げていた。


 魔法という絶対的な優位性を持ちながら、私はひたすら無駄で、迂遠で、物理的偽装工作に満ちた肉体労働を強いられたのである。

 資本主義の恩恵を受けるのも、決して楽ではない。


 それでも帰宅後、次元収納の奥底へ整然と積み上がった四組の高級寝具を確認した時、私はようやくわずかな安堵を覚えた。

 少なくとも、今後「備えがなかったせいで煎餅布団を受け入れざるを得ない」という最低の失態だけは避けられる。


 文明とは、かくも尊い。


 そう結論づけた翌日の夕方。

 私は早くも別種の不毛な労働へ巻き込まれることになるのだが、その時点ではまだ知る由もなかった。



 大学の授業を終えた琴巴ことはが、いつもより幾分静かに事務所のドアを開けた。


 その時、室内にいたのは、デスクで文庫本を読んでいる私と、来客用ソファを我が物顔で占拠し、スマートフォンを弄っているたもつだけだった。


「あれ。スズナちゃんと駿平くんは?」


 琴巴が事務所を見渡し、不思議そうに尋ねる。


「スズナは志織と出掛けている。社会勉強だそうだ。駿平の動向は知らん。小学生が毎日このむさ苦しい事務所に入り浸っている方が、児童の健全な育成という観点から見れば余程おかしいだろう」


 私が顔も上げずに答えると、保がスマートフォンから目を離し、のそりと身を起こした。


「ちわッス、琴巴ちゃん。今日はなんか、いつもよりテンション低いッスね。大学でなんかあったんスか?」


「うーん……私自身の話じゃないんですけどね」


 琴巴は鞄を自分のデスクへ置き、重い溜息をひとつ吐いた。

 それから、いかにも何か面倒事を持ち込む前の顔で、こちらへ視線を向けてくる。


「所長。実はちょっと、お願いがあるんですけど」


「却下する」


「まだ何も言ってないじゃないですか!」


 私は渋々文庫本へ栞を挟み、顔を上げた。


「大学の友達の、坂倉美咲って子なんですけどね。最近、彼女の彼氏が浮気してるんじゃないかって悩んでて」


「なるほど。探偵事務所でアルバイトをしているのだから、少し調べてくれないかと安易に頼まれたわけだな」


「さすが所長! 話が早くて助かります」


 琴巴がぱっと顔を輝かせたが、私はミルクをたっぷり入れたコーヒーを手に取り、無表情のままその期待を切り捨てた。


「当然のように私が引き受ける前提で話を進めるな。浮気調査は確かに探偵の業務の一環だが、それ相応の時間と人員、何より経費が掛かる。ただの学生の恋人関係のもつれに、正規の調査費用が払えるのか。費用対効果がまるで見合わない。まさか、友人だから無料で頼む気ではないだろうな」


 私の冷淡な正論に、琴巴はぐっと言葉を詰まらせた。


「そ、それは……美咲も学生だし、お金はないかもしれないですけど。でも、あの子、毎日泣きそうなくらい悩んでて」


「慈善事業をしたいなら、教会かNPO法人へ行くことだ。ここは営利を目的とした私企業である。無報酬の労働など、私の美学に反する」


 にべもなく切り捨てると、見かねたように保が口を挟んできた。


「まあまあ所長、そんな冷たいこと言わずに。俺でよければ、その彼氏の素行調査くらい手伝うッスよ? 女を泣かせる野郎は許せねえし、俺、顔が広いから情報収集には自信あるッスからね」


「ホストクラブの客引きネットワークを情報網と呼ぶのは勝手だが、素人が安易に尾行などすれば通報されるのがオチだ。やめておけ」


 私が冷ややかに釘を刺すと、保は不満げに鼻を鳴らした。


「俺、結構素早いんスよ?」


 だが、その直後にスマートフォンが下品な電子音を立てて鳴った。画面を見た保は「あ、やべ」と小さく呟き、慌てて立ち上がる。


「もう出勤時間だ。琴巴ちゃん、ごめん! 話の続きはまた今度聞くッスから!」


「あ、うん。お仕事頑張ってね」


 金髪を揺らして嵐のように去っていく保を見送り、事務所には再び静けさが戻った。


「……分かりました」


 しばらく黙り込んでいた琴巴が、不意に顔を上げた。


「所長の言うことももっともです。タダでプロの探偵を使おうなんて、図々しかったですよね」


「理解が早くて何よりだ」


「でも、友達が困ってるんです。放っておけません。私、今日は溜まってる事務作業、先に終わらせちゃいますね」


 妙に晴れやかな顔でそう言いながら、琴巴は自分のデスクへ向かい、パソコンを立ち上げた。


 引き下がったように見えて、その実、彼女の背中からは「ならば自分ひとりで調べてやる」という無謀な決意が滲み出ている。

 私に断られたことで、探偵事務所の助手としての変な自負に火をつけてしまったらしい。


 だが、これ以上止める義理はない。

 所詮は学生同士の浮気疑惑だ。適当に尾行の真似事でもして、何も掴めず徒労に終わるのが関の山だろう。


 私は冷めたコーヒーを胃へ流し込み、再び文庫本を開いた。


 琴巴はその日、遅くまで事務作業をこなして帰宅し――

 翌日から数日間、ぷっつりと事務所へ顔を出さなくなったのである。




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