表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その5 旧家の狐憑き

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/42

7、罰




 東の空が、ようやく黒から濃紺へと薄まり始めた頃だった。


 私は土蔵から母屋へ戻ると、一切の遠慮なく玄関を叩いた。

 旧家の朝は早い、などという古風な美徳を期待していたわけではない。むしろ逆だ。あれほど因習に満ちた家ならば、無意味に朝も早く、ついでに客人への配慮も皆無だろうと予想していた。


 だが実際に戸を開けたのは、寝巻き姿の使用人が一人、半ば怯えた顔で現れ、その直後に、明らかに睡眠を中断された不機嫌さを纏った源蔵げんぞうが姿を見せるまで、若干の間があった。


 その時点で、私はこの家に対する評価をさらに一段階引き下げた。


「朝っぱらから何事だ」


 源蔵の声は低かったが、そこに昨夜までの威圧はなかった。

 老人の寝起きの苛立ちというより、毎朝何か悪い報せが来ると覚悟している人間の、諦めに近い声音である。


「業務完了の報告だ」


 私は簡潔に答えた。


「対象者は生存。変異は停止。少なくとも今夜の再発はない」


 その言葉が届いた瞬間、源蔵の顔から、目に見えて血の気が引いた。

 安堵したのではない。すぐには処理できなかったのだろう。長いあいだ「孫はもう人ではない」と思い込むことで辛うじて精神の均衡を保っていた人間に対し、「まだ戻せる」と告げられれば、安心より先に混乱が来る。


「……何を、した」


「処置をした」


「そんなことは聞いておらん」


「ならば質問を正確に組み立てたまえ」


 私は戸口を塞ぐように立ったまま、ひどく事務的な声で続けた。


「君の家の“狐憑き”は、一般的な意味での狐憑きではなかった。霊障でもない。憑依でもない。夜間に顕在化する、血統由来の変異だ。昨夜、それを直接確認し、現在は抑制してある」


 源蔵の眉間が深く寄る。

 理解したわけではない。理解可能な語彙の外へ、話が滑っていったのだ。


「血統……だと」


「古い家というものは、往々にして自らを神秘化する過程で、余計なものまで家の中へ取り込む。君たちがどこまで意図していたかは知らんが、その帳尻を孫娘が払わされかけていた、それだけの話だ」


 そこへ、廊下の奥から足音がした。


 烏丸からすま 左京さきょうである。

 さすがに彼は寝起きの寝巻き姿など晒さないらしい。すでにきっちりとスーツを着込み、顔の筋肉だけで構築されたような、あの胡散臭い微笑を平常運転で貼り付けていた。

 ただし、その瞳だけは少し細い。土蔵から戻ってきた私の気配だけで、おおよその展開を察したのだろう。


「これはこれは。想定よりもお早いお戻りで」


「想定より早く終わったのは事件の方だ。想定より遥かに深刻だったのは寝具の方だが」


 私が即答すると、烏丸は一瞬だけ笑いを噛み殺すように視線を伏せた。

 この男は、人の不機嫌を娯楽として消費する嫌いがある。極めて不快だ。


「対象者を確認しに行くぞ」


 私はそれだけ言って踵を返した。


 源蔵と烏丸、それに起こされた使用人が数名、慌てて後に続く。早朝の冷気の中を再び土蔵へ戻る道すがら、私は一切説明を追加しなかった。どうせ現物を見れば済む話だし、それ以上のことをこの家の人間に懇切丁寧に教える義理はない。


 土蔵の扉を開ける。


 前室には、壊れた格子の残骸がそのまま散っていた。

 板片、折れた木枠、飛び散った金具。夜の暴力の痕跡としては十分すぎる惨状である。そこに、悪趣味極まりない金の首輪を嵌めたまま、蓉子ようこが冷たい床に倒れていた。


「蓉子!」


 最初に駆け寄ったのは源蔵だった。


 その声には、昨夜まで彼がまとっていた「家の当主」としての硬さが一切なかった。ただの老いた祖父の声だった。

 彼は膝をつき、恐る恐る孫娘の肩へ手を伸ばした。あれほど隔離し、檻に入れ、自らも近づくことを恐れていたくせに、今さら触れることは躊躇わないらしい。皮肉ではあるが、嫌いではない反応だ。


 蓉子は浅く眉を寄せ、ゆっくりと目を開いた。


 まず見えたのは天井で、その次に祖父の顔で、最後に立ったままこちらを見ている私だった。

 彼女の視線はまだ濁っていたが、昨夜の金色の獣の目ではない。疲労と発熱と極度の消耗を抱えた人間の目だ。


「……おじい、さま」


 掠れたその一言だけで、源蔵の顔が大きく歪んだ。


 泣くのを堪える人間の顔だった。

 だがこの老人は、おそらく人生の大半を「家の者は泣くな」という文法で生きてきたのだろう。目元は揺れても、涙までは落ちない。その代わり、蓉子の肩に触れた手がひどく不器用に震えていた。


「お前は……もう、大丈夫なのか」


「分かりません」


 蓉子は正直に答えた。


 それから、自分の首元に嵌まっているものへようやく気づき、力なく瞬きをする。


「……何ですか、これ」


「医療器具だ」


 私が先に答えた。


 源蔵がこちらを振り向く。烏丸も、ほとんど同じ角度で視線を寄越した。

 私はまったく気にせず続ける。


「正確には、君の脳と血の連携に起きていた異常を、外部から強制的に制御するための補助具だと思いたまえ。少なくとも、それを外さない限り、昨夜のような発作は起こらない」


「そんな都合のいいものが……」


 源蔵の呟きに、私は即座に返した。


「都合がいいのではない。君たちの知識と経験が、その段階に達していないだけだ」


 黙らせるには十分だった。


 もちろん、説明の九割は嘘ではないが、一割ほど本質を意図的に外している。

 あの首輪は医療器具ではないし、脳波を押さえるためのものでもない。もっと雑で、もっと古く、もっと血生臭い用途で作られた遺物だ。だが結果として「夜間の変異を抑制する」という一点において機能している以上、言葉の選び方次第でいくらでも文明的な説明へ偽装できる。


 烏丸は、それをきちんと理解したらしい。


「お見事でございます、御前」


 彼は壊れた格子や床の傷、首輪の輝き、蓉子の消耗した様子を一通り見回し、すぐに薄い笑みを整えた。


「詳細はともかく、少なくとも現状は収束したと理解してよろしいのですね」


「ああ。今夜の再発はない。数日は様子を見ろ。食事は柔らかいものではなく、まずは適切な栄養と水分だ。訳の分からん禁食や清めだの、因習由来の処置は一切やめろ。症状を悪化させるだけだ」


 源蔵の肩がわずかに震える。


「……わしは、間違っていたのか」


 静かな声だった。

 当主としての問いではない。祖父としての問いでもない。もっと根本的な、自分の人生の軸そのものに対する問いだ。


 私は一秒だけ考え、それから無情に答えた。


「君の“守り方”は、致命的に古かった」


 その一言は、老人に深く刺さったらしい。

 だが私は続けた。


「ただし、間違っていたからといって、今ここで悔いたところで蓉子の体力は回復しない。反省は後でまとめてやれ。まずは暖かい部屋、清潔な寝具、栄養、医師の手配だ」


 寝具、という単語に、私の声の温度が一段低くなったのを烏丸は聞き逃さなかったらしい。

 彼の口元が、ほんのわずかに上がる。


「なるほど。寝具」


「そうだ。寝具だ」


 私ははっきりと言った。


「今回の件において、私が最大の悪意を感じた対象は、昨夜この前室へ配置された煎餅布団である。客人に対するあの扱いは、血統由来の変異よりなお救いがたい」


 使用人の一人が、思わず顔を伏せた。

 どうやら多少の自覚はあるらしい。


 源蔵でさえ、一瞬だけ言葉を失った。


 その場の空気を整えるように、烏丸が咳払いをひとつ挟む。


「御前。可能であれば、念のため数日こちらにご滞在いただき、経過観察をお願いしたいところなのですが」


 私は即座に切り捨てた。


「却下する」


「まだ朝になったばかりですが」


「だからだ。始発に間に合う」


「万一の再発が」


「それは君たちが首輪を外した場合に限る。そうでなければ、少なくとも今夜は起こらん」


「では、首輪の取り扱いに関する注意事項だけでも」


「外すな。それだけで十分だ」


 烏丸は、いかにも困ったような微笑を浮かべた。

 だが目は笑っていない。あの男は、これ以上は私が絶対に付き合わないことを理解した上で、それでも一応言っておくべき文句を並べているだけだ。


 私はコートの襟を整え、踵を返した。


「どこへ」


 源蔵の声が背後から飛ぶ。


「帰る」


「このまま、か」


「君の家の問題は解決した。残る問題は、私の睡眠と背骨だけだ」


 土蔵を出て、朝の冷気の中を玄関へ戻る。

 背後では使用人たちが慌てて動き出し、蓉子を運ぶための準備が始まっていた。源蔵は何度かこちらへ声を掛けようとして、結局やめたらしい。代わりに、門へ向かう私の隣へ、烏丸だけが静かに歩調を合わせてきた。


「……感謝申し上げます、御前」


 らしくもなく、少しだけ真面目な声だった。


「君がそういう殊勝な口調を使うと、余計な裏を読まねばならなくなる。不快だ」


「おや。素直な謝意ですが」


「一条家の人間の“素直”ほど信用ならないものも珍しい」


 私が言うと、烏丸は肩をすくめた。


「では、今後のスズナ嬢の件につきましては、こちらも少々柔軟に取り計らいましょう」


「その言い方がすでに取引だな」


「ええ。慈善ではございませんので」


 実に清々しい。

 こういう点に関してだけは、私は烏丸を評価している。あの男は恩義や好意で動くふりをしない。最初から最後まで、関係性を貸借として処理する。その方が遥かに健全だ。


「では、駅までの車を」


「不要だ」


 私は即答した。


「君たちの車にこれ以上背骨を預けるのは危険だ。タクシーを拾う」


「この山中で、都合よく流しがいれば良いのですが」


「呼べ」


「承知しました」


 そうして数分後、私はようやく久田野家を後にした。


 車窓から遠ざかる屋敷は、朝の薄い光の中で、夜よりもなお陰気に見えた。あれだけ広く、あれだけ金をかけて造られた構えをしておきながら、結局のところ中で行われていたのは、家族ひとりを檻へ入れ、家名の都合で苦しみを密閉するという、ひどく旧式な暴力だけだった。


 もっとも、その評価は久田野家に限らない。

 古い家というものは、得てして外見の荘厳さに反比例して、人間の扱いが雑である。


 そして、寝具の質もまた、例外なく最低だ。


 私は深く息を吐き、窓の外から意識を引き剥がした。

 すでに関心は、次にまともな糖分をどこで確保するかへ移っていた。




 幾度かの乗り継ぎを経て、ついでに途中で押し付けられていた細かな野暮用も片付け、私がようやく高階たかしな市の雑居ビルへ辿り着いた時には、もはや時刻の感覚は曖昧になっていた。


 極度の睡眠不足。

 長距離移動による腰の鈍痛。

 そして昨夜からまともな甘味を摂取できていないという、生命維持上の重大な欠陥。


 私の機嫌は、ほとんど物理現象として周囲の空気を冷やせる水準に達していた。


「……せめて糖分を」


 それだけを呟き、私はビル一階の自動販売機の前で足を止めた。


 見慣れた筐体。

 見慣れた赤いランプ。

 そして、昨日出発前に私の脳髄へ平穏をもたらしていた、あの暴力的な甘味のボタン。


 迷うことなく硬貨を投入し、缶カフェオレのボタンを押す。


 ガラン、と無機質な落下音。


 私は身を屈め、取り出し口から缶を拾い上げた。

 そして、ラベルを見た瞬間、思考が停止した。


『漆黒の苦味・無糖ブラック』


「…………」


 確かに押した。

 私は間違いなく、甘味と乳脂肪と人類の怠惰が結晶したあのカフェオレを選択したはずだ。横向きの牛の絵もしっかり確認した。にもかかわらず、手の中にあるのは、苦味と覚醒しか能のない黒い液体である。


 どういう了見だ。


 補充担当は、矢吹町の住民は全員ブラックしか飲まないとでも思っているのか。あるいは、自動販売機そのものに「疲労困憊した客へ追い打ちをかける」という極めて悪質な意志が宿ったのか。

 いずれにせよ、これはミスというより世界からの敵意だった。


 私はひどく長い溜息を吐き、苛立ち紛れに煙草へ火を点けた。


 肺に紫煙を満たしながら階段を上る。

 足取りは重い。肉体的にも、精神的にも。

 事務所のドアを開けると、中は予想外に静かだった。


 誰もいない。


 琴巴ことはの声も、駿平しゅんぺいの足音も、スズナの騒がしさもない。志織しおりの無駄のない気配さえ見当たらなかった。

 どうやら全員まとめてどこかへ出払っているらしい。


 私は旅行鞄を入り口の脇へ放り出し、そのまま来客用のソファへ深く身を沈めた。

 手には忌々しい無糖ブラック。

 試しに一口だけ含んでみたが、徹夜明けの口腔を容赦なく削る鋭い苦味に、私は即座に顔をしかめて缶をローテーブルへ置いた。


 まるで泥水だ。

 いや、泥水の方がまだ土の気配という慰めがある分、情緒があるかもしれない。


 室内の静寂に身を預けながら、私は二本目の煙草へ火を点けた。

 先端が赤く焦げ、細い煙が天井へ向かって立ち昇り始める。


 ようやく、何も考えずに数分を浪費できる。

 そう判断した、まさにその瞬間だった。


 事務所のドアが勢いよく開き、廊下の向こうからひどく騒々しい気配が雪崩れ込んできた。


「あ、開いてる! 所長、帰ってきてるのかな?」


「ボス!」


 のんきな琴巴の声に続き、銀髪の小柄な影が弾かれたように飛び込んでくる。スズナである。

 その後ろからは、完全に疲労困憊して顔色が土気色になった駿平と、相変わらず一切の感情を読み取れない無機質な表情の志織が姿を現した。


 私の姿を認めた瞬間、琴巴が目を見開いた。


「所長! どうしてもう帰ってきてるんですか!」


「事件が終わったからだ」


 私はソファに沈んだまま答えた。


「それと、もう二度と旧家の厚意と寝具を信用しないと固く誓った」


「何ですかその誓い……って、ちょっと!」


 彼女の視線がすぐに私の指先へ移る。

 挟まれている煙草を見つけた瞬間、眉が鋭く吊り上がった。


「また事務所でタバコ吸って! 駿平くんもスズナちゃんもいるんだから、子供の前では絶対ダメだって、いつも言ってるじゃないですか!」


 鋭い説教だったが、私は意図的に無視した。

 その代わり、傍らの鞄へ手を突っ込み、駅で購入した和紙包みの箱を取り出す。


 東北土産。

 極めて高糖度であると推測される名物の和菓子だ。私自身が食べるつもりで買ったが、今の疲労下では包装を解く気力すら惜しい。


 私はそれをローテーブルの中央へ無造作に放り投げた。


「出張先の名物だ。君たちのその疲弊した精神を、適当に回復させたまえ」


「えっ、いいんですか!」


 琴巴の声の温度が一気に上がる。

 スズナはすでに箱へ飛びつき、駿平は疲れ切った顔のままそれでも少しだけ目を輝かせ、志織だけがいつもの無感動な表情のまま一歩遅れて近づいた。


 箱が開く。


 中から現れた菓子を見た瞬間、三人と一柱の空気が明確に浮ついた。


「わ、これ絶対おいしいやつ!」


「……助かる。今日マジで糖分ないと死ぬ」


「シオリ、これ、キラキラしてる」


「包装紙に金箔が施されています」


 実に非効率で、実に騒々しい。

 だがその声の散らかり方を聞いているうちに、私はようやく自分が戻ってきた場所の輪郭を認識した。


 ローテーブルの上には、書類の束と、よく分からない雑貨と、私が飲み損ねた無糖ブラック。

 琴巴はまだ何か文句を言い足りなそうな顔をしており、駿平は菓子を前にしても疲労が完全には抜けていない。スズナはすでに一つ手に取り、志織はそれを止めるでもなく観察している。


 静かではない。

 洗練もされていない。

 秩序もなければ、品位も怪しい。


 全くもって、最悪の帰還である。


 私は仕方なく再び無糖ブラックの缶を手に取った。

 煙草の煙を肺へ流し込み、ひどく冷めた一口を喉へ落とす。やはり苦い。心底、不当な苦味だ。

 だがあの土蔵の寝具に比べれば、まだ文明の側に属している。


 和菓子の箱に群がる連中をぼんやり眺めながら、私はようやく理解した。


 この非効率で、騒々しく、甘味の管理すら杜撰な日常へ、私は戻ってきたのだ。


 最悪ではある。


 だが、少なくともここには、煎餅布団が存在しない。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ