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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その5 旧家の狐憑き

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6、圧




 跳躍そのものは、見事だった。


 飢餓に追い詰められた獣の一撃としては、ほとんど理想的と言っていい。

 低い姿勢から床を蹴り、最短距離で間合いを詰め、空中でわずかに身体を捻って前肢の軌道を修正する。狙いは喉。外しても肩口を裂き、そのまま体重を乗せて倒し、二撃目で咽頭を噛み砕くつもりなのだろう。


 極めて合理的だ。

 人間相手なら、九割方それで終わる。


 だが、彼女の不幸は、今夜の獲物が人間の範疇に含まれていないことだった。


 私は一歩も退かなかった。


 ただ、己の内側に常時かけている枷のひとつへ、ほんのわずかだけ指をかける。


 この地球という極端に魔素の薄い世界で暮らす上では、自身の存在感を抑え込むことは習慣というより生命維持に近い。あまりに密度の高いものは、薄い世界に軋みを生む。周囲の空気、人の感覚、場の均衡、そうした脆弱なものを余計に壊さぬためにも、私は普段、その“蓋”を固く閉じている。


 それを、ほんの数ミリだけずらした。


 瞬間、空間の性質が変わった。


 気温ではない。

 音でもない。

 だが土蔵の内部にあるあらゆるもの――床板、壁、格子の残骸、湿った空気、埃、そして跳躍の頂点に達しつつあった獣の肉体までもが、一斉に「重い」と認識する類の変化だった。


 世界にとって、あまり存在していてほしくないものが、そこにいる。


 ただそれだけの事実が、物理法則に先立って空間へ浸透する。


 かつて真祖と呼ばれたものの威圧。

 数多の世界を渡り、より古く、より巨大で、より理不尽な生態系の上位層を見下ろしてきた存在だけが持つ、純粋な格の差。


 それは殺意とは違う。怒りですらない。相手を害そうという意志がなくとも、生き物が本能で理解する「これは逆らってはならない」という絶対的な情報だ。


 宙を裂いていた銀灰の影が、不自然なほど急激に失速した。


 獣の瞳が大きく見開かれる。


 金色の虹彩の奥で、捕食本能が一瞬にして崩壊していくのが分かった。喉元へ届くはずだった鉤爪は、あと数十センチという位置で完全に勢いを失い、そのまま見えない重量に叩き落とされるように床へ墜落した。


 鈍い音。


 獣は土蔵の板張りへ無様に転がり、反射的に立ち上がろうとした。

 だが起き上がれない。四肢に力が入らないのではなく、入れようとする意思そのものが恐怖によって分解されているのだ。毛は総毛立ち、尾は低く沈み、耳はぴたりと寝た。喉の奥から漏れる音は威嚇ではない。悲鳴に近い喘鳴だった。


 野性の感覚が残っているからこそ、彼女は理解してしまったのである。


 目の前にいるのは獲物ではない。

 敵ですらない。

 ただ、生態系の段差そのものだ。


「己の立ち位置ニッチを弁える程度の知能は残っていたらしい」


 私は床に這いつくばった獣を見下ろした。


「賢い個体は嫌いではない。無謀に食ってかかられるより、遥かに手間が省ける」


 獣は返事をしない。いや、できない。

 全身の筋肉が、進むことではなく縮こまることへ全ての出力を割いている。もしこれが霊障であれば、ここでなお人間の理性を侵食し続け、狂乱に拍車をかけただろう。

 だがこれは生物学的な変化だ。純粋に捕食者として組み替えられた身体ならば、なおさら上位存在の圧には抗えない。


 ――やはり読み通りだ。


 私はゆっくりと息を吐いた。


 彼女の変異は完全には安定していない。恐怖によってこのまま構造が崩れれば、人間の姿へ半端に戻るだろう。

 だが、それでは意味がない。解除ではなく失速に過ぎないからだ。明日の夜になればまた同じ暴走を繰り返す。

 必要なのは、現在表面化している因子そのものへ蓋をする処置である。


 私はコートの内側――次元収納――へ手を差し入れた。


 指先でいくつかの遺物を弾き、古い金属の感触を探る。


 あった。


 引きずり出したそれは、現代日本の感覚で言えば、悪趣味を通り越してほとんど罰ゲームに近い代物だった。


 金の細工がこれでもかと施された首輪。

 幅広の帯に過剰な装飾が重なり、中央には親指ほどの大きさの青い魔石が嵌め込まれている。周囲を囲む意匠は、宝飾にも呪文にも見える曖昧な文様で埋め尽くされ、端には意味不明な小粒の飾りまで揺れていた。

 上品さという概念に喧嘩を売るためだけに設計されたようなデザインである。


 たしか砂漠と夜の長いどこかの世界で、王侯貴族が半人半獣の戦奴隷を制御するために使われていた品だ。

 趣味は最低だが、性能だけは信用できる。


「見た目が壊滅的に下品なのが難点だが、機能面に関しては優秀だ」


 私はそう独りごちながら、床に蹲る獣へ近づいた。


 銀灰の毛並みがぴくりと震える。

 逃げたいのだろう。だが逃げられない。圧に押し潰され、四肢は床へ縫い付けられたも同然だった。


 私はしゃがみ込み、彼女の首元へ手を伸ばした。


 皮膚の下で脈が狂ったように速い。熱も高い。

 耳の付け根にはまだ新しい血管の膨張が見え、変異が完全に定着していないことが分かる。今なら間に合う。もう少し遅ければ、この夜だけを凌いでも、蓄積した代謝負荷が彼女の脳や内臓へ不可逆な損傷を与えていたかもしれない。


「安心しろ、とは言わん」


 私は留め具を開きながら言った。


「だが少なくとも、今夜これ以上飢えて自分を削る必要はなくなる」


 彼女の耳が、かすかに動いた。

 意味を理解したかどうかは分からない。だが声は届いたらしい。


 首輪をその首へ巻きつける。

 毛並みの下に隠れた筋肉はなお強張っていたが、抵抗はなかった。いや、できなかった。


 留め具を下ろす。


 カチリ、と乾いた金属音が土蔵に響いた。


 その瞬間、首輪の中央に埋め込まれた魔石が、青白い光を放った。


 魔石の光は派手ではない。

 眩く照らすのではなく、むしろ周囲の色を一段階ずつ奪っていくような冷えた光だった。

 首輪に刻まれた古い術式が起動し、蓉子の血の中で暴れていた異界因子へ楔を打ち込む。抑圧ではない。固定だ。変異へ開きかけた回路を閉じ、今ある形へ身体構造を縫い留める。


 獣が、短く息を呑んだ。


 次の瞬間、その身体に起きた変化は劇的だった。


 銀灰の毛並みが、霧が引くように急速に退いていく。

 耳が縮み、尾が骨ごとほどけるように消失し、長く伸びた鉤爪が元の爪の形へ戻っていく。肩や背骨を走っていた不自然な隆起も、波が引くように静まった。


 変異そのものが解除されたというより、表に出ていた異質な設計図が一斉に収納されたのだ。


 数秒前まであれほど濃厚だった獣臭が薄れていく。

 代わりに残るのは、汗、血、土、疲労、そして人間の肉体が極限まで無理をさせられた時にだけ生じる、ひどく弱々しい熱の匂いだった。


 私の足元に残ったのは、痩せ細った一人の女だった。


 蓉子はうつ伏せに崩れたまま、しばらく呼吸だけを繰り返していた。

 完全には意識を失っていないらしい。指先がわずかに動き、掠れた声が喉の奥で震える。


「……さむい」


 それは、人間の声だった。


「ああ、そうだろうな」


 私は簡潔に応じた。


「散々、身体の設計を弄られていたのだから」


 蓉子は目を開けようとしたが、叶わなかった。瞼が半ばまで上がり、その隙間から濁った視線が揺れる。先ほどまでの金色は消え、昼間と同じ、ただひどく消耗した人間の眼差しだけが残っていた。


「わたし……」


「説明は明日にしろ。今は気絶した方が効率がいい」


 その言葉通り、彼女はすぐに意識を手放した。

 恐怖と変異と圧の三重苦に耐えた肉体が、ようやく強制終了を選んだのである。


 私は彼女を見下ろし、軽く息を吐いた。


 作業としては、終わりだ。


 もちろん厳密に言えば経過観察は必要だし、首輪がどこまで長期安定するかも確認すべきではある。だが、少なくとも今夜この場で私がやるべきことは終わっている。変異の正体は確認した。処置も施した。仮説は立証された。

 これ以上ここに留まる理由は、ない。


 ないのだが。


 私はゆっくりと顔を上げ、前室の隅へ視線を向けた。


 そこには、相変わらずあの寝具がある。


 煎餅布団。


 客人の尊厳と背骨の曲線美に対する悪意を具現化したような、圧縮綿の死骸。

 事件解決後の余韻に浸るべき場面でなお、あれが視界に存在しているという事実は、私の精神へ極めて深刻な二次災害をもたらしていた。


 私は端末で時刻を確認した。


 始発までは、まだ数時間ある。

 だが数時間「ある」という事実と、その数時間をこの前室で過ごすことの妥当性は、全く別の問題だ。


 もしここで仮眠を取るとすれば、選択肢は二つ。

 あの煎餅布団に横たわるか、あるいはこの木箱の上で背骨を削るか。


 どちらも却下である。


 私は一秒の迷いもなく結論を出した。


「……即時撤退だな」


 誰に聞かせるでもなく呟き、コートの襟を正す。


 足元で昏倒している依頼人を一瞥する。

 床は冷たいが、先ほどまで獣化して暴れていた身体だ。数分やそこらで致命的な低体温に落ちることはない。それに、朝になれば源蔵か烏丸が必ず見に来る。後処理は家の仕事だ。


 私は壊れた格子を跨ぎ、土蔵の扉へ向かった。


 手を掛ける直前、背後でかすかな寝息が聞こえた。

 蓉子のものだ。さっきまでの不自然に速い呼吸ではない。浅くはあるが、人間が眠る時の、規則的で頼りない呼吸だった。


 それだけ確認して、私は扉を開けた。


 外気が流れ込む。

 東の空は、まだ黒い。

 だが夜の底はすでに越えつつあり、山の稜線の向こうで、色のない朝がわずかに準備を始めていた。


 冷え切った空気を肺へ入れながら、私は心の中で久田野家に対する評価を更新した。


 血筋は面倒。因習は有害。

 だがそれらよりなお許し難いのは、客人へあの寝具を平然と宛がう生活文化である。


 この家の狐憑きもどきが解決したところで、私の中に残る怨嗟の優先順位は一切変わらない。


 母屋を叩き起こすには、ちょうどいい時刻だった。




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