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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その5 旧家の狐憑き

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5、獣




 夜の底が冷え切る東北の山奥。土蔵の中に沈殿する空気は、物理的な温度以上に私の肌を刺していた。


 土蔵の前室に置かれた煎餅布団――いや、もはや綿の死骸と呼ぶ方が適切な代物――は、視界の隅にあるだけで私の精神へ持続的な損害を与えていた。

 私は木箱の上に腰を下ろしたまま、わざわざその存在を意識しないよう努めていたが、意識するまいとする行為そのものが、結局は存在を強調することになる。


 極めて不快だ。


 冷気は床から這い上がり、木箱の角は臀部に容赦なく食い込み、土蔵に染み付いた古い木と湿気の匂いは、都市部の人工的で洗練された無臭空間に慣れた感覚器官へ執拗にまとわりついてくる。

 これほどまでに文明的快適さから遠い環境に身を置くのは、もはや調査ではなく罰に近い。


 しかし、退屈と不快は、観察の妨げにはならない。


 むしろ余計な雑音が削ぎ落とされた分だけ、夜の内部で起こっている変化は鮮明だった。


 土蔵の壁一枚隔てた向こう。

 格子の奥にいる蓉子ようこの気配は、日が落ちてしばらくした頃から、すでに昼間のそれとは別物になり始めていた。


 最初に変わったのは、呼吸のリズムである。


 浅く、弱々しかった昼の呼吸が、徐々に間隔を乱し始めた。

 眠気に落ちる人間のそれではない。むしろ逆だ。意識がどこかへ沈んでいくのではなく、内側の別の系統が緩やかに起動し、身体の主導権を奪おうとしている呼吸だった。


 次に、微かな物音が増えた。


 布が擦れる音。

 爪先が床板を探る音。

 壁に背を預けていた身体が、落ち着きなく位置を変える気配。


 それらは最初、ひどく控えめだった。

 気丈な患者が、発作の前兆を必死にやり過ごそうとしているようにも聞こえる。


 だが、時間が経つにつれ、その音には人間的な抑制が薄れていった。

 焦燥がある。苛立ちがある。そして何より、飢えている。


 私は木箱に腰掛けたまま、壁に頭を預けて目を閉じた。

 視覚を切ると、土蔵の中の情報はむしろ分解しやすい。


 格子の奥で、蓉子が喉を鳴らした。


 人間が空腹を訴える時の音ではない。

 もっと低く、湿っていて、腹の奥から擦り上げるような音だった。


 ――正解にかなり近い。


 昼間の時点で仮説はほぼ固まっていたが、こうして夜の変化を聞く限り、それは霊障ではない。

 霊的な侵食なら、空気の質が変わる。場が濁り、温度や音の伝わり方に偏りが出る。護符や塩に対して何らかの反応も起こるはずだ。

 だがこの土蔵には、それがない。


 変わっているのは空間ではなく、彼女の肉体そのものだ。


 生理機能。感覚器。代謝。

 夜、舞い降りる魔素を引き金として、血の内側に沈殿していた古い異物が表層化し、人体の設計図を局所的に書き換えている。


 面倒ではあるが、筋は通っている。


 私は懐中時計代わりに端末の画面を確認した。

 日付が変わるまで、あとわずか。


 外では風が木々を揺らしていた。

 母屋の方からは人の気配が完全に途絶えている。源蔵も使用人も、近づくなという指示を忠実に守っているらしい。賢明だ。余計な匂いと音は、今の彼女にとって刺激でしかない。


 格子の奥で、何かが床を引っ掻いた。


 一本ではない。

 複数の鋭利な先端が、木目をなぞるように走る音だ。


 私はようやく目を開けた。


「……始まったか」


 独り言のように呟くと、返事の代わりに、低い呼気が闇の中から返ってきた。


 昼間はあれほど弱々しかった気配が、今は濃い。

 生命力が回復したわけではない。衰弱した身体のまま、別種の駆動が無理やり出力を引き上げているのだ。だからこそ危うい。人間の器に、本来その容量では扱えない異質な本能が流し込まれている。


 格子の隙間越しに見える影が、ゆっくりと動いた。


 蓉子は座っていなかった。

 四つん這いに近い、低い姿勢で床に手をついている。首の角度が不自然だ。耳で音を拾っているのではなく、頭全体で周囲の振動を読んでいるような体勢である。


「蓉子」


 呼びかけると、影がぴくりと止まった。


 すぐには反応がない。

 数秒遅れて、その顔がこちらへ向いた。


 昼間と同じ顔ではある。骨格も、輪郭も、まだ人間のままだ。

 だが目が違った。


 瞳孔が開いている。

 暗さに適応したというだけではない。焦点が、ひどく近いところと遠いところを同時に見ている。視界がすでに人の設計からずれ始めている目だ。


「……おなか、すいた」


 掠れた声。

 だが昼よりずっと明瞭だった。


「そうだろうな」


「すごく」


 彼女はゆっくりと唇を舐めた。

 その仕草自体は人間のものなのに、口元の筋肉の動きがどこかぎこちない。舌の使い方が変わっている。食物の記憶ではなく、匂いの情報を処理している動きだ。


「何の匂いがする」


 私が問うと、彼女はしばらく黙った。


 黙ってから、正直に答えた。


「……血」


「他には」


「土。木。古い布。外の水。遠くの獣。あと……」


 そこで彼女の喉が上下した。


「あなた」


 当然だ。


 この土蔵の前室にいる有機物として、私は最も高品質な部類に属する。

 何しろこの世界の人間とは比較にならない密度の生命情報を内包している。血の匂いだけを拾うならまだしも、変異した感覚器がエネルギー源としての価値まで嗅ぎ取っているなら、もはや私は歩く高級食材も同然だろう。


 不愉快な評価である。


「賢明な判断として忠告しておくが、私は消化に向かない」


 私の言葉に、蓉子は返答しなかった。

 代わりに、肩が大きく震えた。


 発作の第一段階だ。


 背骨に沿って、骨の位置が微妙に変わる。

 人間の肉体は、骨格の再配置に対して本来あまりに脆い。だから通常、この手の変化は悲鳴や痙攣や失神を伴う。だが彼女の身体は、すでに何度もこの工程を反復してきたのだろう。痛みはあるはずだが、それを通り越して、変化それ自体が自動化されつつある。


 肩甲骨のあたりの布地が、内側から押し上げられるように膨らんだ。

 指先が床に食い込み、乾いた音を立てる。

 爪が伸びている。いや、伸びるという表現は正確ではない。指先の形状が、掴むための手から、裂くための鉤爪へ最適化されていく。


 彼女は息を吸い込んだ。

 その一息が、ひどく長かった。


 鼻腔が広がり、上唇がわずかに吊り上がる。

 歯列が覗いた。犬歯が、昼間より明らかに鋭い。


 私は木箱に座ったまま、その全過程を観察した。


 変化は急激だが、無秩序ではない。

 耳介の角度、頸椎の可動、四肢の荷重バランス、尾骨周辺の隆起――すべてが捕食と夜間行動に寄せて組み替えられている。

 これは“化ける”のではない。

 より適した形へ、古い設計図が一時的に上書きされているだけだ。


「……やはり狐憑きなどという可愛らしい代物ではないな」


 言葉に出して確認した瞬間、蓉子――いや、もはやその呼称が適切かも怪しい何か――の背中から、銀灰色の毛並みが皮膚を押し分けるように現れた。


 月光の届かない土蔵の中でも、その毛は妙に淡く見えた。

 狐に近い色だ。だが、狐そのものではない。もっと密で、もっと乾いていて、寒冷地の獣じみた光沢を帯びている。


 頭部の輪郭が変わる。

 髪の間から三角形の耳が立ち上がり、びくりと震えた。

 それは可愛らしい装飾ではなく、純粋に感覚器官として形成された耳だった。前室の隅で木が軋む音にまで反応し、ぴくりと向きを変える。


 腰の後ろで布が裂けた。


 尾。


 細く長い骨格が瞬時に伸び、その上に豊かな毛が広がっていく。

 一条家や田舎の怪談が安易に“狐”という語を当てはめたくなる気持ちも分からないではない。少なくとも表層的には、そう見える。

 だが、これはあまりに都合よく狐の記号をなぞりすぎている。実態はむしろ逆だ。家の側が、自分たちの理解可能なラベルを後から貼りつけただけで、本体はもっと曖昧で、もっと異界寄りの雑種的形質なのだろう。


 完全な獣人化へ至る手前で、彼女は一度大きく身を縮めた。


 苦しんでいるのではない。

 最終的な筋肉配列へ切り替わる前の、瞬間的な力の溜めだ。


 次の瞬間、彼女は床を蹴った。


 格子に激突する。

 いや、激突ではない。狙っている。


 昼間に確認した爪痕の位置、その意味がここで答え合わせされた。

 低姿勢から跳ぶ。途中で身体を捻り、伸びた前肢で上部へ引っ掛ける。勢いを一点へ集中させて荷重を流し込む。

 頑丈なはずの木枠が、内側から受けた爆発的な圧力で悲鳴を上げた。


 ミシ、という音の後、格子が大きく歪む。


 獣が喉の奥で鳴いた。

 威嚇ではない。興奮だ。

 飢餓と、獲物を前にした確信が、その鳴き声に露骨に混じっている。


「なるほど」


 私はようやく木箱から腰を上げた。


「外の野良犬や獣を裂いていたのも、この運動性能か」


 二撃目。


 今度は上部の継ぎ目を狙って、より正確に荷重が加えられる。

 木片が飛び、金具が弾け、格子の一部が内側から外へ折れた。


 彼女は壊れた隙間へ鼻先を差し込み、匂いを確かめるように空気を吸った。

 その吸気だけで、前室の冷気がひどく濃くなる。


 金色の瞳が、まっすぐ私を捉えた。


 人間の理性は、もはやほとんど残っていない。

 だが完全な空白でもない。

 そこにいるのは狂獣ではなく、極度の飢餓によって理性の大半を捕食本能へ明け渡した状態の捕食者だ。だからこそ危険で、同時に読める。目的が明確だからである。


 壊れた格子の間から、音もなくその身体が滑り出てきた。


 昼間の痩せた女の姿とは、もはや別の生き物だった。

 四肢はしなやかに伸び、指先の鉤爪は木片を簡単に引き裂く。銀灰の毛並みは首筋から背へかけて逆立ち、耳と尾はひどく落ち着きなく揺れていた。


 それでもなお、完全な獣ではない。

 骨格のいくつかに人間の名残があり、その中途半端さがむしろ異様だった。


 獣人という仮説は当たっている。

 ただし純血ではない。

 血統の底で長く眠っていた断片的な異界因子が、極端な条件下で局所発現しているに過ぎない。だから変化は不安定で、だからこそ夜ごとに身体を削る。


 彼女――それ――は、床に低く身を伏せた。


 跳躍前の姿勢だ。


 床板へ荷重が集中し、爪先がわずかに沈む。

 視線は私の喉元と胸部の間を往復し、最も効率よく致命傷を与えられる軌道を本能的に測っている。

 賢い。

 その程度の判断力は残っているらしい。


「……客人に煎餅布団を宛がった上に、さらに飢えた獣の夜食として供するつもりだったとすれば、久田野家の接遇思想はここ数百年で最低水準を更新したことになるな」


 私はコートの裾を軽く整えながら、ひどく冷めた声で独りごちた。


 獣の耳がぴくりと動いた。

 意味は分からなくとも、声の調子だけで相手の余裕を察したのかもしれない。

 だが、すでに引き返せる段階は越えている。空腹は恐怖より強い。そういう状態まで追い込まれていた。


 次の瞬間、獣は飛んだ。


 跳躍は、驚くほど静かだった。

 重さではなく、速度が先に来る。

 床を蹴った音より早く、銀灰の影が視界を裂いて前へ出る。爪は迷いなく頸動脈を狙い、牙はその直後の二撃目として喉を想定している。


 一瞬の静寂。


 私はただ、その軌道を視界に収めながら、静かに立ち上がった。




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