4、血
私は格子から離れ、今度は室内全体を観察した。
隅に置かれた食器。水桶。交換された寝具。壁に付着した泥の粒。天井近くの梁にまで残る引っ掻き傷。
普通の人間が狂乱して暴れたとして、あの位置まで均一な爪痕は残せない。足場にできる家具もない。跳躍か、あるいは四肢の伸長が起きている。
私は改めて蓉子を見た。
今は痩せている。だが骨格そのものは華奢すぎない。手足も長い。
もし何らかの形で身体構造が夜間のみ再編されているなら、筋肉量の不足を変異側で補っている可能性がある。昼間の衰弱と夜の活動量の差も、それなら説明できる。
「久田野家は、古くから“クダ屋”だったな」
私が言うと、源蔵の眉が動いた。
「……それが何だ」
「管狐を扱う家系は、多かれ少なかれ血をいじる。血縁、婚姻、禁忌、儀礼、供物。術式の持続には、往々にして家そのものを器にする発想が含まれる。違うか」
源蔵は答えなかった。
沈黙は、ときに肯定より雄弁だ。
「過去に、似た症状の者はいたか」
「……記録は、あります」
今度は答えたのは烏丸だった。彼はいつの間にか、床脇に積まれていた古い帳面を手に取っていた。
「私どもでも少々当たりましたが、江戸末期の分家筋に“夜這う狐”と記された女が一人。明治初期にも“肉しか食さぬ娘”の話が残っております。ただし、いずれも詳細は曖昧です。狐憑きとして処理されたのでしょう」
「便利な言葉だな。理解不能を一語で包装できる」
私は蓉子の方へ向き直った。
「君は幼少期に、異様に肉を好んだことは」
「……あります」
彼女は戸惑いながら答えた。
「小さい頃、家族と焼肉に行くと、お祖父様にいつも叱られてました。生焼けのを欲しがるなって。覚えてるのはそれくらいです」
源蔵の顔がさらに硬くなる。
どうやら老人は、その記憶に心当たりがあるらしい。昔から兆候はあった。だが見ないことにしたのだろう。
家の中には、そういう“見なかったことにされた前兆”が幾つも沈んでいる。
「烏丸」
「はい」
「この家の系譜を調べた時、“狐”以外の混血儀礼や外法に関する記録はなかったか」
「表向きは、ありません」
「表向き、か」
「ただし、久田野家が最も勢いを持った時期に、北方の山地から連れてきたとされる“客人”の記録が数件あります。身元不明、戸籍不詳、婚姻記録のみ残る女性など。地方の旧家にはありがちな不透明さではありますが」
「それで十分だ」
私は静かに息を吐いた。
線が繋がり始めている。
霊ではない。
憑き物でもない。
狐という名称は、現象に貼られたラベルに過ぎない。
本体はもっと古く、もっと血に近い場所にある。
私は格子の前へ戻り、蓉子の首元を観察した。皮膚の表面にわずかな発熱がある。脈拍は速い。
だが発熱そのものは感染症的ではない。代謝異常の範疇だ。瞳孔、呼吸、筋緊張。いずれも昼間の衰弱した患者としては妙に不安定で、身体がいつでも別のモードへ切り替われる状態にあるように見える。
「夜になると、どのあたりから変わる」
「……分かりません。最初は、お腹が」
「空腹か」
「はい。それから、耳が変になります」
「耳?」
「音が、近いんです。外の音が全部。虫とか、風とか、台所の包丁の音とか……人が歩く音も」
聴覚過敏。
「匂いは」
「そのあとです。土とか、水とか、人とか……その、血とか」
「視界は」
「少し明るくなる気がします。暗いところでも形が分かって……でも、そこから先は曖昧で」
十分だ。
これは外から入ってきた何かではない。身体機能そのものの切り替わりだ。しかも夜間に顕著で、食性・感覚・運動性能に偏っている。霊的侵入よりは、むしろ潜在的形質の発露に近い。
私は立ち上がり、背後の二人へ向き直った。
「結論を暫定で述べる」
源蔵の喉がごくりと鳴る音がした。
「これは典型的な狐憑きではない。少なくとも霊障ではない。札が効かず、祈祷が刺さらず、塩も清めも症状を変化させない時点で、その可能性は薄い」
「では何だ」
源蔵の問いは、挑発ではなく懇願に近かった。
私は言葉を選んだ。断定しすぎてもよくない。だが、曖昧に濁しても意味がない。
「血だ」
土蔵の空気がさらに冷えた気がした。
「先祖代々、この家の血に沈殿してきた異物が、彼女の代で表面化したと考えるのが最も自然だ。管狐の術を維持する過程で、久田野の先祖が“こちら側ではない何か”を血統に組み込んだ可能性が高い」
「馬鹿な……」
源蔵の顔から、血の気が引いていく。
「管狐は術だ。代々の家業だ。そんな化け物じみた――」
「術を家で継ぐという発想自体が既に生物学と呪術の境界を曖昧にする。君たちがどこまで自覚的だったかは知らんが、長い年月をかければ、術は信仰になり、信仰は習俗になり、習俗は血に沈む」
私は格子の傷をもう一度見た。
「彼女は憑かれているのではない。変化している。夜ごと感覚が切り替わり、飢餓が増し、身体の形が捕食に適したものへ偏っていく。その過程で理性が落ちる。閉じ込められ、十分な栄養を取れず、発露した形質を抑え込まれ続けた結果、代謝が自分自身を食い始めている」
蓉子が、ゆっくりとこちらを見た。
「……治るんですか」
その問いだけは、驚くほどまっすぐだった。
私は彼女の目を見返した。
「原因が分かれば、対処は可能だ」
嘘ではない。確証のない慰めでもない。ただし、容易いとは言っていない。
彼女はその違いを理解したらしく、小さく息を吐いた。救われた顔ではない。だが、絶望の底からほんのわずかに手を離した顔だった。
源蔵は、その場で座り込むように膝を折りかけたが、どうにか踏み止まった。
「……わしの、せいか」
ひどくかすれた声だった。
「この家の、せいで……蓉子が」
「責任の総量を今ここで測る意味はない」
私は即答した。
「ただ一つ確かなのは、君たちの迷信的な運用は事態を改善しなかった。むしろ悪化させた可能性が高い。これ以上、自責と因習を混同するな」
源蔵は何も言わなかった。言えないのだろう。彼にとって“家”を否定されることは、自分の人生全体を否定されることに等しい。しかし、孫娘の姿を前にしてなおその論理へ逃げ込めるほど、鈍感にはなりきれていないらしい。
それは救いでもあり、罰でもある。
私は烏丸へ向き直った。
「今夜、私がここに泊まる」
「変化を直接確認なさるおつもりで」
「推理はかなり絞れたが、まだ現物を見ていない。夜間の変化が予測通りなら、処置はその場で行う」
「承知しました。人払いは」
「徹底しろ。誰も近づけるな。音にも匂いにも反応しているなら、余計な刺激は不要だ」
烏丸は頷いた。
私は最後にもう一度だけ、蓉子へ視線を向けた。
彼女は痩せ細った身体を抱えるように座りながら、それでもこちらを見返していた。怯えきった被害者の目ではない。自分の中の何かを、まだぎりぎり人間として把握しようとしている目だ。
悪くない。
少なくとも、完全に手遅れではない。
「今夜までは生き延びろ、お嬢さん」
私がそう言うと、彼女は一瞬きょとんとした後、かすかに頷いた。
「……それ、励ましのつもりですか」
「現実的な指示だ」
「最低」
「知っている」
ほんの少しだけ、彼女の口元が緩んだ。
その表情を見た瞬間、背後で源蔵が目を伏せた。あれは嫉妬ではなく、後悔に近い。自分が何か月もかけて失わせたものが、今、見知らぬ余所者との数分のやり取りで戻りかけているのを見てしまった老人の顔だった。
私はそれ以上、その場に留まらなかった。
必要な情報は取った。仮説も立った。あとは夜を待ち、現象を確認し、力ずくで終わらせるだけだ。
問題は事件ではない。
その後、源蔵の指示で前室へ運び込まれた寝具を見た瞬間、私の精神は静かな激怒に支配された。
板張りの冷たい床の上に敷かれたそれは、到底布団とは呼べない代物だった。長年の圧力によって厚みも弾力も失い果てた、綿の死骸である。俗に言う煎餅布団。しかも掛け布団まで重く、湿り、黴臭い。
「……まさか、これで寝ろと?」
私の問いに、源蔵は真面目な顔で頷いた。
「怪異と対峙するには、身を清め、質素に過ごすのが古くからの習わしです」
――訂正しよう。
この家の最大の病理は、血でも因習でもない。
客人にこの寝具を宛がって何の問題もないと本気で信じている、その文化圏そのものかもしれない。
私は己の背骨を守るため、横になることを即座に放棄した。




