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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その5 旧家の狐憑き

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3、檻




 分厚い土蔵の扉が軋みながら開く。


 内側から流れ出てきたのは、ひどく冷たい空気だった。外気が冷えているからではない。長い時間、人の営みから切り離された場所に沈殿する種類の冷たさだ。

 湿気を含んだ木の匂い、古布の匂い、埃、血、そして獣の毛並みに似た残り香。それらが薄暗い前室の中で混ざり合い、ここが単なる物置や土蔵ではなく、ひとつの“檻”として機能していることを静かに告げていた。


 中へ一歩踏み込んだだけで、私はいくつかのことを理解した。


 まず、座敷牢の造りが異様に頑丈だ。木枠は太く、内側から乱暴に押しても簡単には壊れないよう補強されている。後から急造したものではない。少なくとも数か月、場合によってはそれ以上の期間、この家はこの檻を「必要なもの」として維持してきた。


 次に、格子の各所に深い傷が残っている。写真で見た以上に生々しい。漆喰をえぐる痕、木に食い込んだ細長い裂け目、床板に走る斜めの削れ。

 いずれも刃物ではない。人の爪でもない。だが四足獣の単純な引っ掻き傷とも違う。軌道に妙な高さのばらつきがある。低い位置から走った痕と、成人男性の肩ほどの高さに残る痕が同時に存在していた。


 ――姿勢が一定ではない。


 這い、立ち、跳び、伸びる。


 同じ生き物が付けた痕だとしても、その時々で骨格の使い方が変わっている。


 私は前室の灯りを少し強めるよう烏丸に指示し、自分は格子の手前まで進んだ。


 奥に、久田野 蓉子ようこがいた。


 二十三歳。資料ではそう記されていた。


 だが目の前にいる女は、その年齢相応の輪郭を既にかなり失っていた。頬は削げ、顎の線が鋭くなっている。肌の色は白いというより、血流の悪さで薄く褪せていた。

 長い髪は乱れているが、完全に放置された人間のそれではない。誰かが最低限の世話はしているのだろう。だが、その“最低限”がいかに不十分であるかは、一目で分かった。


 彼女は膝を抱え、格子の奥の薄い布団の上に座っていた。


 その姿は奇妙だった。痩せ衰えているのに、どこか緊張を孕んでいる。単に衰弱している者の身体ではない。筋肉が死んでいないのだ。

 むしろ飢餓状態にある肉食動物のように、使うべき部分だけが異様に生き残っている印象がある。


 彼女は私たちの気配に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。


 目が合う。


 狂気ではなかった。


 そこにあったのは、極限まで追い詰められ、疲弊し、自分自身を信用できなくなった人間の目だった。恐怖はある。諦めもある。だが、まだ壊れ切ってはいない。理性が残っているからこそ、むしろその瞳は痛ましい。


「……また、誰か来たの」


 声は掠れていた。長く話していない喉の音だ。


「一条家の下請けだ」


 私は鉄格子越しに答えた。


「役に立つかどうかは不明だが、少なくとも君を拝みに来た訳ではない」


 蓉子は、少しだけ瞬きをした。


 怯えた女の常として後ずさるのではなく、かすかに首を傾げる。

 こちらの言葉遣いが予想外だったのだろう。まともな慰めや、分かりやすい憐憫を向けられることに、既に飽いている人間の反応である。


「……お祖父様が、呼んだんですか」


「君の症状を、どうやら自分たちだけでは扱いきれなくなったらしい」


「そう……ですか」


 その返答に、自嘲も怒りもなかった。ただ、確認して終わった声だった。現状への期待値を、随分前に切り下げ終えている。


 私は格子の前でしゃがみ込み、彼女の姿を観察した。


 手首に古い擦過傷がある。拘束された痕ではない。自分で壁や床にぶつけた類だ。爪は短く切られているが、根元がところどころ裂け、最近また無理に削れたような痕がある。歯列は見えない。口元は乾いている。唇の端に、ごく小さな裂傷。何か硬いものを咬んだ後のようだ。衣服の裾には土の汚れが残っていたが、その色は土蔵の床の土とは微妙に違う。


 夜に外へ出ている。


 しかも庭先だけではない。もっと湿った、山際の土の色だ。


「質問をする」


 私は言った。


「答えたくないものは答えなくていい。だが、無意味な遠慮をされると調査効率が落ちる」


 蓉子は、ほんのわずかに口元を動かした。笑おうとしてやめたような、妙な表情だった。


「……探偵さんって、もっと優しい言い方をするものだと思ってました」


「偏見だな。私はおおむね環境と対象によって性能が変動する」


「今は、低性能なんですか」


「不本意な呼び出しと長距離移動によって、著しく機嫌が悪い」


 それを聞いて、彼女は本当に少しだけ笑った。


 その一瞬で、顔立ちの印象が変わる。なるほど。もともとは相当に整った顔なのだろう。今は衰弱と不眠と恐怖で別人のように見えているだけだ。


 背後で源蔵が息を呑む気配がした。孫娘がこんなふうに他人と軽口を交わすのを、久しぶりに見たのかもしれない。


「夜に、何が起きる」


 私が問うと、蓉子の顔からその僅かな柔らかさが消えた。


「……分からないんです」


 彼女は自分の指先を見つめた。


「眠るというのとは、少し違うんです。気づくと、頭の奥で何かがざわざわして、落ち着かなくなって……お腹が空くんです。すごく。食べても、食べても足りないみたいに」


「いつ頃から」


「最初は、夜食を食べるくらいでした。恥ずかしいけど、それだけならまだ……普通のことみたいに思えて」


「そこから悪化した」


「はい。台所に行った記憶がないのに、朝起きたら手が濡れてたり、服に泥がついてたりして。生臭い匂いがして……」


 彼女の喉が小さく動く。


「ある朝、髪に草が絡まっていたんです。山の方の。私、子供のころからあの辺りは苦手で、夜に一人で行くなんて絶対に……なのに」


 言葉が途切れる。


「口の周りに血がついていた時、自分で分かったんです。ああ、私の中で何かが壊れてるって」


 私は、彼女の言葉を頭の中で順に並べた。


 夜間の異常な空腹。記憶の欠落。屋外への移動。血液と泥。強い生臭さ。恐怖と自己嫌悪。

 しかし昼間の会話能力と認知機能は保たれている。幻覚や妄想の兆候も薄い。

 古典的な憑依症状――人格交代、特定の宗教的対象への反応、霊的忌避、呪文への過剰な感応――も資料上は乏しい。


 精神疾患単体では説明が苦しい。

 霊障としては、症状の出方が物理寄りすぎる。

 動物的な異常だが、犬や狐に“憑かれた”人間の反応とも違う。


「君は何かを見るか」


「……見る?」


「夢でも幻でもいい。狐、獣、誰かの顔、声」


 蓉子はゆっくりと首を振った。


「見ません。ただ、お腹が空くんです。すごく。あと……匂いがします」


「何の」


 彼女は躊躇った。その躊躇いは、話して信じてもらえるか迷う類のものではない。言葉にすること自体への嫌悪だ。


「……肉の匂いです。生の。あたたかいものの匂い」


 その場の空気がわずかに冷えた気がした。


 源蔵が奥歯を噛み、烏丸の視線が細くなる。


 私は続けた。


「人間に対しても同じ反応があるか」


 蓉子の肩がぴくりと震えた。


「……分かりません」


「嘘だな」


 彼女は目を伏せた。


「……ある、と思います。昼間は平気です。でも、夜になる前、頭の奥が変になると……人の匂いが分かりすぎる時があるんです。使用人さんが食事を置いていく時とか、扉の向こうに立ってるだけなのに、肌の下を流れてるものまで近い気がして」


 そこまで言うと、彼女は両手で顔を覆った。


「だから、ここにいるんです。私が頼んだんです。閉じ込めてほしいって。誰かを傷つけるくらいなら、その方がいいから」


 なるほど。


 祖父が一方的に閉じ込めたわけではない。少なくとも初期段階では、彼女自身も隔離を望んだ。だから源蔵は余計に、この檻を“正しい選択だった”と思い込める。

 本人が望んだのだからと。


 だが、閉じ込め続けた結果、症状が固定化し悪化したのなら、それはもはや保護ではなく飼育失敗だ。


 私はゆっくりと立ち上がり、格子の木枠を調べた。


 表面に残った傷へ指先を滑らせる。浅いもの、深いもの、抉るようなもの。複数回にわたって生じている。しかも力の入り方が一定ではない。獣が興奮した時の一律な破壊ではなく、身体の形がその都度変わっているような痕だ。


 私は床にしゃがみ込み、格子の下部も見た。毛が一本、木のささくれに引っかかっている。


 銀灰色。


 光の加減かとも思ったが、違う。人間の髪ではない。細く、だが芯が強い。狐の毛皮に近い質感だが、もっと密度がある。指で摘み上げると、ごく微量の、しかし確かに異質な魔素の残滓が絡みついていた。


「……面白い」


 私は独り言のように呟いた。


 烏丸がすぐに反応する。


「何か」


「札は効いていない。塩も意味をなしていない。祈祷の痕跡はあるが、霊的な残留は乏しい。にもかかわらず、肉体変化の物証だけが濃い」


「つまり?」


「少なくとも“狐が取り憑いた”という説明は、三流の田舎芝居だ」


 源蔵が険しい目を向けてくる。


「では何だと言う」


「まだ絞っている最中だ」


 そう言い放ち、私は指先に摘んだ銀灰色の獣毛を見つめていた。


 因習に塗れたこの家がひた隠しにしてきた「何か」の輪郭が、分厚い土蔵の暗がりの中で静かに浮かび上がろうとしていた。




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