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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その5 旧家の狐憑き

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2、恥




 新幹線という鋼鉄の筒に長時間収容され、さらにそこから自動車へと積み替えられ、舗装の甘い山道を延々と運ばれる。


 現代文明の恩恵をもってしても、東北の山奥という地理的条件は、私の精神と肉体を等しく摩耗させた。グリーン車という一条家の提示した甘美な餌に釣られて出てきたが、結局のところ数時間にわたり背骨へ断続的な振動を与えられ続けただけである。移動とは、根本的に野蛮な行為だ。


 夕暮れの名残すら失せかけた頃、ようやく車が止まった。


 久田野くたの家。


 山を背負うようにして建つその屋敷は、豪壮というより、ひどく時代錯誤な膨張の仕方をしていた。立派ではある。金もかかっているだろう。

 だが、そこに人が住んで豊かに暮らしてきた気配は薄く、ただ「代々ここにあった」という重さだけが、古い木材や瓦や石垣の一つ一つに沈殿している。


 門構えは重く、塀は高い。庭木は手入れされているのに、景観全体にはどこか閉塞した息苦しさがあった。趣味の良い旧家ではない。

 外部の目線を拒絶しながら内部だけで増殖した、極めて古い生き物の巣のような屋敷だ。


 重厚な門の前で私を迎えたのは、先回りしていた烏丸からすま 左京さきょうだった。


 彼は例によって仕立ての良いスーツを着こなし、顔の筋肉だけで構成されたような、極めて胡散臭い笑顔を浮かべていた。寒冷地の薄暮の中でも、その笑顔だけは妙に滑らかで、まるで周囲の湿った空気から一人だけ切り離されているようだった。


「長旅、ご苦労様でございます。堤門の御前」


「労いの言葉だけで移動の疲労が回復するなら、私は今ごろ聖人君子になっている。ところで、この屋敷は廃墟か何かなのか? 案内人以外の生命反応がひどく希薄なのだが」


 私は門をくぐりながら、庭と母屋を一瞥した。


 音がない。


 完全な無音ではない。風が木々を揺らし、遠くで水の滴る気配もある。だが、生活音が欠落しているのだ。人が大勢住んでいる屋敷なら、どこかで食器が触れ合い、誰かが障子を開け、足音や咳払いが混じるはずである。ここには、それがない。


 静か、というより、意図的に生気を押し殺している。


「当主の意向です」


 烏丸は私の視線を追うようにして、母屋の暗い窓列へと目を向けた。


「娘の症状を『家の恥』として極端に恐れておりまして。ご家族も使用人も別棟へ移し、接触は最小限に抑えております。食事も決まった時間に土蔵の前へ置くだけ。戸を開けるのは、源蔵氏と、特別に許された者のみだとか」


「随分と熱心な隔離だな。感染症病棟の方がまだ人道的だ」


「ご当人たちは、これを慈悲だと信じておられるのでしょう」


 慈悲。


 便利な言葉だ。加害と怠慢と無理解を、いくらでも包み隠せる。


 母屋へ通されると、板敷きの廊下は異様なほど磨き上げられていた。柱も欄間も古色を保っている。季節の花すら、しかるべき床の間に置かれている。にもかかわらず、屋敷全体に漂うのは美意識ではなく緊張である。

 綺麗にされている、というより、崩壊寸前の秩序が必死に整えられている印象だった。


 私は、いくつかの点で違和感を覚えていた。


 ひとつ。廊下の角に、塩が盛られている。かなり古い形式の清め塩だ。見せかけではない。手順を知っている者が、日ごとに替えている。


 ふたつ。柱の陰に、護符が貼られている。寺社の量産札ではない。一条家の流儀とも違う。地方の行者か、あるいは昔ながらの祈祷師のものだろう。


 みっつ。にもかかわらず、屋敷に漂う霊的な濁りはほとんどない。


 つまり、この家はすでに十分すぎるほど「霊障対策」を行っている。しかも長期間にわたり。だが、それで状況が改善していない。


 ――怪異に見えて、怪異ではない。


 その可能性が、到着して数分の段階で既に濃くなっていた。


 通された座敷で待っていたのが、久田野 源蔵げんぞうだった。


 古い和服を着込み、座布団の上で微動だにせず座っている。身体つきそのものは老人に相応しく痩せていたが、背筋は妙に真っ直ぐだった。若い頃から「家」の看板を背負う姿勢を叩き込まれ、その癖だけが骨に残った人間の座り方だ。


 深く刻まれた皺は、そのまま年齢だけの産物ではあるまい。長年、何かを睨みつけるようにして生きてきた者の顔である。

 だがその濁った眼差しの奥には、敵意だけではなく、もっと粘着質で扱いにくいもの――羞恥、恐怖、執着、そして諦念が混ざっていた。


「一条家の使いが、このような得体の知れん探偵とはな」


 挨拶の代わりに投げられたのは、老齢に相応しくない鋭さを持った声だった。


「家の恥を、これ以上余所に漏らす気か」


「私にとって他人の家の恥など、記憶領域を割いて保持する価値もありません。必要なら今この場で忘れますが」


 私は座るよう促される前に勝手に腰を下ろした。無礼に対して礼を返す義理はない。


「もっとも、その『恥』とやらが本当に存在するならの話ですが」


 源蔵の眉間に深い皺が寄る。威圧に慣れていないのではない。むしろ逆だ。彼は自分が威圧する側であることに慣れすぎていて、それが効かない相手を前にした時の反応を知らないのだ。


 烏丸がその空気を薄く笑って均そうとしたが、私は手で制した。


「確認したい。症状が出たのはいつからだ」


 源蔵はしばらく黙っていた。答えないのではなく、答える順序を組み立てている沈黙だった。言葉を慎重に選ぶ人間ではない。選ばねばならなくなった人間の間だ。


「……半年ほど前から、あやしくなった」


「“あやしい”では情報量が足りない。事実だけ述べろ」


「夜に歩き回るようになった。最初は物音だけだった。蔵の周りを誰かが歩く音がする。障子の外に気配がある。朝になると、庭に足跡が残っている。裸足のようでもあり、獣のようでもある、妙な跡だ」


「その時点で本人の自覚は?」


「ない。蓉子は、朝になると何も覚えておらんと言った」


「それで?」


「しばらくは夢遊病だと……医者にも見せた。薬も飲ませた。だが、治まらなかった」


 源蔵の声が、そこだけわずかに鈍る。


「ある朝、口の周りに血をつけておった。納屋の裏に、野良犬か何かの死骸があった。腹が裂かれ、内臓が……」


 そこで彼は口を閉ざした。


 吐き気を堪える者の仕草ではない。記憶を飲み込んでいるのだ。もう何度も思い出したに違いない出来事を、それでもなお言葉にするのが苦痛なのだろう。


「以後は土蔵へ隔離した、と」


「やむを得ん。あれは人ではない。少なくとも、夜のあれはもう、蓉子ではない」


 断定した瞬間、彼はほんのわずかに視線を逸らした。


 私はそれを見逃さなかった。


 面白い。


 本気で化け物だと思っているのなら、視線は逸れない。恐怖や嫌悪があっても、断定には確信が伴う。今の反応はむしろ逆だ。自分でそう言い聞かせている人間の目だ。


「君は“人ではない”と思い込みたいらしいな」


 源蔵が、はっきりと顔を上げた。


「何だと」


「そうでもしなければ、孫娘を檻に入れたことの説明がつかないのだろう」


 畳の上に、空気がひどく重く落ちた。


 烏丸でさえ一瞬口を挟まない。私は構わず続けた。


「もちろん、危険性があるなら隔離そのものは合理的だ。問題は、その後だ。医者を呼んだ、祈祷師を呼んだ、札を貼った、塩を盛った。だが根本的な検証はしていない。家の外に漏らすことばかり恐れて、結果として症状を育てている」


「黙れ」


 源蔵の声は低かった。しかし怒鳴る寸前の声ではない。むしろ、怒鳴れば崩れるから押し留めている声だ。


「わしが何もしておらんとでも思うか。できることは、全てやった。寺も、神社も、医者も、祈祷も、一条家も呼んだ。だがどこも匙を投げた。あれを表へ出せば、蓉子は終わる。久田野の娘が狐憑きだと知れたら、この土地では生きていけん」


「それは“この土地”の問題であって、彼女の問題ではない」


「同じことだ!」


 その瞬間だけ、源蔵の声に年老いた獣のような生々しさが宿った。


「家が潰れれば、人も潰れる! お前のような流れ者には分からん!」


 ――なるほど。


 ようやく少し見えた。


 この老人にとって、家と人間は分離していない。家名が人を守り、家名が人を殺す。そういう時代のまま、精神だけが取り残されているのだ。孫を守りたい気持ちは本物なのだろう。だが彼にとって守るとは、個人の生存ではなく「家の中に隠しておくこと」なのだ。


 ひどく前時代的で、ひどく歪んだ愛情である。


「質問を変えよう」


 私は声の温度を一切上げずに言った。


「蓉子本人は、何と言っている」


 源蔵の顔から、険しさがわずかに抜けた。いや、抜けたというより、疲労が前へ出た。


「……外へは出たくないと」


 短い答えだった。


「自分が何かしたのではないか、誰かを傷つけるのではないかと怯えておる。あれは昔から気丈な子でな、泣き言は言わん。だが、ここ一月ほどは……自分で自分を見なくなった」


 最後の一文だけ、妙に正確だった。


 私はわずかに目を細める。


「鏡か」


 源蔵は一瞬、驚いたように私を見た。


「なぜ分かる」


「そういう崩れ方をする人間は、まず自分の輪郭から目を逸らす」


 彼女はまだ、壊れていない。壊れかけているだけだ。完全に狂気へ沈んだ者は、自分を見ないことすら選ばない。


 私は立ち上がった。


「対象者の元へ案内していただこう」


 源蔵は、数秒だけ逡巡した。その逡巡は「見せたくない」ではなく、「見せた後、どう思われるか」が怖い人間のものだった。彼は立ち上がると、無言で先に歩き始めた。


 母屋の裏手へ回り、石畳を渡り、少し離れた場所にある古い土蔵へ向かう。


 近づくにつれ、空気の質が変わった。


 土と湿気と木材の匂い。その奥に、鉄錆に似た匂いが混じる。血の匂いだ。だが、それだけではない。獣臭い。犬ほど直線的ではなく、もっと乾いた、毛皮と夜気の匂い。


 扉の前には、食器を置くための台があった。古びた盆の上に空の茶碗が載っている。縁には歯が当たったような傷が残り、陶器の表面が細かく欠けていた。


「食事は、全部食べるのか」


 私が尋ねると、源蔵は低く答えた。


「昼はほとんど口をつけん。夜に置いたものだけ、空になることがある」


「献立は?」


「粥、汁物、柔らかいものだ。消化の良いものを……」


「肉は」


 源蔵の口が止まった。


「……最初は出しておった。だが、ある晩から、生でないと受けつけなくなった」


「ほう」


 そこまで聞けば、推理の輪郭はさらに絞れる。


 単なる夢遊病ではない。霊障の類でもない。食性が変質している。しかも昼と夜で要求が違う。身体機能が時間帯によって別系統へ切り替わっていると考えた方が自然だ。


 だが、まだ断定は早い。


 私は何も言わず、源蔵に扉を開けさせた。




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