1、厄
暴力的なまでに甘く、濃厚な乳脂肪分が舌に絡みつく。
探偵事務所のデスクに深く腰掛けた私は、ビルの一階にある自動販売機で購入した缶のカフェオレを口に含み、至福の微睡みの中にいた。極端に魔素の薄いこの世界において、私の脳髄と肉体を最も効率的に回復させるのは、このような人工的な糖分の塊である。
平穏な午後だった。文庫本を開き、このまま夕方まで何事もなく過ごすつもりでいた。
そこへ、デスクの上で無機質な電子音が鳴り始めた。
画面に明滅していたのは、『一条家』という、ひどく忌々しい文字列だった。
このまま収納へ放り込んで次元の彼方へ葬りたい衝動に駆られたが、社会的なしがらみというものは、物理的に消去した程度では解決しない。
私は溜息とともに通話ボタンを押した。
「堤門の御前。ご機嫌麗しゅう」
スピーカー越しに鼓膜を叩いたのは、一条家の案内人である烏丸 左京の声だった。慇懃無礼で、薄ら笑いがそのまま音になったような声である。
「用件から言いたまえ。私は今、カフェオレと読書という極めて有意義な時間を過ごしているのだ」
「それは失礼いたしました。本日は御前に、少々厄介な調査をお願いしたくご連絡を差し上げました」
やはり来たか、と私は眉間を揉んだ。
「スズナの借りは、先日回収した呪具で返したはずだが」
「お言葉ですが、御前。当家からは彼女の世話役として、式を一柱専属としてお付けしております。その維持費と運用コストも考慮していただかねば」
「それも込みの取引だったはずだ。本来、あのような異界の迷子の保護は、この国の妖異を牛耳るそちらが主体となって行うべき案件だろう。私にとっては逆に迷惑なのだが」
正論による論理的な殴打を放ったが、烏丸は柳のように軽やかにそれを受け流した。
「ええ、その節は大変助かりました。しかし仕方ありません。では今回はこちらの『借り』と言うことで、一つお引き受けください」
……これがあるから、私はあまり京の連中には近づきたくなかったのだ。
私は抗議の意志を示すためにわざと長く重い息を吐き、残りのカフェオレを胃に流し込んだ。
相手が絶対に引き下がらないことを熟知しているがゆえの、ひどく無駄な抵抗である。
「それで? 次はどこで何を回収すればいいのだ」
「いえ、今回は回収業務ではございません。東北にある旧家の娘が『狐憑き』の疑いありとのことでして。その調査をお願いしたいのです」
「狐憑き? そちらの方が専門だろう。私のような素人探偵に回す案件ではない」
「おっしゃる通りです。しかし、こちらでも人員を派遣して多方面に渡り調べたのですが、どうやら通常の狐憑きではないようなので」
「狐憑きに通常とか異常があるのか。興味深い学説だな」
古来より狐憑きなど、狂犬病か精神疾患の言い換えに過ぎない。
あるいは、この国特有の霊障だ。
――いずれにせよ、一条家が対処できない理由にはならない。
「依頼人は久田野家。古くから『クダ屋』として財を成した一族です。当家とも古い付き合いがありまして」
「呪いを生業にしていた家系が、得体の知れない狐に憑かれたと。自業自得の喜劇だな」
「笑い事ではないのです。資料はメールでお送りしますが、夜な夜な異様な行動をとり、日に日に痩せ衰えていると」
通話を繋いだまま、私は手元の端末で烏丸から送信された添付ファイルを開いた。
そこに写っていたのは、漆喰の壁や木製のドアに刻まれた、深くえぐれたような無数の傷跡。そして、口の周りに血の痕をつけたまま、うつろな目で座敷牢に座り込む二十代の女性の姿だった。
(……ほう)
私の思考が、静かに回転を始める。
壁の傷は、明らかに刃物ではなく『獣の爪』による物理的な破壊痕だ。狂犬病や精神疾患の人間が素手でつけられる傷ではない。一条家が霊的な呪術で対処できなかったという事実と、この物理的な損壊。
原因はまだ断定できないが、少なくとも「迷信深い田舎の夢遊病」などで片付く案件ではないことだけは確かだ。
「……手配は全てこちらで行います。グリーン車から現地の宿まで、御前に一切の不自由はさせません。ご足労をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします」
烏丸の言葉には、有無を言わせぬ圧があった。
またも、一方的に通話が切断される。
私は無表情のままスマートフォンをデスクに置き、空になったカフェオレの缶をゴミ箱へ放り投げた。
一条家に『貸し』を作っておくことは、今後のスズナの処遇において決して悪い取引ではない。それに、すべてを手配させるのであれば、たまの地方への小旅行も悪くはないだろう。
「……東北、か」
この時は、グリーン車という甘い言葉が私の目を眩ませていた。
由緒正しき旧家というものが、いかに陰湿で前時代的なホスピタリティの欠如した空間であるか。
そのリスク計算を完全に怠っていたのである。




