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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その4 探偵の不在――連れ出されるスズナ

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5、無糖の珈琲




 極道の組長と感情を持たない式神による、ひどく陰湿で高度な情報戦(という名の茶会)を抜け出した一行は、ようやく矢吹やぶき町へと通じる大通りへ戻ってきていた。


 琴巴ことははのんきに洋服の入った紙袋を揺らし、スズナは胃袋に収まったパフェの余韻を反芻している。

 一方、駿平の顔色は完全に土気色に変色し、今にも倒れそうな足取りでアスファルトを踏みしめていた。


 その時、前方の交差点から鋭い悲鳴が上がった。


「泥棒! 誰か、私のバッグを!」


 悲鳴の主である女性を突き飛ばし、若い男が自転車に乗ってこちらへ猛スピードで突進してくる。その前かごには、ひったくったばかりと思われる女性物の鞄が入っていた。


 スズナの獣耳が、男の放つ明確な敵意と逃走の気配を捉えた。

 思考よりも先に、シュガレット侯国で培われたシーフとしての反射神経が起動する。


 スズナは無言のまま、自転車の進行方向へと滑り出た。

 彼女の動きには重力を感じさせる予備動作が一切ない。猛スピードで迫る自転車の車体を最小限の身のこなしで躱すと同時に、すれ違いざまに男の衣服の襟首を正確に掴み取った。


 そのまま自らの重心を落とし、男の進行方向へ向かう慣性を完全に利用して、背負い投げの要領でアスファルトへ叩きつける。


 自転車は持ち主を失って無惨に横転し、ひったくり犯の男は肺の空気をすべて吐き出して白目を剥き、一撃で意識を刈り取られた。


 志織は、男がひかれたカエルのように伸びているのを、無機質な目で見下ろしていた。


 周囲の歩行者たちが、完全に硬直した。

 十歳ほどの華奢な少女が、猛スピードの自転車に乗った大人の男を、まるで小枝でも折るかのように容易く制圧したのだ。

 現代日本の物理法則を完全に無視した挙動である。


「あ……」


 事態を把握したスズナが、しまったというように耳を伏せた。志織は念話すら飛ばさず、無表情で事の顛末を観察している。

 周囲の通行人たちがざわめき始め、スマートフォンを取り出そうとした、まさにその瞬間だった。


「パ、パルクールです!!」


 喉から血が出るのではないかというほどの絶叫が、大通りに響き渡った。

 駿平である。彼は完全に限界を迎えた胃を押さえながら、秘密機関の目から護るため、群衆とスズナの間に立ちはだかり、両手を大きく広げた。


「今流行りの、アクロバットの練習中なんです! この子は海外から来たプロのスタントマンで、これは防犯のパフォーマンスです! だから、動画とか撮らないでください!」


 必死すぎる少年の弁明。しかし、その異常なまでの気迫と、「パフォーマンス」という現代人にとって都合の良い免罪符が機能したのか、群衆は「なんだ、撮影か」と毒気を抜かれ、次第に散り始めた。


「……スズナちゃんって、そんなのだったっけ? ……まあいいわ。すごいね」


 琴巴が何かを納得したように呟く横で、駿平はついに膝から崩れ落ち、アスファルトの上で灰のように燃え尽きた。





 疲労の極致に達した一行が『堤門探偵事務所』のドアを開けると、そこにはひどく見慣れた、しかし現在ここにあるはずのない気配が充満していた。

紫煙の匂いである。


 スズナは室内に満ちる微かな魔素を感じ取り、弾かれたようにデスクへと駆け寄った。


「ボス!」


 デスクの主の椅子には、数日間の地方出張へ赴いていたはずの統が、ひどく不機嫌な顔をして深く腰掛けていた。


 彼は右手で煙草を挟み、残った三本の指で器用に自動販売機で売られている黒い金属の筒――無糖の缶コーヒー――を持ち、それを親の仇のように睨みつけている。


「所長! どうしてもう帰ってきてるんですか! 三泊の予定じゃ?」


 琴巴が驚きの声を上げ、直後、眉を吊り上げた。


「じゃなくて、また事務所でタバコ吸って! 駿平くんもスズナちゃんもいるんだから、子供の前では絶対に注意してくださいっていつも言ってるじゃないですか!」


 琴巴の鋭い説教を意図的に無視し、統は灰皿に煙草を押し付けた。そして、手元の黒い缶を忌々しそうにデスクへ置いた。


「この煙草は、宇宙飛行士用にNASAで極秘開発された無害の煙草なのだ」


「極秘開発とか言ってますが、パッケージにはhi-liteハイライトってしっかり書かれてますが」


「偽装だ。極秘開発なのでな。それより、私の口腔に、この泥水のような液体を流し込まねばならない精神的苦痛は、いかなる法律でも裁けない不条理だ」


 統は完全に論点をすり替え、自らの不運だけを嘆いた。


「どうしてここにいる、にゃ? ボス、仕事は?」


 スズナがたどたどしい言葉で尋ねる。


「『にゃ』はいらん。あの地方都市の宿泊施設は、寝具の質が致命的に悪かった。あのような粗悪な寝床で睡眠をとれば私の背骨は完全に歪む。己の安眠を守るため、二日分の調査を三時間で強制的に終わらせて帰還したのだ。実に非効率な労働だった」


 ただ「自分のベッドで寝たい」という身勝手な理由だけで、依頼者の都合を完全に無視して異常な速度で仕事を片付けてきたらしい。


 統は深く溜息を吐き、室内に立つ一行を見回した。そして、完全に生気を失って干からびている駿平の顔に目を留めた。


「……少年の顔が、私の出発前より五年ほど老化しているように見えるが。君たち、私の不在時に何か面倒な事案でも引き起こしたのか」


「何も、ない。我、ただの猫娘として、完璧に振る舞った」


 スズナが胸を張って答えると、背後で駿平が「どの口が言うんだ」とばかりに崩れ落ちた。


「そうか。ならば詮索はすまい」


 統はそれ以上追求する労力を放棄したのか、足元に置いていた旅行鞄から、和紙で上品に包装された小さな箱を取り出し、デスクの上に無造作に放り投げた。


「出張先の名物だ。極めて糖度の高い和菓子であると推測される。労働の対価として、君たちのそのひどく疲弊した精神をこれで回復させたまえ」


「お菓子! ありがとうございます、所長!」


 琴巴が歓声を上げ、駿平も和菓子の存在にようやく少しだけ顔に生気を取り戻した。




 スズナは騒がしく箱を開ける人間たちを一瞥し、ふたたび主の横顔へと視線を戻した。


 煙草の匂いと、苦いコーヒーの香り。そして、微かに漏れ出る魔素の気配。


 主を見上げている時、スズナの心は完全に満たされていた。


 故国シュガレットでも、こんな感覚は知らなかった。これを地球の言葉では何というのだろうと、彼女は開けられた箱から漂う甘い香りを気にしつつ、ぼんやりと考えていた。




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