3、甘味の暴力
駅前にそびえ立つ巨大な商業施設。スズナの目に映るそれは、鋼鉄とガラスによって構築された、極めて難易度の高い未知の迷宮であった。
入り口に到達した一行の前で、透明な壁が、何の詠唱も魔力の行使も伴わずに突如として左右に分かれた。
スズナは即座に重心を落とし、不可視の結界魔法に対する警戒態勢をとった。
しかし、隣を歩く琴巴は一切の躊躇なく、その罠としか思えない空間へ足を踏み入れていく。
「御前からも説明があった通り、この世界に魔術的な機構は存在しません」
硬直するスズナの脳内に、志織の冷徹な念話が響いた。
「あれは赤外線で物体の接近を感知し、電力によって物理的に扉を開閉するだけの単純な機械装置です。警戒は不要です。無駄なエネルギー消費に該当します」
魔法が存在しないくせに、魔法のような事象が日常的に起きる世界。説明されてのほとんど理解できない。
スズナは釈然としない思いを抱えながら、恐る恐る自動ドアを通り抜けた。
しかし、試練はそれだけでは終わらなかった。
施設の内部に広がるのは、異常な密度で陳列された物品の山と、無数の人間たち。そして彼女の前に、次なる罠が立ちはだかった。
階上へと続く、絶え間なく動き続ける階段――エスカレーターである。
(……動く床のトラップ。足場を強制的に移動させる捕縛型トラップか……)
スズナは完全に足を止め、耳を伏せて眼前の機械構造を睨みつけた。
「ほら、スズナちゃん、乗るよ」
琴巴が暢気に手招きするが、スズナは首を横に振る。すると、背後からひどく強張った声がした。
「だ、大丈夫だよ! 僕が先にしっかりと確認するから!」
駿平である。彼はまるで地雷原を進む歩兵のように、大仰な動作でエスカレーターに乗り込んだ。彼にしてみれば「政府の追手から身を隠している妖怪」が、文明の利器に怯えるのは当然だと解釈したらしい。
駿平が何事もなく上の階へ運ばれていくのを確認し、スズナはようやく覚悟を決めて動く階段に足を乗せた。
無事に階上へ到達した一行は、フードコートと呼ばれる広大な食事区画に陣取った。
「はい、スズナちゃん。ここのクレープ、すごく美味しいんだよ」
琴巴が笑顔で差し出してきたのは、薄い生地の中に大量の生クリームと果実が詰め込まれた、美しくも魅惑的な物体。
スズナは差し出されたそれを両手で受け取り、端を小さくかじった。
直後、彼女の脳天を強烈な衝撃が突き抜けた。
極上の甘味と、濃厚な乳脂肪の暴力。シュガレット侯国の粗末な携帯食料とは次元が違う、純粋な快楽としての味覚。咀嚼するたびに、思考が甘味に侵食されていく。
この世界の人間は、魔法が使えない代わりにこのような恐ろしい錬金術を日常的に行っているというのか。
感情の爆発は、正直な生体器官に即座に反映された。
スズナの頭上の獣耳がピンと立ち上がり、ハーフパンツの隙間から伸びる長い尻尾が、歓喜のあまり左右に激しく揺れ始めたのだ。
「うわ、あの子のコスプレすごい」
「尻尾動いてるよ。どういう仕組み?」
周囲のテーブルに座っていた女子高生やカップルたちが、スズナの完璧すぎる獣人としての挙動に目を留め、スマートフォンを向け始めた。
スズナ自身はクレープの魔力に完全に取り憑かれており、周囲の視線など意に介していない。
志織もまた、彼らが危害を加える存在ではないと判断し、無表情で放置している。
ただ一人、駿平だけが致命的な危機感に苛まれていた。
(やばい! 目立っちゃダメだ! 秘密機関の人間に見つかったら、スズナちゃんが解剖されちゃう!)
統が吹き込んだひどく杜撰な嘘が、十歳の少年の脳内で最悪のシナリオを増幅させていた。
駿平は弾かれたように立ち上がると、スズナを背中で庇うようにして周囲の視線へ向かって両手を広げた。
「ち、違います! これはモーターです! 中にモーター入ってるだけです! すごいやつです! えっと、自動で動いてるだけなんです! 本物の妖怪とか、そういうのじゃありません!」
喉が裂けんばかりの声で、聞かれてもいない弁明を叫び散らす。
周囲の人間たちは、突如として奇声を上げた派手な服装の少年にドン引きし、そそくさと視線を逸らしてスマートフォンをしまった。
「……駿平くん、どうしたの? 急に大声出して」
クレープを頬張っていた琴巴が、不思議そうに瞬きをする。
「なんでもないです! 僕が、僕が防波堤にならないと……!」
駿平はひどく青ざめた顔で周囲を睨みつけながら、一人で勝手に胃の痛みを加速させていた。
その背後で、スズナは地球の極上の甘味に舌鼓を打ちながら、なぜこの幼いオスが突然威嚇行動を始めたのか理解できず、ただ不思議そうに耳を傾けていた。
主不在の買い物は、駿平の精神を確実に、そして非効率に削りながら続いていくのだった。




