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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その1 勘違いストーカー

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2/14

2、依頼




 高階たかしな市矢吹町。かつては風俗街として栄え、昭和の終わりと共に一度は死に絶えたものの、最近になって大型商業施設を核にいけしゃあしゃあと活気を取り戻しつつある新興歓楽街だ。街の空気にそこはかとなく漂う、安香水とアルコールの残滓のような胡散臭さは未だに抜けきっていない。


 我が『堤門探偵事務所』は、そんな街の片隅にある雑居ビル「Mストーク」の最上階、四階に入居している。

エレベーターなどという文明の利器は存在しない。薄暗い階段の踊り場には、どの階の住人のものとも知れない自転車が不法投棄のように置かれている。見学に来た人間が三階あたりで引き返したくなるような、見事な場末感である。


 私は今、自身のデスクでひたすら無気力に缶コーヒーを啜っていた。


 来客に備えて豆から挽くなどという行為は著しく労働対効果が低いため、階下の自販機で調達してきたのだが、どういうわけか誤って「無糖」のボタンを押してしまったらしい。

 ミルクがたっぷりと入った甘い液体を期待していた口腔内に、黒く苦い泥水のようなものが流れ込んでくる。致命的なヒューマンエラーだ。しかし買い直すために再び四階分の階段を往復する気力はなく、私は無表情のまま致死量の苦味を受け入れていた。





「……というわけで、ここ三週間ほど、ずっと誰かに見られているような気がするんです」


 対面の古びたソファで、血の気を失った顔で語るのは兎我野とがの 玲奈れな、二十一歳。

 近隣の居酒屋で働いているという彼女は、膝の上で小さな鞄を固く握りしめていた。


「職場、駅、自宅の周辺。どこにいても、背中に視線を感じます」


「監視されている、と」


「はい。姿を見かけたのは一度だけです。三十代くらいの、知らない顔の男でした。警察にも相談したんですが、実害や証拠がないから気のせいかもしれないと、本腰を入れてもらえなくて……」


「なるほど」


 私は缶コーヒーをデスクに置き、ひめて事務的な声を出した。


「……相手に心当たりがない、とおっしゃいましたが」


「はい」


「ストーカーの大半は、被害者と何らかの接点があります。本当に一切ないと思いますか?」


「……考えたんですけど、わからなくて」


「では、当事務所への依頼内容は」


「相手が誰か突き止めてほしいんです。できれば、警察が動いてくれるような証拠も」


 玲奈はすがるような目を私に向けた。

 典型的な、そして極めて面倒な事案だ。他人の肥大化した執着心というじめじめした感情の処理は、全く私の性に合わない。適当な理由をつけて交番の地図でも渡してやろうと、私がもっともらしい断りの文句を脳内で構築し始めた、その時だった。


 事務所のドアが開く音がした。


「お疲れ様です。あれ、珍しくお客さんですか」


 大学の講義が早く終わったらしい虎見澤とらみざわ 琴巴ことはが、トートバッグを肩に下げて入ってきた。彼女は、過去の些細な出来事を勝手に恩義に感じて、この事務所で押し掛けのアルバイトをしている。


 琴巴はソファの玲奈を一瞥すると、手慣れた様子で給湯室へ向かい、来客用のカップと私のマグカップを持って戻ってきた。

 私の前には当然のように、淹れたてのブラックコーヒーが置かれる。先ほどから私が飲んでいる缶コーヒーと同じ色だ。

 この事務所では、私がコーヒーをブラックで嗜む渋い男だという誤った認識が完全に定着してしまっている。


「どうぞ。……あの、何かお困りごとですか?」


 琴巴が玲奈に温かいコーヒーを差し出しながら、柔らかい声で尋ねた。同年代の、しかも同性の気遣いに触れたことで、玲奈の張り詰めていた糸が少し緩んだようだった。

 彼女はぽつぽつと、帰り道がどれほど恐ろしいか、夜もまともに眠れないのだと吐露し始めた。


 琴巴の顔つきが、徐々に深刻なものへと変わっていく。

 報告書の清書や留守番といった雑務を押し付けるには都合が良いので彼女の存在を放置しているが、この娘には、恐怖よりも他者への救済を優先してしまう厄介な性質があるのだ。


「……所長。まさか、また適当な理由をつけて断ろうとしていたんじゃないでしょうね」


 琴巴が、非難めいた鋭い視線を私に向けた。


「人聞きの悪いことを言わないように。私は今、証拠がない状態での民間調査の限界と、防犯ブザーの有効性について論理的に説明しようとしていたところだ」


「引き受けましょう、兎我野さん。私たちが必ず相手を突き止めますから」


「琴巴くん。勝手に主語を拡大しないように。『私たちが』ではなく『警察が』だ」


「もし兎我野さんに何かあったら、所長は責任を取れるんですか?」


「取れないから断る方向で話を――」


 私の極めて合理的な反論は、正義感に燃える十九歳には全く届かなかった。


 玲奈が「本当ですか、ありがとうございます」と涙ぐんでしまったことで、私の退路は完全に断たれた。これ以上拒否すれば、今後の琴巴の労働態度に致命的な悪影響を及ぼすのは火を見るより明らかだ。


 私が深く、重いため息をついた直後。


 開け放たれていたドアの向こうから、今度は安っぽい香水の匂いがひゅうと吹き込んできた。


「ちわっス! 探偵修行に来ました!」


 無駄に派手な柄のシャツを着崩した男が、軽い足取りで姿を現した。近隣のホストクラブで中堅ホストをしている狗村いぬむらたもつ、自称二十二歳。


 探偵という職業をハードボイルドな何かと決定的に勘違いしており、雇ってもらうためと称して日参してくる鬱陶しい存在だ。


 私は冷めた目で彼を見る。

 自称二十二歳と言うが、私の目から見れば彼の肉体年齢は十代後半、おそらくは未成年だ。長い年月を生きている私からすれば、数年の年齢差を誤魔化すことに一体何の意味があるのか全く理解できない。


 保は、私の無機質な視線を「クールでシブい」と勝手に好意的に変換し、軽く会釈をしてから室内の状況に気づいた。

 彼が諦めず探偵業の真似事にかまけているのは、琴巴の気を引くためである。

 仕事柄、女性の扱いに慣れているはずの彼は、琴巴の姿を視界に入れた途端、あからさまに動きがぎこちなくなった。


「あ、こと、琴巴ちゃん。今日も早いんスね」


「保さん、香水きついです。依頼人の方もいるんですから静かにしてください」


 琴巴に冷たくあしらわれ、保は慌てて取り繕うように玲奈を見た。


「あ、困っているレディがいるみたいっスね。俺も手伝うッスよ、所長。裏社会のネットワークとか、俺に任せてください!」


 ホストクラブの控え室で仕入れた程度の薄っぺらい情報網を誇る彼を見て、玲奈が戸惑ったように保と私を交互に見比べる。


「あの……この方は?」


「ああ、気にしないでください。ただの賑やかしと、私の頭痛の種です」


 私は投げやりに答えた。

 お節介なアルバイトの同情心と、それに便乗するホストの自己顕示欲。これらが狭い事務所に充満した時点で、私の平穏な一日は終わりを告げたのだ。


 冷めきったブラックコーヒーを胃に流し込みながら、私はひたすらに効率の悪い労働の始まりを覚悟するしかなかった。




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