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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その4 探偵の不在――連れ出されるスズナ

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1、誤解の語尾




 極端に魔素の薄い世界に転移して数日。

 故国シュガレット侯国でシーフとして生きてきたスズナにとって、場末の雑居ビルにある『堤門探偵事務所』は、唯一呼吸がしやすい安全地帯となっていた。


 ある日の気怠い午後。


 事務所の空気は、ひどく弛緩していた。スズナは長机に向かい、奇妙な記号の羅列である地球の文字をノートに書き写すという地道な作業に没頭している。

 彼女の背後には、一条家から派遣された式神の志織しおりが彫像のように直立し、念話を通じて直接スズナの脳内へ言語の意味と文法を送信してきている。

 聞き取りに関しては、この無機質な女ゴーレムの通訳機能のおかげでほぼ完璧に理解できるようになっていた。


 しかし、自らの声帯を使って発音するとなると話は別だ。


「コレ、むじゅかしい。でも、地球の、アニメ、見たいから、ばんがる」


 スズナがたどたどしい発音で呟くと、向かいのソファで無駄に派手なスーツを着た男――たもつが、ひどく軽薄な笑みを浮かべて身を乗り出してきた。


「スズナちゃん、言葉の勉強もいいけど、大事なことを忘れてるッスよ。そのネコミミをつけてるなら、言葉の最後には絶対に『にゃ』をつけるのが、この地球の絶対的な常識ッス」


「……にゃ?」


「そうそう! それを言わないと、警察に捕まるレベルの重大なマナー違反ッスよ」


 スズナは真顔で頷いた。郷に入っては郷に従え、というのは冒険者の鉄則である。この世界で衛兵に捕まるのは避けたい。


 彼女は視線を巡らせ、窓際でひどく不機嫌そうに黒い筒――誤って購入したと無糖の缶コーヒー――を舐めるように飲み、もう片方の手で細い煙草を燻らせているこの群れのボス、堤門つつみかどすばるへと向き直った。


「すばる。我、地球の作法、理解した……にゃ」


 室内の空気が、文字通り完全に凍りついた。

 統の口から一筋の紫煙が細く吐き出される。彼は極めて冷酷な、まるで路傍の汚物を観察するような目で保を見下ろした。


 保はすかさず立ち上がり、頭を深々と下げた。


「あ、いや、所長。えっとあのー……聞いてください――」


 しかし統はそれを意図的に無視し、静かに口を開いた。


「保。君のその脳髄は、ホストクラブの安いアルコールで完全に溶解してしまったのか。異文化からの来訪者に対し、己の低俗な性的嗜好を常識と偽って刷り込むなど、万死に値する愚行だ。志織」


「はい、御前」


 直後、志織の身体がブレた。


 瞬きをする間もなく保の背後に回り込んだ式神は、極めて流麗な動作で保の右腕を背中側に捻り上げ、頸椎の致命的な急所に膝を押し当てた。


 保の声にならない悲鳴が事務所に響き渡る。

 関節が限界を訴える嫌な音を聞きながら、スズナは「やはりあの女ゴーレムは危険だ」と改めて理解した。


「地球の人間、変な生き物。にゃ……?」


「語尾を戻せ」


 統の冷酷な声と同時に、再び志織が保の関節を締め上げる。


 タイミング良く、買い物から戻ってきた琴巴ことはが、事情を聞き、保の頭を軽く叩いた所で悲鳴をあげていた関節は解放された。


 スズナは地球の言語の複雑さと、この群れの力関係のいびつさに、密かに肩をすくめるのだった。





 それから数日後の、雨の降る夕暮れ時。


 事務所の人口密度は、珍しく低かった。保は自身の勤めるホストクラブの同伴出勤とやらで不在であり、琴巴も大学のゼミの懇親会に出かけている。


 室内にいるのは、窓際で文庫本を読んでいる統と、壁際で待機する志織。そして、長机で隣り合って座るスズナと駿平だけだった。


 雨音だけが響く静かな空間で、駿平は学校の宿題のドリルを広げ、スズナは相変わらず文字の練習をしている。


 その時、駿平の手元から白いプラスチックの消しゴムが滑り落ち、床を転がってスズナの椅子の下へと入り込んだ。


「あ、ごめん。拾うよ」


 駿平がデスクの下へと潜り込む。


 スズナは文字を書くことに集中しており、足元の動きに気を払っていなかった。


 直後、スズナは自らの尻尾の根本――衣服の隙間から伸びている感覚器官を、何者かに強く握り込まれるのを感じた。

 完全な反射だった。


「ッ……! シャーッ!」


 スズナは喉の奥から獣特有の威嚇の呼気を漏らし、デスクの下で消しゴムを探していた駿平を鋭く睨みつけた。


 駿平の顔は、完全に血の気を失っていた。

 彼の右手は、まだスズナの尻尾の感触を覚えているはずだ。ただの布やモーターで動く作り物ではない。確かな体温があり、筋肉が脈打ち、意思を持って動く『本物の生体器官』の手触りを。


「あ……え……? ほんもの……?」


 駿平が、床にへたり込んだまま震える声で呟いた。十歳の児童の理解の範疇を、完全に超えた事象だった。

 彼の手は小刻みに震え、スズナの頭にある獣の耳と、怒りで毛羽立っている尻尾を交互に見つめている。


「御前」


 壁際で沈黙を保っていた志織が、一切の感情を交えない声で統に呼びかけた。


「簡易な偽装は掛けていたのですが、過度な接触により生体資産の秘密が漏洩いたしました。該当者は脆弱な個体ですが、今後の運用に支障をきたす恐れがあります。該当者の記憶の焼却、あるいは、物理的に処しますか?」


 志織のガラス玉のような視線が、排除対象として駿平をロックオンする。


 駿平が息を呑んで後ずさりしたその時、統は読んでいた文庫本に栞を挟み、ひどく面倒くさそうに頭を掻いた。


「やめたまえ。ただでさえ狭い事務所だ、これ以上死体や廃人を増やされては清掃の労働が増える」


 統は立ち上がり、床で震えている駿平を見下ろして、極めて平坦な声で告げた。


「君は運が悪い。見ての通り、彼女は君たちが思い込んでいるような外国人ではない。日本の山奥の秘境で見つかった、妖怪『猫娘』の生き残りだ」


「ね、ねこむすめ……?」


「そうだ。政府の秘密機関に知られれば、即座に捕獲され、研究所の冷たい手術台の上で生きたまま解剖される運命にある。私は彼女を不憫に思い、この矢吹町に匿っているのだ」


 息を吐くような嘘だった。


 大人が聞けば笑い飛ばすような与太話だが、今の駿平にとっては違う。手のひらに残る尻尾の生々しい感触が、その嘘を何より雄弁に裏づけていた。


「解剖……そんな……」


 駿平の瞳に、恐怖とは別の、ひどく強固な光が宿り始める。


「だから、君が不用意に騒げば、彼女の命はないと思いたまえ」


 統の脅し文句に、駿平は弾かれたように立ち上がり、小さな両手を強く握りしめた。


「言わない! 絶対に誰にも言わないよ! 琴巴さんにも、保さんにも秘密にする! 僕が……僕がスズナちゃんを守るから!」


 悲壮感すら漂う少年の決意表明。


 統は「それは好都合だ」とばかりに無関心に頷き、再び文庫本へと視線を落とした。


 スズナは、震える足で立ち上がり、決意に満ちた目で自分を見つめてくる富裕層の幼いオスを見つめ返した。

 地球の人間は、ひどく不器用で、騙されやすく、奇妙な生き物だ。だが、このひ弱な少年が自分に対して明確な庇護欲と使命感を抱いたことだけは理解できた。


 悪くない。でも役には立たないだろうとも同時に思った。


 スズナは警戒を解き、ゆっくりと尻尾の毛並みを落ち着かせながら、再び未完成の地球の文字に向き直るのだった。




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