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堤門探偵事務所 〜怠惰な不死者は、場末の探偵事務所でブラックコーヒーと厄介事を押し付けられる〜  作者: 真野真名
事件その3 異界の来訪者

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7、式神と茶番と対価のけし餅




 雑居ビル【Mストーク】の裏路地には、深夜の冷気が静かに澱んでいた。


 その暗がりの中心に、一人の女が立っていた。

 年齢は二十代後半に見える。仕立ての良い濃紺のパンツスーツに身を包み、長い黒髪を後ろで完璧にまとめた、いかにも有能そうなキャリアウーマンの風貌だ。


 だが、彼女の周囲だけ、決定的に生命の気配というものが欠落している。

呼吸の起伏がなく、瞬きの回数が極端に少ない。一条家から派遣されてきた『志織』である。


 私は背後を歩く保と駿平を振り返り、「先に事務所へ上がっていろ」と命じた。彼らは不満げに抗議しようとしたが、私の極めて冷酷な視線に射すくめられ、渋々ビルの階段を上っていった。


 しかし、スズナだけは私のコートの裾を固く握りしめ、一歩も離れようとしない。


「堤門の御前。無駄な労働、誠にご苦労様でございました」


 志織は私を見るなり、極めて滑らかな、しかし感情の起伏が完全に削ぎ落とされた声で深く一礼した。

 その仕草には、悠久の時を生きる私に対する、絶対的な畏怖と服従だけが組み込まれている。


「時代錯誤な敬称は不要だと言ったはずだが」


 私はコートのポケットへ手を入れ、次元収納の奥底から引きずり出したアンティーク調の懐中時計を無造作に差し出した。


 志織は恭しく両手でそれを受け取ると、引き換えに書類の入った封筒を私に手渡した。

 中身は精巧に偽造されたルーマニアのパスポートをはじめとする身分証一式と、マンションの鍵だ。

 この短時間でここまで用意したのか。


「相変わらず仕事が早いな。顔写真はどうした。後日、詳細と併せて送るつもりだったのだが」


「御前の御手を煩わせる訳には参りません」


 質問に対する返事としては不正確だが、まあ想像はつく。

 

 私はスズナを見下ろし、彼女の言語で極めて事務的に告げた。


「住む所は用意した。この志織について行け。元の世界に帰る手段は私が探してみるが、それまではこの世界の常識と今後の身の振り方を考えろ。言葉は彼女が教えてくれる」


 私が言うと、一条家の式神である志織は念話を用いて直接スズナの脳内へ意思を伝達したらしい。

 スズナは肩を強張らせ、志織をひどく警戒する目で見つめた。


「嫌だ。お前と離れない。一緒に暮らす」


 スズナは首を横に振り、さらに私にすり寄る。


「別に帰らなくてもいい。この世界、不思議な道具がいっぱいでちょっと楽しそうだし。それに……その女の人、ちょっと怖い」


「即座に却下する」


 私は一切の容赦なく彼女の甘えを切り捨てた。


「私の労働時間外におけるプライベートな空間は、いかなる理由があろうとも不可侵だ。それに、楽しそうに見えるのは君がこの世界の不条理をまだ知らないからに過ぎない」


 私の絶対的な拒絶の意志を悟り、スズナは不承不承といった様子で耳を寝かせ唇を尖らし、志織について行くことを了承した。

 だがその右手はしっかりと私のコートの裾を握っていた。


「では、私はこれで」


 私がスズナからコートの裾を取り返し、踵を返そうとした時だった。


「御前」


 志織が事務的なトーンで口を開いた。


「このまま私がこの者を連れ去れば、上にいる脆弱な人間たちが不審を抱き、後の運用に支障をきたす確率が極めて高いと推測されます。挨拶という社会的儀式を済ませるべきかと存じますが」


 彼女の目には、保や駿平といった人間が路傍の石か管理対象のデータ程度にしか映っていない。

 だが、彼女の論理は極めて正しい。人間の厄介な感情を放置すれば、後日私が琴巴たちから受ける精神的摩耗は計り知れない。


 我々三人が事務所へ入ると、琴巴が待ち構えていた。


 私は志織を「高階市で連絡がついたスズナの世話役」として紹介し、スズナはそちらへ身を寄せる手はずになったと嘘をついた。

 志織は完璧な作り笑いを浮かべ、有能で温和な保護者という役割を寸分の狂いもなく演じきっている。


 そこから先は、私にとって地獄のような時間だった。


 駿平が赤面しながら紡ぐ不器用な感謝の言葉、保のハードボイルドを気取った的外れな別れの挨拶、そして琴巴の過保護極まりない心配事の数々。


 私はそれらすべての些末で非生産的な言葉を、いちいち異世界の言語に翻訳してスズナに伝え、スズナのそっけない返答をさらに日本語へ翻訳し直すという、極めて無駄な通訳労働を強いられた。



 ようやくすべての茶番が終わり、騒がしい連中が一人残らず事務所から退出した。


 静寂が戻った自室のデスク。私は電気ケトルで湯を沸かし直し、急須で最高級のほうじ茶を淹れる。

 そして私は、今日という日をただひたすらに非効率な労働へと変貌させた諸悪の根源、和菓子店の箱に手を伸ばした。


 蓋を開ける。

 そこには、見た目こそ美しいままの『けし餅』が静かに鎮座していた。

 私は茶を一口含み、その餅を指でつまみ上げる。


 ……嫌な予感はしていた。


 口へ運び、噛み締めた瞬間、私の脳内に絶望が広がった。


 昼の時点では赤子のように柔らかかったはずの薄い餅の皮は、室内の乾燥と経過した時間のせいで、見事に表面が固く変質していた。

 内部のこし餡こそ無事だが、命とも言える柔らかな皮と、プチプチとしたケシの実が織りなす繊細な食感も、香ばしい香りも完全に死滅している。


 もはやこれは、極上のけし餅ではない。ただの、甘くて少し固いザラついただけの糖分の塊だ。

 ほうじ茶の渋みをもってしても、この喪失感を埋め合わせることは到底不可能だった。


「……最悪だ」


 私は誰に言うでもなく、深く暗い溜息を吐いた。


 交番での杜撰なカバーストーリーの構築から始まり、呪具の回収に伴う肉体労働。そして極めつけは、些末な別れの言葉の翻訳業務。


 そのすべての労働の対価が、この乾いて固くなった和菓子一つである。


 私はひたすらに己の非生産的な一日を呪い、理不尽を嘆きながら、固いけし餅を機械的に胃袋へと流し込んだ。


 深夜の事務所には、古びた掛け時計の針が刻む、虚しい時間のリズムだけが響き続けていた。




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