11 公爵と朝ごはん
いつの間にか眠ってしまっていた鏡花が目覚めたのは、朝になってからだった。昨夜、狼の姿の伊吹に話を聞いてもらい少しスッキリしたようなそんな朝だった。
鏡花は、葉が買ってきてくれた紺色の留袖をきっちりと着こなし、化粧台で長い黒髪を後ろで結って整えた。
「鏡花さん、朝食の準備が出来ました。よければ旦那様はご一緒にと……どうされますか?」
紬が襖を開けずに言った。鏡花は「洗顔をしたら参りますね」と答えた。紬は「かしこまりました」と返事をするとカサッと布の擦れるような音を立てて襖の前から去っていった。
鏡花は一旦、洗面所へ向かい洗顔をしてから昨日の昼食を食べた部屋へと向かった。すでに伊吹は部屋の中にいるようで彼と葉の話し声が聞こえる。
「失礼します。おはようございます。伊吹。葉さん」
「俺のことは葉でいいですよ」
「あ、ありがとう。えっと……」
鏡花は朝食が二人分しか用意されていないことに戸惑った。それをみて葉がぱっとちゃぶ台から遠ざかり
「俺は食べないので、鏡花さん座ってください」
と言った。伊吹がまだ戸惑っている鏡花に補足してあげるように付け足した。
「葉は前にも言ったように窮鼠という妖でね。彼は調理された食べ物よりも素材そのままが好きなんだ」
「素材……そのまま?」
鏡花の疑問に嬉しそうに答えたのは葉だった。
「俺、米は生米が好きだし野菜も火が通ってない硬いものを齧るのが好きなんです。紬の料理が美味しいっていうのはわかるけど、俺の好みじゃないというか。やっぱり食べ物は噛みごたえはある方がいいですよね!」
「そう、なのね。じゃあ、このお食事は私がいただきますね」
鏡花は生米を齧るという行為自体理解できなかったが、そもそも妖という存在に出会ったのが昨日が初めてなので無理やり彼らのことを理解することにした。
鏡花の目の前に置かれた朝食は「豪華」という言葉がぴったりだった。厚焼き卵に焼いた魚、副菜は野菜の和物と揚げ出し豆腐。その上、ご飯のお供が漬物以外に5種類も盛られていて、牛肉そぼろ、梅干し、昆布漬け、小魚の佃煮、焼き味噌。
温物は鏡花が美味しいと言った、鱈と野菜のすまし汁だ。
「おはよう、よく眠れたか?」
「えぇ、伊吹。昨日は……」
「いや昨日は俺じゃなくただの人懐っこい狼さ。君もその方が気持ちが楽だろう?」
「ありがとう」
「さ、食べよう。ここにきてくれたということは鏡花も腹が減ったろう? おかわりならたくさんあるからな」
「ありがとう、いただきます」
鏡花は手を合わせ、それから箸を取った。行儀よくお椀を持ち上げて温物を食べる彼女に伊吹は惚れ惚れした。姿勢ひとつ、所作の一つ一つが美しい。けれど、それを褒めるのは彼女を傷つけかねないので口には出さなかった。
「美味しい」
「よかった。俺のおすすめはこの焼き魚だ。実は朝早く山で紬が取ってきたものなんだ。いまだに釣り場は教えてくれないが……」
「そうなの?」
「あぁ。新鮮で美味いぞ。今日は岩魚だな、俺は頭も骨もいけるが……」
と言った伊吹は鏡花の皿をみてびっくりした。鏡花は魚を食べていたがまるで骨の位置がわかっているかのように美しく魚の身を箸で摘みあげ口に運んでいる。鏡花は魚を頭と骨と尻尾だけにしてしまうと満足げにお茶を飲んだ。
「すごく、綺麗に食べるんだな」
「そうでしょうか……」
「こんなに綺麗に食べる人は初めて見た。手先は器用か?」
「いえ、特段器用だと思ったことはありません。でもありがとうございます」
伊吹はバリバリと焼いた岩魚を頭も骨も平らげて、ごくんと飲み込んだ。鏡花は少しびっくりしたが、彼が狼の妖の血が入っていることを考えれば顎も胃も強くこうして全部食べてしまうのが効率的なのかもしれないと思った。そもそも、作法や所作なんて、気にする人気にしない人がいて、伊吹は気にしない人なのだから何の問題もないのだ。
「うまい、おかわり!」
「はい、旦那様。鏡花さんは何かおかわりなさいますか?」
「えっと、温物のお出汁だけとかいただけますか?」
「もちろんです。お持ちしますね」
伊吹が、鏡花をみて満足げに微笑んだ。鏡花はどうして彼が笑っているのか理解できず首を傾げる。
「鏡花の表情が良くなった。少しだけ、岩魚……美味かったか?」
「はい、美味しかったです。身がふわふわで塩気と皮の香ばしさがとても」
「そうか、よかった。鏡花は好き嫌いがないと言っていただろう? だから、これから好き嫌いを見つけていけば良いかと思ってさ」
「そんな、食べさせていただいているのに嫌いなど……」
「俺は、香味野菜が苦手だ。ネギ系とか、あとニンニクもダメ。鼻がバカになる」
「お野菜はあまり好きではないのですか?」
「うーん、でも甘い野菜は好きだぞ。きゅうりとか」
鏡花は近所の人が飼っていた犬が、きゅうりを美味しそうに食べていたことを思い出して、目の前に座っている男がだんだんと犬に見えてきた。
「鏡花、今何考えてた?」
「あっ、えっと何でもないです」
「ふーん、もしかして、きゅうりを咥えて喜んでいる犬を思い浮かべていたとか?」
「そんなことはっ」
「ははっ……あははっ。いいんだ、その通りだからね。鏡花は好きかい? きゅうり」
鏡花は優しい伊吹に安心しつつ、きゅうりについて考えてみる。
「きゅうりと言えば、叩いて胡麻で和えたり糠漬けにして食べたりでしょうか。薄い輪切りにして酢の物にしたのもよく食べた記憶があります」
「俺は、味噌をちょっとつけるだけのやつが好きだ」
「私はそうやって食べる場合は食べやすい大きさに切ってしまいますね」
「思いっきり齧るのが美味しいんだ。そうだ、今度山の沢できゅうりを冷やして一緒に丸齧りしようか」
「山の中ですか?」
「そう、冷たくて綺麗な沢があってさ。そこで夏野菜を冷やして丸齧りするんだ。毎年、葉と一緒にそうして食べるんだけど、今年は鏡花も一緒にさ。どうだ?」
鏡花は想像する、美しい山々の中を流れる沢に野菜がたくさん入ったカゴを沈める。しばらく、おにぎりやお茶を楽しんでから近々に冷えた野菜に塩や味噌をつけて思いっきり丸齧りする。
作法や所作なんて忘れてしまって、口の周りや手が汚れても気になんかせずに食べる。
「素敵……」
「よぉし、じゃあ天気のいい日に行こう。約束だ」
そんな話をしていると、紬が伊吹の分の大量のおかわりと鏡花の分の温物を運んできた。目の前に置かれた美味しそうな出し汁に鏡花はホッと暖かい気持ちになる。彼女は、虎尾家の屋敷にきて数度目の食事だが、食べることの幸せさや楽しさを感じ始めていた。
そのおかげか彼女の表情はだいぶ柔らかくなり、眼差しも感情が宿り始めている。
「あの、よかったら何だが」
「はい?」
「今日、庭を散歩しないか? 少し、外の空気を感じた方が健康にも良い。それに俺の日課でもあるし……、いやその付き合ってほしい」
(もしかして、お散歩って)
鏡花の脳内には狼姿の伊吹が楽しそうに庭を駆け回ったり、ゴロゴロと寝転がって日向ぼっこするところが浮かんだ。
「鏡花? 何を考えてニヤニヤしてるんだ?」
「はっ……すみません、つい」
「つい?」
「伊吹が、その狼の姿でお庭を駆け回ったり日向ぼっこをしたりするのを思い浮かべたら何だか可愛らしいなと思って」
「んなっ……あれは、あの姿は特別なんだ。悪いけれど、このままの俺と付き合ってもらうぞ」
「うふふ、もちろんです。もう足は痛みませんし、私も運動はしないと」
鏡花は暖かい出汁を一口飲みホッと息を吐いた。伊吹は少し恥ずかしそうで嬉しそうで照れ隠しのためか茶碗の中のご飯を一気にかきこんだ。




