10 行き場のない恐怖
「私が山に捨てられたのは、夫である遊馬慶と妹の遊馬すみれによる計画的なものだったの。私の水筒に睡眠薬と力が入らなくなる薬を盛られて……馬車は夫が用意したもので御者も見て見ぬふりだった」
鏡花は、そっと伊吹の方に視線をやる。すると伏せていた伊吹も顔を上げてじっと鏡花を見つめていた。ゆっくりと彼の頭を撫で、そっと耳に触れる。
「そうよね。どうして結婚したばかりで? 私もそう思っていたわ。けれど、夫は私を愛しているどころか、興味すら持っていなかったの。妹のように愛嬌も美しさも持たない私が無条件で愛してもらえるだなんて、自惚だったのね。夫は妹を愛していた、二人が結ばれるために私は邪魔だったの」
鏡花は大きく息を吐いて、目を閉じた。それから、また口を開く。
「夫と妹に捨てられたの。薬を盛られて腕を縛られて。おまけに山の中で罵倒されて……」
「ワフッ、ワフッ、ウゥ」
伊吹が吠えて何かを伝えようとしたが鏡花には伝わらない。けれど、慰めてくれているのかと彼女は受け取って諦めたような笑みを浮かべた。
「お父様もお母様も私を探したりしないわ。小さい頃から『妹を見習ったらどうだ』と言われてしまうくらい私は不出来な娘だったの。食事の所作もうまくできなくてね、いつも怒られてばかり。だから、怒られるのが怖くて恥ずかしくて、次第に食事の味なんて感じなくなった。そんな女、好きになってもらえるはずないって気がつきもしなかったの。だからね、私には帰る場所なんてないのよ」
鏡花は改めて自分の生活を見つめて、自分がいかにダメだったかを思い知る。自分は悲観的で笑顔すらない無表情で決まったことしか話さない。
どんな人間をよく思う人はいない。誰かに話して、言葉にして自分の悪かった部分をやっと知ることができたのだ。
「どうして、私は妹のように器用に楽しく可愛らしくできなかったんでしょう。自分ばかりが不幸だと思い込んで……、結婚すればどうにかなるかもしれないと勝手に希望を抱いたりして。最初から、私の居場所などどこにもなかったんだわ。自分で無くしてしまったんだわ」
また、二人は目が合った。伊吹は優しく瞬きをし、鏡花の手に顎をのせた。それから、洪水のように鏡花は今まで起きたことを話した。時系列もめちゃくちゃで記憶が定かではない部分も多い。けれど、自分がどう思ったか何が悪かったのか何が嫌だったのか。
十数年間、鏡花が口に出すこともできなかった感情だった。長年、話し相手がいなかった彼女は話すのも下手で全てを話し切るまでにかなりの時間がかかった。
「だから、私は怖いんです。ここでここに居ても良い人間なのかと自分を信用できないのです」
クンクンと鼻を鳴らした伊吹は、立ち上がり座り直すと鏡花にそっと寄り添った。触れ合っている部分からじんわりと暖かくなって、鏡花はそっと目を閉じる。
まるで「ここに居なさい」と言っているかのように、伊吹はそっと彼女に寄り添った。鏡花が寝息を立て始めてから数分、伊吹は元の姿に戻って彼女をそっと布団まで移動させた。
軽い、あまりにも軽いその体は彼女が今まで満足に食事を取らず、馬車馬のように家事をさせられてきたことが感じ取れた。美しさと性格を比較され、変えようのない部分を指摘され嘲笑われる。それが人間の心をどれだけ苦しめるか、彼女の家族はわかっていないのだろう。そう思えば思うほど、伊吹の中にフツフツとした感情が芽生えていく。
(あんなに話していたのに、鏡花は「怒り」「憎しみ」といった言葉は出てこなかった。それが彼女が自分を持たない証拠だろう)
鏡花という人間が見えてこない。悲しみと儚さばかりが目立って見えてこないと思いながら、じっと眠っている彼女を見つめる。
「こんなにも綺麗なのに、美しいのに。君はどうして……いや、今はやめておこう」
そっと部屋を出て襖を閉めると伊吹は静かにため息をついた。自分が彼女を助けたいと思う気持ちが、ただの哀れみや慈悲だけではないと感じていたのだ。




