12 散歩と大きな手
鏡花は部屋に戻り、足袋を履いた。正直、伊吹が散歩に誘ってくれた事が少し嬉しいと思っている。
「私は、素敵な人に拾われて幸せだわ。まるで夢みたい」
姿見に移った自分をじっと眺めてみると、自分自身の表情が少し柔らか口なっているように感じた。鏡花は遊馬家にいた時、鏡を見るのが嫌いだった。というのは、彼女は美しい妹と顔の造形や体型についていつも指摘されていたからだ。深い自己嫌悪に陥って鏡の中の自分が憎かった。
「私のこと、綺麗って……」
鏡花は、鏡を見ながら自分の頬に触れてみる。久しぶりによく眠れたからか肌は柔らかく凹凸が少ない。目もどんよりとしておらず、光が入っている。
(私の顔、こんなにじっくりと見たのは初めてかもしれないわ)
部屋を出ようとした時、鏡花はヒヤリと胃の中が冷えるような嫌な感覚を覚えた。恐怖に似た感情が、山中に捨てられた時のトラウマだとすぐに理解できた。あの時感じた土や草の匂い、虫の声。風の音。本来なら怖くないはずのものが怖いと感じる。鏡の中の鏡花の顔が引き攣った。
(ダメよ、約束してしまったのだから。大丈夫、大丈夫)
そう自分に言い聞かせ、とれてしまっていた紅を塗り直し、それから帯を少し整えた。懐紙を懐に入れてロビーへと向かう。ゆっくり階段を降りていくとそこにはもう伊吹の姿があった。
「お待たせしました」
「いや、待ってないよ。まぁ待つのも得意だけれどね」
そう言って笑った彼は、鏡花に向かって手を差し出した。鏡花は何事かと首を傾げ、彼の大きくて形の良い手を見つめた。
「ほら、お手をどうぞ。お嬢様」
「えっ?」
「何でも、遠く海の先の国ではこうして女性の手を男がとって安全に歩いてもらうらしい。確かに合理的だと思わないか? 女性が転ばないように助けやすい。それに、手を握っていると暖かいぞ」
「あ、あの……私、男性と手を繋ぐのは初めてで」
顔を真っ赤にした鏡花を見て、伊吹は少し驚きつつも彼女が夫であった慶にされていた扱いを思い出してぐっと真剣な表情になる。そして、伊吹はもじもじとしている鏡花の手を掴んだ。
細くて、冷たくて小さい。自分の元のは全然違うその感触に、彼の心臓が不自然に鼓動する。一方で鏡花の方は顔が爆発しそうなくらい熱くなり、恥ずかしくて俯いた。
「さぁ、段差に気をつけて」
「はい……」
伊吹に手を握られたまま、鏡花は歩き出した。ロビーを抜けて大きな2枚扉の玄関を抜けると眩しい日差しが彼女を照らした。思わず、声が漏れてしまうほど美しい景色に彼女は足を止めた。
「どうした?」
「いえ、とても綺麗」
虎尾邸のは山の頂上付近にあり、玄関の外は小さなテラスになっていてその両端から階段が伸びている。階段を降りると登山道につながっているようで小さな道を確認できた。
玄関テラスからの景色は、都まで一望できる絶景で空と地上の境界線が真っ直ぐに伸びている。
「そうか、鏡花はこの景色を見るのが初めてだったね」
「すごく高い場所にあるなんて思ってなかったから、驚きました」
「ここから家をぐるっと回って、少し散歩をしたら庭に行こうか。景色は綺麗だし、空気もすごく美味しいだろ?」
伊吹に言われて、鏡花は深呼吸をしてみた。澄んで冷たい空気が鼻から肺に入ると一気に目が覚めて体が冷えていく。緑の香り、土の香り、心が癒されるような不思議な感覚になって彼女は自然と目を閉じた。
「毎朝、起きたら部屋の窓を開けてみるといい。鏡花の部屋からはここと反対側の景色が見られるし、毎日この空気を吸えば目覚めも良くなる」
「そうかもしれませんね。すごく気持ちがいい」
「だろう? よーし! 鏡花、歩こう」
伊吹は鏡花の手を握ったままゆっくりと歩き出した。玄関テラスから伸びる階段を降り、虎尾邸を右手にゆっくりと歩き出す。洋館風の建物の周りは剪定された低木で囲まれていて、春にはこの低木に花が咲いて美しいと聞く。
葉が大の庭仕事好きで虎尾邸の周りや庭は彼が牛耳っており、細かい部分まで綺麗に整えられていた。
「大丈夫か? 足が痛くなったら教えてくれ。俺が運んでやる」
「運んでって……どういう」
「そりゃ、こうやって横抱きして君が足を使わなくていいように。やれ、もしそれが恥ずかしかったら『犬ぞり』はどうだ? 俺が犬の姿で台車をひいてやるんだ」
「伊吹、貴方は犬じゃないでしょう?」
「うーん、一応俺の体に混じっている血は狼の妖と言われているが正直あまり犬と変わらないな。鞠なんかをみると永遠に追いかけてしまう」
「まぁ……」
鞠を追いかけ回す伊吹を想像して鏡花がふっと吹き出した。今、彼女の隣にいる男はピシッと高級な着物を身につけ、背が高い色男だ。けれど、そんな彼が耳と尻尾を生やし犬のように鞠を追いかける姿はとても可愛らしいと感じたのだ。
「それに、うちは先代の頃から五大家族の間では『犬』と呼ばれていたんだ。俺も、今の貴族院の連中には『犬公爵』なんて呼ばれているよ。可愛らしいだろ?」
「そう……ですか? やはり狼の方が強くてカッコいい印象が私にはあります」
「本当か? じゃあ、鏡花は俺のことを強くてカッコいいと思ってくれているんだな。それはそれは嬉しいじゃないか」
「そ、それはっ」
「違うとは言わせないぞ。さ、鏡花。我が虎尾家の庭園へようこそ」
大きな植物のアーチをくぐり抜けると庭園が広がっていた。駆け回るのには十分な広さの芝生、鯉が泳ぐ池や烏骨鶏用の鶏小屋の周りは美しい花壇で囲まれている。庭と屋敷をつなぐテラスにはこれまた洋風のテーブルセットが並び、非常に洒落ている。
「一応、別荘には日本庭園があったりするんだが……枯山水の庭はこうあまり好きではなくてな」
「素敵なお庭だと思います。それに、すごく暖かい」
南向きの庭は日差しがたっぷりと降り注ぎ、立っているだけでポカポカと温かくなる。それを時折、涼しい山風が調和させ心地よい。また、眺めもよく遥か遠くには海も眺めることができた。
「ここにこうやって座って、たくさん日差しを浴びよう。気持ちがいいぞ」
伊吹は、鏡花の手を離すと、大きな風呂敷を芝生の上に広げて腰を下ろした。お行儀悪く足を投げ出し、大の字になって寝転がる。彼は鏡花にも座るようにぽんぽんと隣を手で叩いた。
鏡花は躊躇しつつ、彼の隣に腰を下ろす。
「足、伸ばしてもいいぞ。正座じゃ痛いだろう?」
「ですが……足を伸ばすのは少し恥ずかしいです」
「そうか。鏡花がもっと伸び伸びできるようになったら、いつかここで一緒にこうして大の字になろう」
「伸び伸びするのと恥ずかしいのは別かもしれません。留袖のまま足を伸ばせば肌が見えてしまいますので」
鏡花の言葉をきいて、伊吹はふしだらな想像をして彼女に背を向けた。彼の尻尾がふわふわと揺れ、耳は恥ずかしそうに垂れている。
「伊吹?」
「なんでもない、紬! 鏡花に膝掛けを持ってきてくれ!」
「はい、旦那様。鏡花さん、こちら膝掛けです。座布団もお持ちしたのでよければ使ってくださいね。お二人とも、お茶と甘味を用意しましょうか?」
「紬さん、ありがとう」
鏡花は座布団と膝掛けを受け取ってお礼を言った。一方でまだ顔を赤くしていた伊吹は「少し昼寝したら食べたい」と座布団をひったくって枕にする。
「かしこまりました」
紬が風のように消えると、再び二人の時間が戻ってきた。
「あの、伊吹? 一ついいですか?」
「なんだ? 俺はすけべじゃないからな」
「知っていますよ。そうじゃなくて」
伊吹は寝返りを打って鏡花の方に顔を向ける。彼女は膝掛けをしっかりと使って足を伸ばし気持ちよさそうに日差しとそよ風を浴びていた。伊吹の目に映る彼女はとても儚くて美しい。陽の光が入った焦茶色の瞳も、色白な肌と細い首も。日々、彼女の表情が戻ってくる事が伊吹にはとても愛おしかった。
愛おしいと感じるようになっていた。
「手を繋いでくれてありがとうございました。私、この山で怖い思いをしたから少しだけ緊張していたのです。けれど、伊吹のおかげで全然怖くなかったから」
鏡花の表情は少し強張っていたが、随分と柔らかくなっていた。ただ、諦めたように笑う癖はそのままで微笑みすら哀愁が漂っている。伊吹は、起き上がると彼女の手をもう一度握った。
鏡花は驚いて彼の方を見る。
「こうすれば、怖くないさ。なんにも怖くないんだ」
「ありがとう」
ぎゅっと握られた手を離さずに二人はゆっくりと日差しを浴びる。伊吹の尻尾だけが嬉しそうに左右に揺れていた。




