第67話 『ラムネです』
先日の”ベビーカー坂道事件”まで口にしてしまえば、その件に関してサチエが感じた疑問は一つ。
そう、萩がベビーカーを受け取りに行かなかった事だ。
「みんな、見ていた人は絶対に僕に失望したと思う・・・」
「おや、私が思っていた観点とは違いますね」
「え?なんて思ったの?」
「怪我したくないんだと思ったんです」
「まぁ、そうなんだけど・・・」
(ベビーカーが降ってきた時、掴めなかった。
人の命が掛かってたのに。
僕は、自分の指を優先してしまった。)
萩はあの瞬間から心がずっと重い。鉛を飲まされたように体の中心に残っている。
「みんながあんなに必死に走って、桔梗は身を投げ出して、もしかしたら桔梗だって崖に落ちていたかも知れないのに、双葉も踏ん張れなかったら、櫻が間に合わなかったら。
みんなが命を賭けたのに。
僕は、命どころか『指』すら掛けられなかった」
「初めてのご経験ですか?その気持ちは」
「いや、まぁ小さい頃から似たようなことはよくあったよ。これほど危機に迫られたことはなかったけどね。みんなと同じ遊びをやらないで、悪く言われることもあったよ」
「でしたら今回も同じ事ではないのですか?同じように過ぎたことです。それに、今回は怪我人も出ませんでした。何も問題はないのでは?」
「紅葉やサチエさんが・・・!」
「この場合、私と紅葉さんはカウントしないで結構ですよ。小さな子供が誰一人怪我しなかったって事です」
子供の頃から言われているのであれば、いつもと同じように今回もすぐに流せば良い。それがサチエの考えだったから素直に述べた。しかし。
「子供の頃から、指に関することで言われたこと・・・全部ちゃんと覚えてる。消化できないんだ。全部、ずっと」
「!?」
受け流したり気にしない術を遥か昔に身につけていると思っていたサチエは驚いた。
「そうでしたか。無神経なことを申し上げましたね。申し訳ないです」
「いやっ!違うよ・・・僕が、ずっと同じことで囚われてるだけなんだ・・・。上手く感情とか処理できなくて。嫌ならピアノをやめればいい。でも、僕にはそれしかないから」
「(心のどこかのドツボにハマってるな。この人)」
サチエはそう考え、何から話そうかと頭を回転させた。
その間も、花火は燃え、火薬の量は減り、少しの煙が漂う。
「ごめんね、サチエさんがせっかく楽しみにしていたであろう花火の時間に、こんなこと話始めちゃって」
「・・・そうお思いなのに話しかけるほどには、萩さんの中ではもう限界値を超えていらっしゃったのでしょう?」
「・・・っ!?」
暗がりなはずなのに、萩の目に涙が溜まったのが見えた。顔には全く出さないが、サチエは『しまった』と思った。
「泣かないでください、大丈夫です。迷惑だなんて思ってませんし、きっと花火の最中に悩み事を吐露したこの今も、夏休みが明ける頃にはきっと苦くも恥ずかしくも良い思い出になります。と、良く祖母がそんなことを私に言ってくれてました」
「・・・ぐずっ・・・ごめんね、僕、男なのに・・・女の子の前で泣いちゃうなんて・・・」
「ですから、男も女も関係ないんです、萩さんがそれほどまでにずっと頑張ってきたって事です。そのガス抜きのきっかけがベビーカーだっただけでしょうし、タイミングが今だっただけです」
「サチエさん・・・優しすぎる・・・」
「それ以上泣かれますと、流石の私も困りましてベビーカーの持ち主の親を腹いせに殴りに行きます」
「わかった、待って、泣き止むからそれは本当に待って!」
・・・———
10分経った頃だろうか。萩がようやく落ち着き始めた。
「これは、あくまで私個人の考え方ですので、萩さんに押し付ける訳ではありません」
サチエが頃合いを見て話し始めた。
その言葉に、萩がハッとして顔を上げた。心なしか、何かを期待している目だ。
「何か勘違いしているようですが、命が一番大事というのは、まぁなんか世の中の皆さんの割と共通だと思って言ってますけど、命=心臓ですよね。心臓ないと生きられませんから。
でも、命っていうのはその人の中で一番大事なもので、あれ?私は何を言いたかったのでしょうか?あれですね、喋ってるうちに何が言いたいのかわからなくなるヤツです。
まぁ、とにかく、萩さんにとっての命は『心臓』と『指』なのでしょう。同等なのです。多分。
でしたら、降ってくるベビーカーを受け止めて指を怪我や骨折したら困ると思うのは当然ですよね。くっつけば良いって話じゃないでしょうから。私はくっついてある程度動けば良いですけど。
ピアニストはそうじゃないでしょうから」
「でも!他のみんな命をかけたじゃないか!僕は!!何もかけてない」
「あのですね。みんながそれをやったからって、やらない萩さんが”悪者”になるわけじゃないですよ」
「え」
「逆にいうと、あの人たちはちょっと・・・いや、大分・・・ある意味頭がおかしい人たちですからね?一緒の事してたら身が持たないですよ?命がいくつあっても足りない・・・おぉ、言い得て妙っていうのはこういう時に使うのでしょうか。なんか綺麗に収まった・・・のだろうか?」
「待って、何言って・・・」
「ですからね、崖からの救出なんてあの人たちだから出来たことです。考えてください。もしあの場にいたのが美術部の高校生だったらどうです?無理でしょう?陸上部や野球部だったらまぁ同じようになんとかなったかも知れませんけど、桔梗さん、双葉さん、櫻さんと同じようなことができるとは思いません。
あれは、あの人たちの付き合いの長さとかそういう信頼の上で出来たことです。
つまり・・・やっぱりあの人たちおかしいんですよ」
「そこに落ち着くの?」
「私もブドウ糖が足りませんね、ほら、萩さんもどうぞ」
サチエがポケットから青い半透明のプラスチックを出した。
「何これ」
「ラムネです」
二人で数粒食べる。少しだけ間をあけてからまたサチエが話し出した。
「・・・萩さんは、あのベビーカーを本当は受け取りたかったんですね」
「本当はも何も受け取るべきでしょう?!人の命だよ?!桔梗や双葉や櫻があんなに頑張ってくれたんだよ?!」
「私と紅葉さんも頑張りました。主に顔面を」
「あっ、うん、そうだよね。そのあと宙返り見たいのして痛そうだったよね・・・だから・・・だからだよ。僕、なんて指ぐらい怪我したって命に変えられるじゃないかって今すごく後悔してる」
「ですから、それが萩さんの答えなんです。良いとか悪いとかじゃないんです。
その指を、それだけ守りたいって、ご自身の意見をちゃんと尊重しているんです。正直今回のはもうただの事故です。もし、犯人がいるならそいつが一番悪いんですだから、萩さんはベビーカーを受け取りに行こうが行かなかろうが悪くありません」
あの事件の後から少々元気がなかった萩。萩なりにたくさん考えたんだろうなとサチエは思った。
最初の花火が燃え尽き、周辺が真っ暗になった。
「とりあえず、2本目どうぞ。あと、消えそうになったら次の花火を続けてつけるといいですよ。連続点火です」
「あ・・・ありがとう・・・」
———シュボッ
———パチ・・・パチパチッ・・・
また灯った。
真っ暗だと寂しく怖く感じるが、とても小さな花火の灯りですら温かみを感じる。
花火の明るさを心の拠り所にして、萩が言葉を続けた。
「後悔してるくらいなら良いですよ」
「え?」
「結果手を出そうとも出さなくとも、どっちでも良いんです。でも、『手を出したかったけどどうして良いかわからなかった』が、萩さんの答えです。助けたいって思いがあるだけとても良いと思います」
「そんな・・・」
「そんなもんです。良いじゃないですか、結果助かったんですから」
「でも!!」
「責めて欲しいのなら責めます」
「・・・っ」
「違いますでしょう?良いんです。あなたの指の価値は、あなたの周りの人やピアノを聴いた人にしかわからない。聴いてもわからない人だって沢山いるでしょう。知識的技術的な面は一部の人にしかわかりません。
それに、今回の件に関して、誰か一人でも萩さんに直接、『なんでベビーカーを受け取らなかったんだ』って言った人いるんですか?」
「・・・いない・・・けど」
「だからそれが答えなんです」
「でも、双葉と櫻からは二回も名前を呼ばれた・・・」
「でも、その後に何か言われましたか?」
「何も・・・」
「だから良いんです」
サチエの言っていることはあくまでサチエが個人的に思ったことだと最初に言った。
だから、萩がこの意見を受け入れるかどうかは自由である。
受け入れて楽になりたいのに受け入れられない萩がいる。
「もっと、ストンと心に落ちてくるものだと思ってた」
「何がですか?」
「ううん、ごめんね。なんでもない。でもやっぱり僕が手を出さなかった事、みんな呆れて口にも出さないんだよ」
「萩さんもかなり強情ですね。わからないことを自身の憶測だけで思い込むのはよくないですよ。だって、双葉さんも櫻さんもその後に萩さんの事を責めないと言うのなら・・・———」
萩は少々期待していた。
楓も、双葉も、櫻も紅葉もみんなサチエが来てから変わった。
だから、自分のこの昔からの足枷のような思考や気持ちもなんとかしてくれるのではないだろうか。
でも、どうやら付き合いの浅い自分には何を言われてもサチエの言葉が響かない事に悶々とし始めた。
他力本願だったのだと自己嫌悪に陥り始めそうだった。
「———双葉さんと櫻さんこそが、萩さんに託した事をとんでもなく後悔しているのでしょうね」
角度の違う意見をぶつけられて、萩の頭は混乱した。




