第31話 『さて、お世話になりました』
「・・・怒りが無くなったわ」
薫子が発したその言葉に、櫻は手の力を緩めた。
離されて、薫子が櫻に向き合った。櫻も薫子の顔を見た。左頬が赤くなっている。サチエの平手打ちはかなり効いたようだ。明日には赤色は引くだろうが、今は痛そうである。
「・・・なんか、自分の中では”一番”が大事だったの。でも、今それを全否定されて、しかも説明された事に納得したら全部どうでも良くなっちゃった。困ったことに、私の中って”一番”に対する執着心だけで構成されてたのね。それが無くなった今、私何していいかわからないわ。勉強も、これだけ頑張る意味あるのかしら」
「それはあります。嫌でないなら続けた方が薫子さんの為ですよ」
「・・・あっそう。あー、なんか私の中身空っぽになっちゃったわ。私って、空っぽで、薄っぺらい人間だったのね。趣味も無いし。好きなものもないわ」
「"男性"という、好きなものはございますでしょう」
「うるさいわね」
そう言った顔は、先程までとは違う。
非常に吹っ切れた顔をした薫子を見て、楓も驚く。今まで面倒だと感じていた人に対して、面倒さを感じなくなったからだ。何かを質問されるわけでも、求められるわけでもない。
「帰るわ。メイドも辞めるわ。最初から迷惑だったろうから」
少し悲しそうな顔をしたが、すぐに真顔に戻り、楓の部屋を後にした。
「・・・嵐が去ったな・・・」
椿の一言で何となく、張り詰めた空気・・・緊張が和らいだ。
「櫻、薫子を追ってやれ」
「え?俺?気の利いた事言えないんだけど」
「必要な事は全部サチエが言った。”誰も追いかけない”事が問題なんだ。自分から話題提供はしなくて良い。頼めるか?」
楓が、そう言うものだから櫻も断れずに部屋を出ていった。
「さて・・・。サチエ」
「さて、私はまだやることがございますのでっ!!」
どこにそこすばしっこさを秘めていたのだろう。櫻に続きサチエも部屋を出ていった。
「こらっ!サチエ!!待てっ!」
「サチコちゃん超はやー」
サチエは執事室へと一度戻った。そして、引き出しを漁り、目当ての書類を見つけた。
そして、近くの窓から屋敷の庭を見ると、薫子と、追って出ていった櫻が居た。
向かい合っては居ないが、話をしているのだろうとサチエは思いながら、取り出した書類を書き始めた。
キャラクターのチャームがついたボールペンの、書き音とプラスチックのぶつかる二つの音を出しながら。
・・・———
「大層惨めよね。でも、今この段階で気付けて良かったかも。自分の中身が空っぽだって」
「・・・そんなことないと思うけど」
「楓に言われて追ってきたんでしょ?良いわ。ウチのじいやが迎えに来るまでくだらない話を聞いて頂戴」
「あぁ」
梅雨の今、今日この時間に雨が降っていなくて良かったと思う薫子。先週、この屋敷にきてからの自分を思いだす。あまりにも傲慢で滑稽だった。そんな屋敷の中に今は少しの時間も居たくない。
晴れてはいないが、曇り空の下、車が横へ付くであろう門を見ながら薫子が話し出す。
「・・・あんなデブスが言うんだもの。最初は可愛い私への負け惜しみかと思った。でも、現にあのメイドに楓も、双葉も、櫻までもが信頼を寄せてるの。あと、言ってること自体は間違いじゃない気がしてるし。
・・・でも!あの見た目で言われると腹立つけどね!!でも!だからこそ納得しちゃったのもあるの!!
デブなのに、みんなに大事にされてるって事は、痩せてて可愛くなくても、人に気に入られたり好きになってもらえるっていう証拠でしょ?もちろん、それまでに信頼とか信用とかあるのかもしれないけど。
私は、信用も信頼もなかったの。可愛いだけで。しかも、その”可愛さ”は人によって違うときた。
そうよね、今思い出してちゃんと考えれば、深キョンが可愛いって私と、大島ユーコが可愛いって言う妹。姉は島崎和歌が美人だって言う。三人とも違うけど可愛いし美人よね。でも、私の好みは深キョン。
人によって好みがあって当然だわ。でも、私は世界中のみんなが私と同じ醜美の価値観だと思ってた。
あと、結局結婚は一人の男の人としかできないしね。沢山に好かれてチヤホヤされて良い気分を味わいたかったけど、私を取り合って喧嘩されちゃ面倒だもんね。痴情のもつれで狙われても嫌だし」
「薫子の良いところは、欲に忠実で真っ直ぐなところだと思う」
「別に何か言わなくて良いわよ。あと、それかなり貶してるから」
「いや、貶してない。俺は・・・欲しいものを欲しいと言えないから」
「楓と一緒に育って来て、”欲しいものが欲しい”と言えない?!そんなことあるわけ?」
「周りから見ればそうでも、俺たちは全員違うんだ。効率の測り方や最適の考え方は同じ教育だったから似た思考だけど、やっぱり個人の好みとかは全く違うわけで・・・」
「やっぱりあのメイドの言う通り、好みって言うのは本当に人それぞれ違うのね・・・。じゃぁ結局、みんな深キョンが可愛いって思ったとして、その深キョンの顔をベースとして、もう少し鼻が低い方が真の好みの人、もう少し目が切れ長の方が好みの人、下がり眉の方が本当に好みの人って感じで沢山いるってことね。
誰か一人のドストライクであれば、その人には大事にしてもらえる。でも、その人に出会わなければ結局全員に適当に扱われるってことかしら」
ふむふむと、再度考え直して自身の中の新しい価値観として薫子は情報を脳に入力した。そして、その新しい情報を元に今までの価値観と比較やすり合わせをしていく。
「俺は、欲に忠実って話をしてたんだけど・・・」
そんな話をしていると、静かな、しかし昔ながらのエンジン音が聞こえた。薫子の迎えが来た。
「屋敷に少し置いてある荷物は大したものじゃないから、またすぐに取りにくるわ。とりあえず今日は帰らせてもらうわ。・・・流石に恥ずかしいから。だいふ熱も下がったけど、もうちょっと頭冷やしてからくるわ」
「あ、薫子・・・サチエの事——」
そう、薫子はサチエの頬を叩いたのだ。
「・・・少し考えるわ。私が言ったことは相手を侮辱すること。だけど、だからって顔を叩く理由にはならないわ。それはそれ、これはこれよ。ちょっと何よ?!『どうしたってお前が悪いから叩かれたのに』みたいな顔して!!」
「え、あ、うん」
「正直ね。じゃあごきげんよう。頭冷やしてくるわ」
そう言って、運転手に開けてもらった後部座席の扉からシートへと入った。お尻から座り、揃えた両足を車内に収める。所作としては美しく完璧だ。先ほどまで怒り狂っていた人と同じ人物とは思えない。
「気をつけて」
櫻のその言葉に、涼しげな顔を向けた。冷たい表情な訳でない。
薫子の中で、何かが確実に変わったのだと櫻は感じた。それも、おそらくかなり良い方にだろう。今後、彼女が飛躍するならば、これはサチエの功績かもしれない。
そんな事を考えながら、車を見送った。
・・・———
「おい!ココかサチエ?!」
楓が屋敷の至る所を探すもサチエの姿がない。薫子や櫻が部屋を出ていってすぐにサチエも出ていった。それから、退勤の時間までまだ少しある。その間、楓がサチエを探しても見つからない。
自身の部屋、楓の部屋、桔梗の部屋、パントリー、休憩室、執事室。
サチエがいそうな場所をもう三周もしている。それでも鉢合わせない。
「おかしいだろ?!俺は生まれてからずっとこの屋敷に住んでいて網羅してるんだ?!なぜサチエを捕まえられない!!」
最終的に執事室に顔を出すだろうと考え戻ってきた楓。椿に文句を垂れる。
「お前、そもそも講義はどうしたんだよ?もう講師も到着しただろうに?早くお勉強してきなさいって」
「・・・クソッ!!」
「何をそんな、別にサチコちゃんが今日の事で今日辞める訳じゃあるまいし」
椿がのほほんと言った。楓の怒りを買った。
「ほー・・・そうか。わかった。じゃぁ、絶対に辞めさせるなよ」
「んえ?うん、まぁね?居ないと俺も困るし?」
そう言い楓は講義に向かうために執事室を出た。
それから30秒してサチエが執事室に入ってきた。
「あれ?楓とすれ違った?」
「いいえ?」
「あれ?おかしいなぁ?」
ま、いっか。と軽く流す椿。サチエは今日の仕事が終わったと言って退勤を申し出た。そして部屋を出る直前に椿に言った。
「あ、椿さん。メイド服一式はクリーニングに最後出してありますので。他、ロッカーの鍵番号は一旦”0000”に直してあります。
「え?何で急にそんな事報告するの?」
そう言い、執事室から出る時に深々とお辞儀をした。
「お世話になりました」




