92章
要の入団テストが終わって7日後の夕方頃、要はリュケイオンの音楽棟の前で、コントラバスのケースを体で支えるようにして立ったまま外壁にもたれ、スイが来るを待っていた。
その前日、要はスイを通じて入団テストにパスした事を知った。そのニュースをパウルに伝えたところ、入団祝いにかつてパウルがオーケストラ部のメンバーだった頃の愛器を要に譲ってくれる事になった。だが、流石に巨大な楽器をドリーの家に置く訳にもいかず、翌日は練習日ではなかったがスイを介してシャロンに頼み、要の物となったコントラバスを部が保有している楽器と一緒に保管させてもらう手筈になっていた。
それにしてもスイはなかなか来なかった。音楽棟の何処かにいるという事は要の能力で察知していたが、すぐに来ない理由までは分からなかった。
「美崎君ごめんね!待った?」
「…アサナギ遅い」
「あーそりゃそうだよね、重かったよね…」
そう言いながらスイは2人の団員に要を紹介した。
「ダン、ヘイリー、彼が先程お話したミサキ・カナメです。美崎君、彼等はオーケストラ部のコントラバスチームのメンバーよ」
「ありがとう、スイ。よろしくな、カナメ」
「スイから聞いてるよ。君を倉庫に案内する」
要はスイと別れ、コントラバスを押しながら2人の先輩団員に導かれ、オーケストラ部専用の倉庫にやって来た。倉庫の中はあまり広くはなかったが、数々の楽器がきれいに並べられ、出番が来る時を待ちながら定位置に鎮座していた。
「カナメ、君の楽器は此処に置いてくれ」
「ありがとう」
楽器を置くとカナメはダンから倉庫の施錠方法について教わり、次の練習予定のスケジュールをスマートウォッチに送って貰った。
「来月には次の演奏会で演奏する曲が決まる予定だ。一応サポートでも一通り弾ける様に楽譜を覚えて来る事と、練習には毎回来るようにな」
「承知した」
要はダンとヘイリーに礼を言い、スイがいると思しき個人練習室へ行った。部屋のドアを開くと、スイが演奏の手を止め、驚いた表情で振り返った。
「美崎君、よく私が此処にいるって分かったね」
「…うん」
「でも、ごめんなさい。私、もう少し練習したいの。あとちょっとでカプリースが最後まで上手く弾けるようになれると思うんだ。だから先にハウスに戻るか、部屋の外で待ってて?」
「…いいよ。待ってる」
要はそう言い残して練習室の外に出た。彼はスイが1人で練習に専念したい時は、決して邪魔をしてはいけないという事をよく理解していた。ドアの窓から中の様子を覗くと、厳しい表情でバイオリンを弾くスイの姿が見えた。要はふーっとため息を着くとドアの前に座り込んだ。
「暇そうだな、要」
「お前は…」
要の前に現れたのはヒカルだった。
「君も翠ちゃんと同じオーケストラ部に入ったんだってね。意外だったよ」
「…別にいいだろ」
「でも、リョウちゃんは喜んでいたよ。君が自分の意志で何事にもチャレンジする様になったってね」
「…そう」
要はヒカルの鋭い視線に何だか胸の奥がざわざわする違和感を覚え、顔を横に向けた。だが、ヒカルはそんな要に向かって1冊の分厚い書物を差し出した。
「これは…何?」
「リョウちゃんからだよ。翠ちゃんがパガニーニにのめり込んで練習する様になったのは自分のせい、だから要にも何か夢中になれるものを、との仰せだ」
この時代では、パルプで作られた紙の流通量は少なく、書籍の大半は電子データで扱われている為、ペーパーバックとはいえ、ボリュームのある紙製の本はとても珍しい物だった。
「…人生は短い。あの本を読めば、この本は読めないのである」
要の口から自然にかつて聞いた事のある言葉が溢れた。だが、今の要にはその言葉が誰に教わった物なのか、はっきりと思い出す事が出来なかった。
「大事に扱えよ。本は火と水には弱い物だからね」
「…うん」
要は手渡された本の表紙をじっくり見た。それはJ.ゴルデルによるティーン向けに書かれた西洋哲学の入門書だった。
ヒカルは両手をズボンのポケットに突っ込みながら、本の表紙を開いてページをめくり始めた要の様子をしばらく見ていたが、要が何も言わず本に集中しているのが可笑しかったのか、一瞬クスッと笑った。だがすぐ真顔に戻ると、今度は練習室の中に目を向け、試行錯誤しながらバイオリンを一心不乱に弾いているスイの姿に向かって、何か言葉を発しようと口を開きかけたが、それも止めて再び口を閉ざし、そのまま踵を返してその場から消え去っていった。
2時間位経ってやっとスイが練習室から出て来た。要はちょうど7章までを読み終えようとしていた頃だった。
「ごめんね、美崎君。ずっと待ってたんだ?」
「…うん」
「それは、何?どうしたの?」
「本。リョウちゃんからだって渡された」
その名前を耳にしてスイの顔が一瞬驚きに満ちたものとなったが、みるみるうちに悲しみに溢れた表情と化した。
「彼女が来たの?此処に?」
「いや、彼女自身じゃないよ。違う男の人。でもその人がリョウちゃんからって言って、俺にくれたんだ」
「…そう。私もその人とお話したかったな…」
視線を床に落としたスイに、要は何を言えばいいか分からず、ただ彼女を静かに見つめる他なかった。
同じ頃、スイ達がいるアメリカ大陸とは反対側のユーラシア大陸の地下コロニー内の研究所の一室にて、ソウは1人、静かにクラシックの演奏にじっと耳を傾けながら、映像を見ていた。真っ暗な室内で巨大なモニターは煌々とオーケストラの演奏している様子を映し出しており、スピーカーから流れてくるのはF.ショパンのピアノ協奏曲第2番だった。
それは先日行われたばかりの第48回目のピアノ国際コンクールの本選での演奏で、ソウの視線はじっとステージ中央でピアノを弾く奏者に注がれていた。
画面の中央のピアニストは、他のコンクールでの優勝経験すらなかったにも関わらず、最年少の16歳で、他のファイナリスト達が全て協奏曲第1番を選曲した中で唯一第2番を演奏し、1位を勝ち取ったという、何もかもが前代未聞だらけの番狂わせだったと称されていた。
そのピアニストこそ、スイとソウが会いたいと切に願ってやまない相手、睦月リョウその人でもあった。
彼女のピアノ協奏曲第2番の演奏は、聴くもの全てに初恋の喜びと苦しみの記憶を一気に思い起こさせた。また、曲全体の構成や演奏時間の短さがより一層、彼女の奏でるピアノの音をもっと聴きたい、もっと音に溺れたいという願望を強く掻き立てさせた。もしこれが演奏時間の長い第1番の方だったら、演奏が終わった時点で人としての理性を保てなかったかもしれない。
「本当に、リョウちゃんはひどいな…」
ソウは自分が彼女の側に居ない苦しみを再確認し、一筋の涙を流した。




