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90章

翌日、スイは要と共に音楽棟の控室の一つを訪れた。指導者達に要のオーケストラ部での活動の許可を得る為だった。此処に到着する迄、スイは幾度も要に本当に部活動に参加したいのかを問いかけたが、彼女の想像を超えて要の意志は固かった。

「ミスター・ヘス、彼がオーケストラ部の活動に参加する道は何かありますでしょうか…?」

昨晩の内にスイからメッセージを受け取っていたベルナルドは

「そうだね、スイと一緒のバイオリンパートはテストと推薦状の両方がなければ入るのは困難だ。だが、他のパートなら…例えば弦楽器ならコントラバスか、管楽器ならホルンかチューバかオーボエ辺りは、人数が少ないから、サポートメンバーとして入れる余地があるんじゃないかな」

と言って隣にいたシャロン・ボッセと、木管楽器コーチであるリリー・クリップスの方を見た。

「ええ…兎に角アルトゥールが承諾すればね。バスのメンバーは人手不足だから私は歓迎するわ」

「それで、俺は何をすれば正式にメンバーになれるんですか?」

「その前に君はどの楽器がやりたいの?楽器に触れた事もないんでしょう?」

「言っときますけどね、オーボエは世界で最も難しい楽器とも称されてる。始めるのは良いけれど、貴方ちゃんと音を出せるのかしら?」

「まあまあリリー、未経験者だからって門戸を閉ざしてはいけないさ」

そう言って彼女をなだめたのは金管楽器コーチのカール・フリートだった。

「今日はちょうど定例演奏会もある。ミスター・ミサキさえ良ければ、実際に生の演奏を見て決めるってのも出来るんじゃないか?」

そうね、とリリーはシャロンの方に視線をやり、シャロンは改めて要を正面から見た。

「オーケストラ部に入るにはまず、どのパートの楽器をやりたいのかを決めて頂戴。入団希望はネオ・ムセイオンを介しても、スイから私達に伝えて貰っても構わない。その申し出を私達の方で受け取ったら、アルトゥールとも相談して貴方をテストをさせて頂くから、追って詳細を伝えるわね」

「ありがとうございます、ミズ・ボッセ」

退室した後でスイは定例演奏会に向けての準備があったので、要にはっきりと伝えた。

「美崎君、君がバイオリン以外のパートになったら、私と別のチームで毎日練習する事になるけど、大丈夫よね?」

「それは許容する」

「大切なのはチームワーク、マナー、そしてリスペクトよ?」

「承知した」

スイ達は普段あまり出入りしない大ホールへ行き、他のメンバーと共に椅子や機材や譜面台のセットを行なった。要はバイオリン以外の楽器とその奏者達を初めて見た。指揮者を担当する男子学生の視線は、明らかに未だ部外者である要に対する嫌悪感を表わすものであったが、要は無言のまま見て見ぬ振りをして受け流した。

「準備を手伝ってくれてありがとう。あとは大丈夫だから、ステージの脇で見ててね」

うん、と要は素直に舞台袖の出入り口のそばの椅子の一つに腰掛けた。薄暗く埃臭い舞台袖の壁にはモニターが2つかかっており、ステージ上と客席の様子をそれぞれ映し出していた。

客席はまだ演奏開始前とあって、あちこちで会話や物音がしていた。その裏ではメンバー各々が演奏前のルーティンをこなしていた。

一方で、スイは観客がいるという事に少し緊張している様に見えた。初めてのコンサートホール。初めてのステージ。初めて迎える本番。大丈夫、いつもの様に弾くだけ、と強く自分に言い聞かせている内に時間がやって来た。

まず奏者達が一斉にステージに上がって行き、定位置に着く。すると、それを見た観客達のざわめきが徐々に収まっていった。そして客席のあちこちから拍手が疎らに鳴る。次第に拍手も収まってくると、オーボエがまず先陣を切ってAの音を発する。続いてコンマスのバイオリニストが音を発し、それに続く様に他の楽器が次々に音を鳴らす。それは単なるチューニングであったが、要の目には何処か一連の儀式の様に感じられた。

その時、要の横の扉が開き、一人の人物が姿を表した。ディレクター、アルトゥール・ダムロッシュのお出ましである。要以外のステージ脇で椅子に座っていたメンバーは一斉に立ち上がった。

「準備は出来ているね?」

「はい」

「よろしい、では早速始めてくれ」

アルトゥールがそう告げると、舞台袖の暗がりの中で立ったまま待機していた指揮者は、盛大な拍手が鳴り響く中、颯爽とステージの中央へ堂々と誇らしげに進んで行った。扇形の中心に到着すると全団員と共に客席に向かって深々とお辞儀をし、指揮台へ上がる。一寸の間を置いてコンマスにアイコンタクトを送ると両手をあげ、そして合図を受け取った全ての奏者達が各々の楽器を構えた。

指揮者の手が動くと共に全ての楽器が音を発し、そして出された様々な音が一つに重なり合う。それは要が昨日聞いたバイオリンだけの音よりも何十倍、何百倍もの迫力があった。楽譜を見つつ、指揮者やコンマスからの指示を確認しながら旋律を奏でているスイの後ろ姿に、そして様々な音の重なりと調和によって生み出される一つの世界に、要は皮膚の内側から湧き上がる興奮と喜びを覚えた。

モニターの画面と音だけでは満足できず、要はそっと立ち上がり、静かにステージ脇から通路へ出て、客席までやって来た。其処では舞台上は祭壇の様に輝き、そしてJ.シベリウスの荘厳で煌めく音楽を紡いでいた。昨日は聞かなかったフレーズは、時に明るく弾み、時に穏やかに流れ、それらの多彩な音色を生み出す楽器を自在に操る奏者達は魔術師宛らであった。

「へぇ…意外だね、要もオーケストラに興味を持つとは」

そう言って2階のボックス席から客席とステージの様子を興味深そうに見下ろしていたのは、いつもの黒っぽい服装に身を包んだヒカルだった。ボックス席の暗がりの中でステージから射すライトの僅かな反射が彼の頭部の輪郭を浮かび上がらせる。

「それも君が要に復活の代償として課したものなのかい?」

ヒカルが振り返った視線の先には、ボックス席の奥の特別席にゆったりと腰掛け、両目を閉じて微笑みを浮かべながらオーケストラの演奏に聴き入る睦月リョウの姿があった。

「さぁ…どうかしら?」

半ば物憂げに答えながらリョウはうっすらと目を開き、自分の前に立つヒカルの顔を見た。

「そんなに要君の事が気になるの?」

「まさか」

ヒカルはリョウのいる座席の右手側にひざまずくと、恭しく彼女の右手を取り、その手の甲に自身の唇を付けた。

「僕の発言は気にしないでいいよ。君がどんなに僕の心を引き裂こうとも、僕は永遠に君を守り続ける。今度こそ君をあらゆる危険から守り抜いてみせる」

「ありがとう…」

リョウは再び目を閉じ、右手でヒカルの左手を握り返すと、そのまま空いている左腕を彼の右肩に回し、自ら身体を彼に委ねるようにして彼の胸へ飛び込んでいった。そのまま彼女を受け止めるようにヒカルはリョウを固く抱擁する。

その間、ボックス席の外では、オーケストラの演奏は第4楽章のクライマックスへと突入し、大ホール内で起こっている出来事について何も知らないスイはただひたすら演奏に集中していた。1階の客席の奥では要はただ一人、興奮状態でオーケストラの演奏に聴き入っていた。こうしてスイの初めてのステージは無事に幕を閉じた。

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