89章
壮絶な一夜が明け、翌朝ユリアはシェアハウスを出て行った。その理由として、彼女はメンタルホスピタルへ入る事になったと、起きてすぐにスイはドリーから聞かされた。その話を聞いてスイは悲しげな表情を浮かべた。だが、何時迄もそうしてはいられなかった。今日は要を連れてリュケイオンでいくつか課題をこなさなければならないのだ。
要はシェアハウスを出る前に、皆が身につけている制服というものに初めて腕を通した。それだけで自分がスイに少し近付いた様な気がした。
スイは自分と共に要がいようがいまいが、リュケイオンにいる他の学生達から距離を置かれている事は承知の上だった。人目を気にする事もなかったので、シェアハウスを出てからずっと質問攻めにしてくる要には一つ一つきちんと答えてやれる余裕があった。
二人はドリーの指示通り、リュケイオンの敷地内に入ると、正門近くの学生センターへ行き、要の入所手続きを済ませた。ネオ・ムセイオンの差し金により、要は教育研修生という立場でリュケイオン内の出入りを許可され、更に要専用のエミールシステムが渡された。これで一見ただの学生にしか見えない男子が完成した。
要はスイとリュケイオンの敷地内を歩いていて、この開放的な空間に、ネオ・ムセイオンにはない自由さと若々しさを垣間見た。通りすがりの派手な女子学生達の目線、何やら大騒ぎしている筋肉質の男子学生達の集団、誰とも視線を合わせない様にすれ違う職員達、グループワークをする為の簡素な教室、ラボと違い整理整頓された実験室、逆に何やら機械と画材で散らかった創作室等、最初は物珍しく感じられたが、ネオ・ムセイオンに比べれば小さい規模の施設に直ぐに慣れてしまった。
グループワーク中のスイは傍から見ていて大人しい印象だった。少なくとも要の目にはそう写った。ただ、意見を求められた時は淀みない声で発言し、その言葉はその場を動かした。他の者が誤った方向へ導きかけた際は、皆に質問を投げかけては正解の方へ軌道修正をしていた。そんな彼女を横目で見つつ、要は一人自身のエミールで問題を解くふりをした。
「アサナギ、ずっとこんな感じなの?」
「そうね、いつもの事だわ」
リュケイオン内のスイは淡々としていた。要には彼女の真意を汲み取る事が出来なかったが、全ての課題を終え、音楽棟へ踏み入った途端、スイの様子がガラリと変わった。彼女の顔付きが真剣になり、バイオリンを手に練習に打ち込む様子は、実にストイックで積極的だった。バイオリンから発せられる音は振動だけで要の目の前に色彩豊かなヴィジョンを展開した。
「あれ、君は見学か?」
練習室にコーチのベルナルドが3名の生徒を伴ってやって来た。スイは席を立つと
「すみません、ミスター・ヘス。彼はミサキ・カナメ、ネオ・ムセイオンからの指示で暫く私と行動を共にしています」
と彼らに自分のスマートウォッチを提示した。
「そう、皆の練習の邪魔をしないと約束してくれるね?」
要は首を縦に振った。
「オーケー、それじゃ各自準備にとりかかってくれ」
ベルナルドの号令に学生達は椅子を出し、譜面台にタブレットをセットし、各々の楽器を取り出してチューニングし始めた。その間にもバラバラと何人か楽器を持った学生達が集まり、準備の輪に加わった。その中でスイもまた静かに他の学生達の後ろに椅子を移動させ、タブレットの画面を別の楽譜に変えた。
時計が16時を指し、恐らくリーダー格の女子学生の指示で一斉に同じ曲を奏でた。スイ一人の時よりも分厚い音の振動が、要の足元から一気に頭の先まで駆け巡った。時々ベルナルドが演奏の途中で停止の指示を出し、前に弾いたフレーズを繰り返し弾かせたりもした。
要は当然ながらJ.シベリウスという作曲家も、皆が練習している交響曲第2番ニ長調という作品も、全く知らなかった。ただ、演奏中、要の頭の中で自分にないはずの記憶、テタルトが北極圏の空中でギガスと戦った、暗くて荒々しい海とグリーンランドの大地の寒々とした光景が思い浮かんだ。
1時間半位経って、ベルナルドが言った。
「よし、今日は此処までにして、あとは個人練習にしよう」
はーい、と各メンバーが椅子と譜面台を移動させ、個々で練習を始める者もいれば、数名のチームで練習する者もいた。その中でスイは一人片付けをし始めた。
「アサナギは練習しなくていいの?」
「もっと練習していたいけど、私達、これからネオ・ムセイオンに行かなきゃ」
ああそうか、と要はドリーから今日19時に地下のラボへ来る様言われていた事を思い出した。
「ミスター・ヘス、それに皆、個人練習に参加出来なくて本当にすみません。また宜しくお願いします」
「いいよ、スイ。君は先に来てずっと練習してたんだろう?それと、もしサーシャに会ったら僕からも宜しく伝えてくれ」
「ありがとうございます、失礼します」
慌ただしくスイはトートバッグとバイオリンケースを持ち、練習室を後にした。その後を要も急いで追った。
音楽棟の廊下を急いで進んで行く中、要はふと横を向いた。そこには練習室があり、一人の若者がバイオリンを弾く練習していた。その若者は髪も肌も恐ろしく真っ白だった。要の視線に気づいたのか、若者は要の方を見て、そしてニヤッと微笑みを浮かべた。その瞳はルビーの様に真紅であった。
「あ」
要はこの男と過去に会ったはずがないのに、何処かで会った事がある気がした。
「何?」
スイは要を連れて時間通りにラボへ向かう事に夢中だったのと、この時間に各部屋で誰かが練習をしている事はありふれた光景だった為、其処に自分の探している人物の一人がいる事に全く気付かなかった。
「…いや、何でもない。行こう」
「うん」
この時間からネオ・ムセイオンへ向かう人は少ない。リュケイオンを出発したバスは混雑していたが、繁華街やターミナルポイントで人が減り、最終的にはスイと要だけになった。
「アサナギは、何でバイオリンを演奏してるの?」
「何でかなあ?最初は父のバイオリンを弾く事をサーシャさんに勧められて始めただけだったの。でも、自分で弾き始めてみて、演奏するのが楽しくなった。それから、セイに父がバイオリニストだった事を教えて貰って、私がもっと上手くなってバイオリンを弾き続けていれば、私の記憶にはない父に近づける様な気がしたの。…上手く言えないんだけど、何となくね」
「お前が演奏するの、初めて見たけど、あれが本当のアサナギなんだな」
「本当の私?ううん、まだまだ、私は自分の弾きたい音を出せる様になってないの。もっと練習しなきゃ」
明らかにスイの奏でる音は第2バイオリン全体の中に混じっても要の耳にはよく響いた。素人耳の彼から見ても、彼女の音には他の奏者のものとは異なる何かがあった。
「アサナギ、俺もオーケストラ部に入りたい」
「えっ?!」
「俺はお前みたいにバイオリンを弾く事が出来ない。音楽の事は何も知らない。でも一緒にやりたい」
「美崎君、オーケストラ部には入団テストもあるし、練習しなきゃいけないし、大変なんだよ?」
「バイオリンじゃなくていい。他にもパートがあるのなら、俺にも出来る事があるんだろ?」
「あるのかもしれないけど、入るにはテストがあるのよ。私もたくさん課題曲を聞いて、ずっと練習していたわ」
「テストに合格すれば入れる?」
「その前にドリーさんにも確認しなきゃ」
ネオ・ムセイオンはテタルト暴走の事故後、建物や設備の修復を進めながらも、各々の研究はずっと継続されていた。
「あら、貴女達来てたのね」
「久しぶり、ジェシカ」
「やっぱり貴女、ネオ・ムセイオンに戻って来たのね。私、こうなると思ってたわ」
そう言いかけてジェシカはスイの後ろに立つ要をチラッと見て、何か言いそうになりつつも口を閉ざすと、それじゃあね、と去って行った。要には前の身体をタラッサに乗っ取られた時の記憶は一切なかった。スイは要の方を一瞬見たが、今は気にしなくていいよね、とだけ呟いた。
最下層の元アリッサのラボで、ドリー立ち合いの元、要の健康診断的なチェックが行われた。と言っても、スイは要の裸体を見る事は出来ない、と頑なに主張して、一人テタルトが鎮座する巨大な空間を見下ろせる別室にいた。其処で思い起こされるのは兄シンとのやり取りと、ステュクスやカロンの事であった。
「終わったよ」
ドリーに連れられて要がスイのいる室内へやって来た。
「このまま今の生活を続けるって」
「そうなんだね、オーケストラ部の件も伝えたの?」
「いや、まだ」
「なあに?オーケストラ部って」
ドリーが2人の会話に入ってきた。
「美崎君、今日私の練習にも見学に来てて、一緒にオーケストラ部入りたいっていうの」
「へえ…カナメ、楽器が弾けるの?」
「やってみなきゃ分からない」
「ま、音楽は人の心の教育にも良いみたいだから、果たしてカナメにも何か変化があるかもね。やってみたら?」
「え…ドリーさん、良いんですか?」
「ええ。でも、また所長に小言を並べられるかもしれないから、テタルトの地上実験が再開するまでの間だけにしてね」
思いがけないドリーの賛成に、要はまた無表情の顔付きのまま、うん、と答えた。




