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88章

「ユリア、また呑んでるの?身体に障るわよ」

ハウスに突然訪問してきた来客、アリッサ・グールド前所長は車椅子に乗せられ、右脚はギプス固定され、右肩を三角巾で吊るした姿であった。

「放っておいて、酒は百薬の長なのよ…それより母さんこそ、何故此処にいるの?」

そうユリアは母に尋ねながら、車椅子の後ろに立つ男が平和維持軍の軍服姿である事に表情を強張らせた。

「お別れを言いに来たのよ。貴女とカナメにね」

「お別れ?母さん何処へ行くつもりなの?そんな身体なのに…」

「私はこれから平和維持軍内の研究所へ移るのよ。フランシス達の命令でね」

「まさか、あの細胞のクローンで人造人間を本当に作るつもりなの?」

「そのつもりよ。それで彼等の欲望が満たされれば、また此処に帰って来るわ」

ユリアはそう言う母親の瞳の中に光が存在しない事に気が付いていた。そして複雑な感情で要を呼んだ。

名前を呼ばれ、要は両手がガーリックシュリンプのソースで汚れた状態のまま玄関に行った。

「…カナメ、何をしてたの?」

アリッサはまるで幼い子供に接するかの様にその場に立ち尽くす要に問いかけた。

(シュリンプ)を食べてた」

そう言って要は指先を嘗めた。

「手掴みで食べるなんて行儀悪いわ。それに(シュリンプ)はコレステロールと塩分の過剰摂取にもなる。ドリーに言って、今迄みたく栄養バーだけを食べる様にしなさい」

「でも、エルネストとロベルトが作ったこれ、すごく美味しいんだ。貴女も一緒に食べて行ったら」

アリッサは彼女の知る要とは全く様子が異なる事に戸惑い、沈黙し、そして凝視し続けていた。ユリアもまた、自分の知る母の姿とは全く異なるアリッサの様子に対し軽蔑する気持ちが混じった目で二人を眺めていた。

「時間だ」

車椅子の後ろの軍人が声をかけ、グールド前所長は連れ去られて行った。ユリアは無言のままキッチンに戻ると、もう1本ビール瓶の栓を抜いた。

「もうないのか?」

要は空になったガーリックシュリンプの皿を見て、ポツリと言った。

「ごめん、(シュリンプ)は皆食っちまったよ!」

「カナメ2、そんなに僕の料理気に入ってくれたのか?嬉しいねぇ〜」

「またそのうち水産場に世話になる事もあるし、そしたら(シュリンプ)よりもっと美味いものとトレードして来てやるから、今日は我慢してくれよ」

スイは要の様子をずっと見ていて、彼が皆と馴染めるか、アリッサに会った事でかつての彼に戻るのではないかと、色々案じていたが、要が玄関からキッチンに戻ってエルネストとロベルトと絡む様子を見て、ああ大丈夫だ、と安心した。その一方で、黙ってビールを飲み続けているユリアの方が心配だった。

「分かった、(シュリンプ)はまた今度でいい。だが1つだけ、俺の事はカナメツーじゃなくて要って呼んで欲しいんだ」

「そうなのか?分かったよ」

「知らずに呼んでて悪かったな」

そうして晩餐会がお開きになった後でも、ユリアは一人灯りも点けずリビングのソファに座ってビールを飲み続けていた。

「もう休んだらどうなんだ?本当に身体に障るぞ」

アレクサンドルがユリアに水の入ったコップを差し出す。

「ありがとう、大丈夫よ」

ユリアはコップを受け取らず、アレクサンドルに背を向けた。

「母はネオ・ムセイオンに戻って来ないかもしれない。それなのに私はあいつと喋る母を見て、止める言葉が出なかった。子供の頃の私が大人の私の首を絞めたのよ…母を引き止めさせないためにね」

そう語るユリアの背中は小刻みに震えていた。実際に涙を流しているのかはアレクサンドルの視線からは判別がつかなかったが、彼女の性格上、慰めの言葉は却って彼女の心を傷付けると判断したアレクサンドルはソファの向かい側にある一人用の肘掛け椅子に座り、テーブルにコップを置くと、黙ってスマートウォッチを弄り始めた。

その時誰かが2階から降りてくる足音が聞こえてきた。その音は暫くしてリビングの入口の前で静かに鳴り止んだ。アレクサンドルが顔を上げると、其処には真面目な顔付きをしたスイが立っていた。

「どうしたスイ?」

「ユリアさん、何があったの?」

「何でもないわ」

そう抑揚のない声で言い放ったユリアの頬には涙の跡がくっきりと見て取れた。ユリアはそんな顔を二人に見せまいと下を向いたまま立ち上がると、ビール瓶を持って足早にキッチンへと移動してしまった。

その後を追おうとしたスイをアレクサンドルが静止した。

「彼女を一人にしてやってくれ」

「でも…」

「いいから」

乱暴にキッチンのドアが閉められ、リビングは一層暗闇と閑静に支配された。

そんな中、外から射す僅かな灯りに照らされ、アレクサンドルはソファテーブルに置かれたコップを手に取った。

「スイはカナメ2を此処に連れて来て良かったと思ってる?」

「良かったかどうか、まだ分からないんです…美崎君を此処に連れて来た事でユリアさんの心を追い詰めてしまったのは事実ですから」

「そうだね。君が行く所、カナメ2が必ず付いて回る。君が此処に戻って来る事は、当然カナメ2も此処に来る事になると分かっていたはずだ」

「ユリアさんには申し訳ない事をしてるのは分かってます。だけど、美崎君はユリアが思ってるような存在じゃないって、今の彼そのものを見て欲しいって、私思うんです」

「君が言う事は正論なのかもしれない。だが、それは身内を殺された被害者に対し、殺した犯人を愛せよと言って、本人が過去の事実を克服する以前に現実の受け入れを強要しているのと同じ事だ」

「その通りです、サーシャさん。ユリアさんの辛い過去は私には変えられません。でも、美崎君は前とは違います…少なくとも、私達が初めて会った時の彼とは全然違う」

スイはそう言うとユリアが入って行ったキッチンのドアの前に立った。

「ユリアさん、私、私…」

そう言ってドアをノックしかけたスイの隣に、ソファで寝そべっていたラモーナが突然むくりと動き出し、暗がりの中をスッスと歩き出したかと思うと、スイの真横にやって来てその場にお座りをした。

「私、ユリアさんにとても感謝してるんです。ネオ・ムセイオンに来たばかりの私を此処に連れて来てくれた事も、出て行った私をもう一度迎え入れてくれた事も」

ドアの向こう側からは何の物音もせず、ただ静寂と沈黙だけが流れた。

「美崎君が、ユリアさんにとって平穏を乱す存在だって思うのは当然です…でも私は二人に和解して貰いたい…だから、お願いです。私の話も聞いてください」

「放って置いて!」

「ユリアさん…」

全てを拒絶するユリアに、スイは言いたい事も言えず、途方に暮れた。そんなスイを大丈夫?とでも言いたげにラモーナがスイの顔を見上げた。

その時玄関の方でドアが開く音がした。誰かが入ってリビングに近付いて来る音がし、カチッと云う音と共に部屋の照明が点けられた。

「何事?」

「ドリーさん、ユリアさんが…」

「ユリア?」

その一言でドリーは事の全てではなくても重要な部分のみを見抜いた。

「ユリア?開けるわよ?」

ドリーがキッチンのドアを開けると、其処には誰もおらず、裏口のドアに小さな隙間が開いていた。

「…まさか」

そう言うとドリーは血相を変えて1階のバスルーム横の要の部屋に駆け付けた。その後を急いで追うスイとラモーナ。

「ユリア!」

其処には包丁を右手に持ち、水槽の前に立つ要に向かって自身の右手をいざ振り下ろさんとするユリアの後ろ姿があった。

「ごめんねユリア!」

ドリーは間髪入れずにユリアを背後から抱き締める様にして拘束し、スイはすかさずユリアの右手を開かせ、包丁を回収した。

「貴女を此処まで追い詰めてしまった事は謝るわ、どうか許してちょうだい…」

抱き締められたままユリアは声を出さずに涙を流していた。その一方で要は、彼女達の様子に対し、微動だにせず、顔色一つ変えずにただ無表情に見つめていたが、スイの姿を見つけるとただ一言「アサナギ」とこぼした。

そのまま子供の様に泣き始めたユリアを抱え、ドリーは2階の自室へ入って行った。ドリーならきっとユリアの心を開かせる事が出来るだろう。

「美崎君、大丈夫?」

「ああ」

「ごめんね…ユリアさん、決して悪い人じゃないんだ。だけど、美崎君、あんな事されたら、此処にいたくなくなるよね?」

「俺は平気。アサナギが無事なら」

スイは真顔で要にそう言われて困った様な悲しそうな複雑な顔をし、「…ありがとう」と返した。

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