87章
スイはその日の夕方、ボニーの会社の車に送られてかつて暮らしていたシェアハウスに戻ってきた。子供達との別れは寂しかったが、同じ施設内で要のコンディションを管理する事が到底出来ない為、再びそこで生活する事になったのだ。
「今まで通り、此処も貴女のおうちだからね」
ボニーはそう言って送り出してくれたが、ライラを始めとする子供達は不安そうな顔付きでスイとの別離を悲しんだ。
「いっちゃやだよう」
「ずっとここにいてよう」
「大丈夫よ、また皆に会いに来るわ」
「ぜぇったいに来るー?」
「約束よー?」
「うん、約束する。君達も良い子でお姉さん達の言う事聞いてね」
要はスイと子供達の様子をやや離れた所で、無表情で眺めていた。彼もまたスイに同行して此処迄ついて来たのである。自分の知らない小さい人間達が大勢でスイを取り囲んでいる様は、何処か不思議な光景に思えた。
「ライラ、今度から貴女がお姉さんよ。小さい子達と仲良くね?」
「うん…」
ライラはスイにもう一度ハグをした。子供達の中で唯一スイと同じごみ捨て場の育ちである彼女は、これから先はネルもスイもいない所にたった独り残される。その不安はスイも彼女の性格を知っているからこそ、自分の言葉がライラにとっての重石となるかもしれない事に気付いてはいた。だが、スイはその先のライラの中に守られているばかりではない責任感が根付いてくれる事を願って、一抹の希望を彼女に託した。
「アサナギ、あの小さいギャアギャア騒いでる群れは何だ?」
子供達との別れを済ませたスイに、要は質問した。
「群れって…あの子達は私と同じなの。お父さんもお母さんもいなくて、頼る人が他に誰もいなくて、居場所も無くて、フォスターケアセンターで生活していた子供達。でもセンターも色々あって無くなってしまったから、此処に身を寄せているの」
「何の為にあんなに騒いでたんだ?」
「私が此処を離れるのが皆寂しいのよ。僅かな間だけだけど、私と一緒に生活していたから」
「アサナギはスマートウォッチを持ってる。だから通信する方法なんかいくらだってある」
「それだけじゃだめなの。人には言葉や文字だけじゃ足りない、五感を使って伝え合う物もあるのよ」
要は黙り込んだ。彼は今もスイとは2〜3メートル距離を置いた所から会話をしている。だが、彼女が近くにいる事は声や姿、それに大気中の水分子の動き等から知覚する事ができる。
「…そっか」
スイは心做しか、復活してからの要は以前よりも知的好奇心が旺盛で、尚且つ以前あった刺々しさが和らいだ気がしていた。
「美崎君、変わったね」
「え?何処が?」
「ううん、何でもない」
要は不思議そうな顔付きで、車の助手席に乗り込んだ。一方でスイは、要と対角線上に一番後部座席につく。二人の間に見えない壁が存在している都合上、共に移動する時はこうするしかなかったのだ。それでも要は落ち着いていた。スイの傍にいて、彼女に何かが起こった時に自分がすぐに対処出来る場所に居る事が重要だと信じていたからだ。
車から降りたスイ達を真っ先に出迎えたのはラモーナだった。初めて見る要にはくんくんと鼻を引くつかせながらチラ見し、かつての家族には尾が千切れそうな程に大きく振って歓迎した。
「ラモーナ、ただいま」
要は初めて見るゴールデンレトリバーという生物に目を丸くした。その体躯は簡単に人を襲えそうに見える。だが、双方に敵意や恐怖心は見られない。
要の視線に気が付いたのか、ラモーナもまた黒い目でジイッと要を見つめた。彼からは初めて嗅ぐ臭いがする。此処は私の縄張りの中、とりあえずこっちは様子を見てみるか。
「お帰り」
シェアハウスの入口でラモーナと共に二人を待ち構えていたのはユリアだった。
「ユリアさん、今日からまた宜しくお願いします」
「カナメ2…本当に此処で暮らすつもり?」
「水槽の外でも生活出来る事は、大西洋往復した事で証明済みだ」
「そうじゃなくて…!」
「美崎君、やめて!こういうシチュエーションでは挨拶が基本よ!」
「…よろしくお願いいたします」
「ユリアさんも、どうかお願いです。彼は貴女の知るドクターミサキ・エイジでも、以前の美崎要でもないんです。今の彼をユリアさんが受け入れてくれるなら、私は何度でも頭を下げます」
「スイ…これじゃ私が一方的に悪者ね」
ユリアはサッと要に向かって右手を差し出した。
「宜しくね」
「…はい」
要も右手を差し出し、二人は握手を交わした。その様子を見て、ラモーナが初めて要に向かって尾を振った。
スイ達が部屋に入ると、アイーシャとアレクサンドルがリビングにいて、ダイニングではロベルトとエルネストが何やら調理をしている様だった。
「ニックは?」
「今日は実験だから遅くなるみたい」
「そう、じゃあ歓迎会はまた今度かな」
アレクサンドルは要にハウスの中を案内するよと言った。スイも自分の部屋に荷物を置きに行きたかったので、一緒に行けないけど大丈夫、と言って二人を送り出した。
シェアハウスの1階にある男性部屋の中で、バスルームの隣に急遽造られた要の専用部屋には、硬水を軟水に変換する機械や濾過装置などが狭い水槽と共に備え付けられていた。
「これでも大変だったんだからな」
「…ありがとうございます」
一方でスイは元いた部屋に再び戻って来て、棚に少ない荷物を片付けながら考え事をしていた。要の事、バイオリンの事、キュクロプスの事…私にはやるべき事柄が沢山ある。
ふとその時、部屋の扉をノックする音が響く。どうぞ、とスイが応えると、アイーシャが顔を覗かせた。
「スイ、私からのプレゼントは役に立った?」
「ええ。私の探してた答えには行き着かなかったんですけど、他にも色々使えて便利でした」
「そう、それは良かった。ただね、あのIDとパス、テタルトが暴走した時にもシステム入る時に使ったんでしょ?」
「…ええ」
「やっぱりね。あのIDは今警察も監視してるから、次使ったらたぶんスイ、逮捕されるわ。だからもし検索が必要なら、また新しいの作ってあげる」
「…ありがとうございます」
階段の下からユリアが二人を呼ぶ声がした。どうやら今ハウスにいるメンバーだけでささやかな晩餐会を開くらしい。スイは急いで残りの衣類をクローゼットに片付けた。
スイがアイーシャと共にキッチンを訪れると、エルネストとロベルトが色々作った品々をテーブルに並べて待ち構えていた。スイは凄い、と歓声をあげた。
「お帰り、スイ」
「君はきっと此処に戻って来るだろうと思ってたよ」
「どうして?」
「此処の食事は何でも美味いからさ」
スイはその通りだと答えながら、後からキッチンに入って来たアレクサンドルと要に視線を送った。
「やあ、カナメ2。君は普段どんな物を食べてるのか?」
「食べてる物…?食糧じゃないのか?」
「ハハッ、そうだな、確かに食糧には違いない。じゃあ質問を変えよう。君にはアレルギーとか、食べてはいけない物はあるのか?」
「…分からない」
「そうか、じゃあ取り敢えず何でも試してみる?ドリーさん程じゃないけど、これでも僕達、料理は得意なんだ。だから君が気に入ってくれれば嬉しい」
テーブルには野菜サラダや馬鈴薯のグラタンやミートパイやコンソメスープといった二人が良く作る定番メニューの他、ガーリックシュリンプという珍しい一品もあった。
「蝦なんて珍しいわね」
ユリアはそう言いながら冷蔵庫からビールの瓶を取り出した。
「カナメ2の席は何処にする?スイの隣がいい?」
要は困った様な表情でスイの顔を見たが、スイは
「ロブさん、ごめんなさい。何故か彼、私に一定の距離が近付けないの」
「そう。じゃあサーシャと僕の間にしようか。そうすればスイの向かい側になるだろ」
こうして要を囲む食事が始まったが、要はフォークとナイフの扱いに苦戦した。それはまるで文明開化の時代に初めて西洋料理を出された時の日本人の姿そのものであった。時々スイの様子を見て使い方を真似ていたが、音を立ててしまうと皆の表情が曇るので、だんだんナイフを使わず、フォークだけで器用に食べる様になっていた。
「どう?口に合った?」
要はガーリックシュリンプをうまくフォークで刺そうと躍起になっていたが、諦めて指先で摘んで頬張っていた。そこへロベルトに質問され、要は蝦の肉で口一杯にしながら首を縦に振った。実際、要が数々の料理の中で一番気に入ったのはこのガーリックシュリンプだった。
不思議な雰囲気の食事が進む中、突然来客のチャイムがハウス内に鳴り渡る。
「誰だろ?こんな時間に…」
「僕が出るよ」
そう言って席を立ったアレクサンドルは、玄関のドアを開けて、其処にいた人物の姿を見て、直ぐ様ユリアの名を呼んだ。
アレクサンドルに呼ばれて、ユリアは飲みかけのビールの瓶を手に持ったまま玄関に行き、思わず声をあげた。
「母さん、どうしたの?」
其処にいたのは紛れもなく彼女の母、アリッサ・グールド前所長だった。




