86章
スイの前にいる要は、一見彼女が知っている彼そのものであった。スイの中で様々な戸惑いや憶測や何かが交錯したが、やっとの事で口から出た言葉は、たった一言、「お帰り、美崎君」だった。
要はそんなスイの様子を見て、自分の知らざる所で何が起こったのかを想像する事は出来なかったが、それでも彼女と自分の隔たりを心底辛く感じた。
これまでの彼には感情というものが希薄だった。それはアリッサの下でアバターと同調するだけの為に成育されてきた彼にとって、感情は不要のものだとされてきたからだ。だが、睦月リョウによって再びこの世に生を受ける過程の中で、或いは彼女から与えられた復活の条件として、要の中に初めて人間らしい感情というものが芽生えたのは確かだった。
「アサナギ…ごめんな」
スイはそれを聞いて目を大きく見開いた。彼女がよく知る美崎要の代表的な人格は、自ら進んで他人に謝るなんて行為を決してしなかったからだ。
「…何で謝るの?」
「アサナギ、ずっと此処に来て辛そうな顔してたろ?」
「それはそうなんだけど…」
決して要の不在を嘆いていた訳じゃない。そう言いたい気持ちが喉元まで出かかったが、それより先に要の方から言葉を被せてきた。
「ところでアサナギ、あの男、何しにまた此処に来たんだ?」
「あの男って?」
「デフテロを連れてった、あの軍人」
「ベニントンさんの事?あの人、デフテロを再び動かそうとしてるの。デフテロの基になった細胞のサンプルを使って、美崎君と同じ人造人間を作らせるつもりだわ」
「アサナギはそれに協力するのか?」
「しない!私達を大人の都合で戦争の道具にするなんて行為、絶対に許せないわ!」
「なら俺も、もうテタルトとは同調しない」
要の発言にドリーは猛然と反論する。
「カナメ2!それはダメよ!」
それを聞いた要は、復活して初めてスイ以外の人間に顔を向けた。
「…誰?」
ドリーは初めて正面から美崎要の顔を見た。それは確かに、彼女が10年近く前にオンライン会議で見た事のある、生前のミサキ・エイジ博士の若い頃とそっくりであった。
「私はドリー・マクドナルド。今のチーム0の責任者よ」
「ドリー?農産学部長のあんたが何で?」
「説明は後よ、カナメ2。ネオ・ムセイオンが、ドクターアリッサ・グールドが貴方を製造したのはたったーつ、テタルトを動かす、それだけの為。貴方がテタルトと同調しなければ、貴方は廃棄されるだけなの」
「そう。この身体を殺すのは簡単な事だし、この身体が死んだ後はどうなろうと俺は知らない。ただ、俺が生きている今は、俺はアサナギ・スイの意志に従う」
ドリーは要の発言を理解しようとしても、なかなかその意味をきちんと捉える事が出来なかった。寧ろ、要が全く意図していない、宗教的な事を言っているのかと錯覚を起こしていた程だった。
「ドリーさん」
2人の様子を見ていたスイが声を上げた。
「お願いです。どうか美崎君の好きにさせてあげてください」
彼女には要の本心は理解出来ていないものの、彼がずっと自分を守ろうとしている事だけは痛い程伝わっていた。
「ドリーさん、貴女なら分かるでしょう?農場で育てられてる作物や生き物達だって、ただ搾取されるだけの為に生きてるんじゃない。大切に守られて育んでもらった命を私達に返してくれてるだけなんです。美崎君も、ただアバターと同調するだけの為にまた生まれてきた訳じゃない。皆が彼を大切にしてあげれば、そのうち貴方達が望む事を自然にしてくれる様になります。それに、もし他に彼にとって何かするべき事を抱えて此処にいるのだとすれば、それを私達が妨げる事はしてはならないのよ」
スイの言葉の重みは、ドリーの他、その場にいたスタッフ達に大きく影響した。その力が彼女自身のダイモンに由縁するものだとは、スイ自身ですら気付きもしなかったが。
要は透明な壁越しにスイの力強い言葉を聞き、自身が守ろうとしている相手によって守られているのだと実感していた。改めて彼の中にスイに対する強い崇拝の念が生じた。
「…分かったわ。スイ、私達は貴女にカナメ2の管理を任せる事にします。最終的にはカナメ2がテタルトと同調するよう説得して貰いたいのだけれど」
スイはその言葉を聞いて安堵した。要に向かってスイは微笑んで、安心して、と言った。それを聞いて要もまた顔中の表情筋を動かそうとして、不思議な顔付きになった。それを見てスイはもっと笑った。要は何故スイがそんなに笑っているのか、理由は分からなくても、スイがこうして笑っているだけで何故か心からとても嬉しいと感じた。
要が復活してスイと再開したのとほぼ同じ頃、会議室にそのまま残っていたドゥーリトルとジョシュアは2人、会議テーブルを挟んで向かい合う形で対峙していた。沈黙が続く中、会議室のドアをノックする音が響き渡る。
颯爽とその場に現れたヴェルナドスカヤの手には、鈍く銀色に光を放つ2つのジェラルミンケースがあった。
「コピーです」
そう言ってヴェルナドスカヤは重々しく会議テーブルに載せた。ケースを前にジョシュアが尋ねる。
「結構。中を見ても構わないかね?」
「どうぞ」
カチカチッと2つのジェラルミンケースがほぼ同時に開かれる。その中には何重にもケースに覆われたシャーレが1つずつ、その中央に収められていた。
「循環系、神経系、確かに受け取った」
ジョシュアはニヤリと微笑した。その様子を無表情で見つめるドゥーリトル。
「くれぐれも扱いには気を付ける様にな」
「ご忠告どうも。また何かあれば連絡させて貰う」
今度は片方ずつケースの蓋を閉め、両方のケースの持ち手を無造作に掴むと、ジョシュアはさっさと会議室を去って行った。会議室に残される形となったドゥーリトルは微動だにせず、ヴェルナドスカヤに「カナメ2は?」と尋ねると、彼女は即座にスマートウォッチでドリーを呼び出した。
「所長、カナメ2はご覧の通り、水槽の外に出て活動しております」
モニターに映し出されたドリーからのビデオ通話により、ラボの中にいてスイと向かい合ってエミールのタブレット端末を操作する少年の姿が会議室にいた者達の目に飛び込んできた。
「カナメ2は何をしているんだ?」
「それは…スイのエミールで学習しています」
「学習?人造人間に必要な事なのかね?」
「彼はスイがアバターを軍事利用する事に協力しないと知って、何故か自身もアバターと同調する事を拒んでいます。 それで、スイにカナメ2の管理を任せながら、彼に本来の役割を果たして貰おうと思っているのですが…」
「それがカナメ2が学習する事とどう関係しているんだ?」
「スイがリュケイオンへ講義を受けに行く時間になりましたので、ラボを離れようとしました所、カナメ2もスイに同行したいと主張したのです。リュケイオンへ行くには、エミールでの学習を受けて、単位を取らなければならない、とスイが説明した所、それなら、と…」
「まるで刷り込み(インプリンティング)だな。そんなにカナメ2が人間の生活を希望するのであれば、君の農場にでも引き取ったらどうだね?」
「シェアハウスにカナメ2を住まわせろと言うのですか?」
「最終的な判断は君に任せる。だが、アサナギ・スイには本来の目的を忘れさせないようにな」




