85章
美崎要だと自己認識していた魂は、ステュクスと別れてからもずっと白砂の海底に縛られ続けていた。結局、自分自身が置かれている状況は全く分からず仕舞だったが、ただ其処にいるのは非常に退屈で、時間の流れが蝸牛の歩みの様に遅々としたものに思えた。
「俺は、何の為に存在しているのか…?」
自分の存在意義。俺には何か大きな使命が与えられている。だが、それが思い出せない。俺には常にある人物の影が付きまとう。だが、今その影は此処にはない。俺の体を造った者。その人物は此処にはいない。俺に生を与えた者。その人物もまた此処にはいない。そして俺は今、どうして、此処に縛られている…?
「それはね、要君。貴方が自分はこう在るべきだと強く思い込んでるからよ」
縛られた魂が止めどなく自問し続けていると、女の声が聞こえた。彼はその声の主を知っていた。心地よかった闇の中でも聞いた、あの声。
「貴方は何を望むの?」
俺は、自由になりたい…!
「素敵な事よ。自由でいられるって事はね」
その時、魂を縛る鎖の1本が粉々に砕け散った。
「貴方は自由になって何をしたいの?」
俺は、俺の事をもっと知りたい!それから、人間達の事も、アバターの事も、世界の事も、もっともっと知りたい!何よりも、この次から次に出てくる疑問が何処から来るものなのかを突き止めたい!
「素晴らしい(Excellent)。その気持ちをずっと忘れないでね」
彼女の言葉と共に、鎖は次々に粉々に砕け散り、遂に彼を縛る物は無くなった。
「…!!」
魂が縛めから解き放たれると共に目を覚ますと、其処は彼の良く知る場所、ネオ・ムセイオンの最下層のラボにある水槽の中だった。
水槽の目の前には、声の主、睦月リョウの姿があった。
リョウはたった一人、水槽の前で、後ろで手を組み、じっと其の中にいる胎児を見つめていた。
「ハッピーバースデイ」
ただ一言、彼女はそう言った。その顔には穏やかだが、何処か哀しげな微笑みが浮かんでいた。
「要君。いつも私、貴方に勝手なお願いばかりして、ごめんね。だけど、要君なら翠ちゃんの事、助けてあげられる。だから、あの子の事、よろしくね」
その時、ラボの入口にもう一人、少女の姿が現れた。アサナギ・スイその人であった。
「…リョウちゃん?」
嗚呼、俺、彼女の事を確かに知っている。要は水槽越しにスイの姿を見て、激しい憧憬に襲われた。
「おはよう、スイちゃん」
「おはよう…リョウちゃんどうして此処に?」
「貴女が此処に来ると思って」
「私の事…待っててくれたの?」
「ええ。スイちゃんに会いたくて来たの」
水槽の中で要は言葉にならない声をあげた。それは嘘だ…!
「実はね…私、此処を離れないといけないの」
「どうして…?」
「そろそろ学院に戻らないといけなくて」
「…学院」
スイの表情がみるみるうちに曇ってゆく。
「いつ、行ってしまうの…?」
「明日のお昼頃には此処を出発するわ」
「そうなんだ…」
嗚呼、そんな顔をしないで。要は水槽の外の少女達のやり取りを何故か心苦しく思えた。やがてリョウがラボを去り、一人残されたスイの辛そうな表情を彼もまた何とも辛い心持ちで眺めているしかないのを、歯痒く感じた。
「私の事、分かってくれる人がまた遠くへ行ってしまう…」
要は彼女の力になりたいのに、自分がどうする事も出来ない、声すらも掛けてやれない辛さで一杯だった。早く大きくなりたい。
そんな要の思いとは裏腹に、スイは毎日の様にラボへ来て、アリッサの事務机に突っ伏したり、虚ろな目で要の方を見ていたりしていた。
ある日、スイがラボに来ている時に、彼女のスマートウォッチが突然鳴った。電話を掛けてきたその相手の事も、要は何処かで会った記憶が朧気に残っていた。彼女達のビデオ通話でのやり取りは他愛も無い物だったが、スイを心配しているのは自分だけではないと知らされた。要は何だか通話の相手、その名前がマニである事は思い出せなかったが、彼女に対して軽く嫉妬心を抱いた。だが、要はその感情の名前を知らなかった。
「スイ」
ラボに突然来たその女性の事も、要は何となく覚えていた。
「ユリアさん、どうして此処に?」
「どうしてって、貴女にこれ以上この人造人間に深入りしないで貰いたいからよ」
その女性、ユリアと呼ばれた存在が俺を彼女から引き離そうとしてる。ヤメテ!!
ハラハラしながら要は2人の様子を水槽越しに見守る事しか出来なかった。ユリアに「その中にいるのは貴女の知ってるミサキ・カナメじゃない」と言われても、要は何も感じなかったのに、スイが「私は別に美崎君の恋人だった訳じゃない」と言った時、要の心の奥底で何とも言えない寂しさを覚えた。そしてユリアがスイに対して右手を振り上げた瞬間、要の中で、彼女を守らなければという強い思いが湧き上がりかけたが、それが未遂に終わると、一気にその感情は潮が引く様に収まった。
再び、スイのスマートウォッチが鳴り、短いやり取りの後、2人はラボを去って行った。要はたちまち不安になった。何故かスイの事が心配で堪らなかった。彼女は大丈夫なのか?
要はかつて自身の影の中にいるアサナギ・シンがやっていたのと同じ様に、空気中の水分子に神経を注ぐという技を試みた。その範囲をどんどん広げて行き、遂にはネオ・ムセイオンの建物内を全て網羅する迄に至った。そして遂に、彼は入った事のない部屋にいるスイとユリアと、そしてジョシュア・ベニントンを見つけた。
この男は危険だ。要はジョシュアの姿を見つけるなり、激しい衝動に駆られた。この男の言葉は信用出来ない。早く、一刻も早く、此処から出て彼女を守らなければ…!!
再び要が強い感情に揺さぶられ、鼓動が一気に早まると、みるみるうちに自身の全細胞が活発に分裂を繰り返し、体内に様々な臓器が備わっていき、気が付けばほぼ成人男性に近い状態迄、人型を形成し終わっていた。
「…アサナギ!!」
要は水槽の外へ出ようと水面に浮上し、壁や天井を激しく殴打した。その異変を察知して、何処からかアラームが鳴り始め、見知らぬスタッフ達がラボに集まって来た。
「俺を此処から出せ!!」
おろおろするスタッフ達にそう叫んでも、一向に聞き入れられなかったが、この騒ぎの連絡が会議室に伝わり、ユリアとスイ、そしてもう2人、会議室にいた人物が此方に向かって来るのが分かると、要は騒ぎ立てるのを止めた。
「アサナギ・スイ…!」
要は、ラボの入口に現れたスイを姿を認めるなり、思わず彼女の名前を口にした。
スイはつい先程迄胎児の姿だったものが、彼女の知る美崎要そのものに変化していた事に加え、その彼が自分の名前を呼んだ事に激しく動揺した。
「美崎君、私の事が分かるの…?」
要は水槽の中で水面から顔を出せる所まで浮上していたが、スイが水槽の側まで来ると魚の様にアクリルパネル越しに彼女の近くまで泳いで行き、彼女の目の前で首を縦に何度も振った。
「…有り得ないわ」
スイと共に会議室から駆け付けたドリーは思わず言葉を漏らしていた。その傍らでユリアは答えた。
「ドリーさん、この現象は前にもあった事らしいです…10年前、北太平洋コロニーが崩壊し、ネオ・アカデメイアが消滅したあの日に」
水槽内に突如として現れた美崎要は、水槽の外でカナメ2と呼ばれている違和感を覚えながらも、自分を水槽の外に出す様訴え続けた。その場のスタッフ達は躊躇していたが、スイが「大丈夫だと思う」と言った事で、遂にその希望は叶えられた。
彼が最後にギガスを1体倒して以来、久々に触れる空気が彼の皮膚から熱と水分をどんどん奪い去っていく感覚は、彼の中に刻まれていた様々な感情を次々に思い起こさせた。
「…アサナギ」
水槽の外に出た要は、驚いた表情をしているスイの傍に行こうとして、あと2〜3メートルという所で目に見えない壁に遮られた様に、これ以上スイに近付く事が出来ない違和感を覚えた。だが、固唾を呑んでその様子を見守っているドリーやユリア、その他スタッフ達やスイ本人ですらも、要に何が起きているのかを理解出来なかった。
「…タラッサのせいなのか?」
思わず溢した要の言葉に、スイはハッとなった。
「 私達に近づかないで!」
かつてトンネルの中でスイがテルキーネス達に向けて発した言葉が、今も尚スイと要の間に障壁となって、2人を遠ざけていたのだった。




