84章
スイはリョウとセッションし、別れた日から数日間、何もかも全てが空虚なものに思えた。それは彼女の心の中に巨大な深淵が生まれた様でもあった。時折リョウと心を通わせた出来事を思い出し、一喜一憂した挙げ句、最後にはリョウに会いたいと切に願うのであった。
「それで、君はこのまま何もせずネオ・ムセイオンにいるつもりなのか?」
ネオ・ムセイオンに復帰した事で、ようやく再支給されたスマートウォッチに、真っ先にコンタクトを取ってきたのはヨーロッパ支部のマニだった。
「分からない。リョウちゃんが行っちゃって、私、此処にいる意味すら無くなっちゃったんだもの」
「君はそのムツキ・リョウとか言う女の子と一緒にいたいだけのためにネオ・ムセイオンに戻ってきたのか?違うだろ?」
「そうなんだけど…でも、アバターの実験に参加する訳でもないし、どうやってキュクロプスの居場所を探せば良いのかも全然分からないんだもの」
マニは言葉を失った。だが、自分の危機の時に空から駆け付けて状況を変えてくれたスイの何時にない様子に、何かしらスイの力になりたいという気持ちだけは確かだった。
「スイ、喪失の悲しみを癒してくれるのは時間だけだ。君の場合とはちょっと違うかもしれないけど、僕にはその辛さ、分かるよ」
「マニはどうやって克服したの…?」
「僕は…ひたすら大好きな『アストロマキア』を見まくって、それからSNSで僕と同じ過去を経験した人達とちょっとずつ対話して、少しずつ前向きになれた。君には例えば好きなもの、何かないの?」
スイは考え込んだ。自分の好きなもの。自分には何がある?
「いきなり言われても、分からない…」
「そう。まあ、こればっかりは他人に言われて無理して決めるもんじゃないから、兎に角自分の外に目を向けるんだ。そうやって外にアンテナ張っていれば、何かしら自分の心が紛れるものが見つかる。急がないで、好きなだけ時間をかけて、今迄やった事のない全く別の事を見つければいいさ」
そう言って大洋を挟んだ久々の会話は終わったが、マニの頭の中には一つの疑問が浮かんでいた。
「カナメが此処に来た時も言ってたな…アバターパートナー候補のリョウ。スイが言ってるムツキ・リョウと同じ人物なのか?」
その一方でマニとのビデオ通話を終えたスイは、旧アリッサの地下のラボの水槽の中に視線をやった。水槽の中では、組織が集まって1人の胎児の姿を形成していた。これが本当に行く行くは美崎要になるのか?
「スイ」
ラボの入口にいたのはユリアだった。
「ユリアさん、どうして此処に?」
「どうしてって、貴女にこれ以上この人造人間に深入りしないで貰いたいからよ」
「でも、私、此処には何処にも私の居場所がないの。 チーム6のラボには行っちゃいけないって言われたし、シェアハウスにおいでって言われてるけど、前にいた時とだいぶ様子が変わってしまったし」
「だからって此処にいる事、ないじゃない…その中にいるのは貴女の知ってるミサキ・カナメじゃない。其処にあるのは彼と同じ遺伝情報が組み込まれただけの、ただの細胞の塊なのよ」
「ユリアさんは、お母さんが美崎君に取られてしまった事を今も恨んでるの…?」
「そんな事ないわ!母の研究が土台としてあったから私達のアバターの実験に活かされてるんだし、アバターが地上の現状把握や再開発に貢献する事で、私達のやってる事は人類の為になってるんだって思っているわ」
「それじゃ何で、私が此処にいちゃいけないの…?」
「貴女が私の母の様になって欲しくないからよ」
「…ハハッ。それは大丈夫ですよ…私は別に美崎君の恋人だった訳じゃないですし」
その言葉を聞いてユリアはカッとなって右手を上げかけた。だが、虚ろな目をしたスイに顔をまじまじと見つめられ、ハッと我に返ってゆっくりとスイに打ち付けようとしたその右手を下ろした。この子はドリーさんが言う通り、確かに何処かで闇を抱え込んでしまった。その様子をじっと見ていたスイが淡々と打ち明ける。
「ユリアさん、ごめんなさい。酷い事言って…でも、私、本当に自分でどうしたらいいのか分からないの。私が自分の心の中を多く打ち明けた相手は皆、誰もかも、私の知らない何処か遠くに行ってしまう。だから、もう、私、ユリアさんにも遠くに行って欲しくないから、これ以上何も話せないの」
ユリアはドゥーリトル新所長と共にヨーロッパ支部から見学に来ていたパートナー候補生の話をチラッと思い出した。結局アメリカ支部のアバター研究チームは誰もタイミングが合わず、彼女に会えず仕舞だったが、確か彼女は最近あちらのコロニーへ帰郷した筈だ。いつの間に彼女とスイはこんなにも親密になっていたのか。
「彼女、ムツキ・リョウは元々アメリカ支部の人間じゃないから、ずっと此処にいる訳じゃないもの。スマートウォッチ、貰ったんでしょう?彼女に直接連絡してみたら?」
「スマートウォッチ貰ってすぐ、リョウちゃんの事探してみたの。でも、彼女の情報が全然出て来ないし、連絡先も分からないの。マニも彼女の事知らないって言うし、SNSもやってないみたい…どうしたらまた会えるんだろうって、そればかり考えてる」
まるでシャルロッテに大失恋したウェルテルの様なスイに、ユリアは軽々しく他に友人を作れとは言いにくかった。彼女は出自と育った環境のせいで、なかなかリュケイオンの中で同世代に受け入れて貰えないというギャップを今も背負っている。
ユリアが何かを言おうとして口を開きかけた時、スイのスマートウォッチから、呼び出しのアラートが鳴った。ユリアの顔を恐る恐る見上げたスイは、出たら?とユリアに促され、急いで応答した。相手はドゥーリトル新所長の秘書のヴェルナドスカヤからだった。
「今から平和維持軍から客人が来る。今、エミールのカリキュラム上、問題でなければ、所長は君もその場に同席する事を望んでいる」
スイは目を見開いた。何故また平和維持軍が出て来る?
「どうしたの?」
スイの尋常ならぬ様子にユリアはスマートウォッチのメッセージ画面を見せて貰い、その理由に納得した。
「どうしよう…」
「私達も一緒に行くわ」
ユリアは急いで自分のスマートウォッチを開き、アレクサンドルを呼び出した。
スイがユリアと合流したアレクサンドルと共に向かった指定の場は、かつて理事長達からデフテロを平和維持軍へ引き渡す事を宣告されたのと同じ会議室だった。
其処にはドゥーリトル新所長とドリーがいた他、スイの良く知る人物が彼等と向かい合う席に堂々と座っていた。
「久しぶりだな、アサナギ・スイ」
「…ベニントンさん」
スイは腹の中で沸き起こる複雑な感情を必死に抑えた。
「グールド君、カレフスキー君。君達には同席を頼んだつもりはないのだが?」
「いや所長、構わないですよ。彼等は僕がアサナギ・スイを再び誘拐しに来たと思っているだろうからね」
そう笑って受け流したジョシュアの目は鋭く、そして笑ってはいなかった。
「私が此処へ来たのは他でもない、君達に世界連合及び平和維持軍への全面協力を再度要請する為だ」
「それは此処にある我々のアバターの研究成果と情報を軍事利用に転換させろと言いたいのだね?」
「流石、ドゥーリトル所長は前所長と違って話が早い。だが、私が赴いたのは別件によるものだ。可能であれば前所長には我々の下で別の人造人間を生み出して貰いたい」
「テタルトとパートナーのペアを彼女に大量生産しろと言うのかね?」
「それが最も早い方法ならそれでも構わないと思うがね。我々の手元にはデフテロがある。そのパートナーを一から造って貰えればそれでいい」
スイは眉を潜めた。
「デフテロの基になったサンプル体、ネオ・ムセイオンの各支部にそのコピーが複数保管されてあるんだろう?そのどれか一つをミサキ・カナメ同様にパートナーとして形成して貰えれば問題ない」
スイの口から「…人でなし」という言葉が漏れた。それを無視し、ドゥーリトルはジョシュアを睨みつける様な顔付きとなり、低いトーンで答えた。
「…誰から聞いた?外部の人間が何故それを知っている?」
「我々の諜報部をナメて貰っては困るな。ネオ・アカデメイアがヨーゼフ・メンゲレと変わらぬ非道な実験を繰り返していた事も、その記録と研究を貴様等ネオ・ムセイオンが引き継いでいる事も、主はすべてお見通しでおられるのだよ」
「それで、デフテロが目覚めれば、君達の都合の悪い過去も何もかもを全て白日の下に晒す事になるだろうに、どうして其処までしてあれの封印を解きたいのかね?」
ドゥーリトルはジョシュアの揺さぶりに対し、全く動じる事なく匠に話題をすり替えた。ジョシュアは眉を顰めつつも問いかけに答えた。
「CASの事は勿論知ってるな?」
「ああ。だが、何故此処で彼等の名が出てくる?」
「CASのバックにいるのは、世界連合に属さない、華裔を称する東アジア人共だ。彼等がタッグを組み、我々世界連合とネオ・ムセイオンと同じ事を、否、我々より一足先の事をやろうとしているからだ」
「そういう事か。ならば我々には反論の余地はない。ネオ・ムセイオンが保持しているサンプル体№59049の複製の1つを渡す事に同意しよう。だが、君達の目論見通りになるとは思うなよ」
「無論、それが上手く行かなかった場合の保険として、緊急の際にはアサナギ・スイにも再度我々に協力して貰いたい。今回彼女の同席を依頼したのはそれを伝える為だ」
「嫌!」
スイの中で遂に蟠っていた感情が噴出した。
「世界連合も平和維持軍もネオ・ムセイオンも皆、勝手だわ!私とセイを都合の良い道具だと思ってるのね!」
「スイ、落ち着いて!」
ドリーの静止も虚しく、スイの怒りは収まらなかった。
「セイは私の姉なのよ!それを切り刻んでアバターにしたり、培養して人造人間にしようとしたりなんかして…そうなると分かっていたら、母さんだって貴方達にセイの体を引き渡さなかったはずよ!」
「アサナギ・スイ。君が平和維持軍に再び協力するかどうかは君の判断に委ねよう。だが、君達の母親が提供してくれた遺児に起因するサンプルは全て我々の管理下にある。だから我々の自由にさせて貰う」
ドゥーリトルの態度はマーギュリスと同様に一貫していた。スイはドゥーリトルを殴り倒したい衝動に駆られかけた。
そこへドリーのスマートウォッチが鳴る。ドリーは咄嗟に応答し、電話してきた相手を窘めようとしたが、そこで聞かされた言葉に俄に顔付きが一変した。
「何事かね?」
「チーム0のラボからです…たった今、発育中だったカナメ2が、急成長して水槽の外へ出ようとしてるって」
思いがけぬ知らせに、会議室の中は騒然となった。




