83章
リョウから突然の別れを告げられ、スイはその日一日落ち込んでいた。あまりの落ち込み様に、ドリーとボニーは勿論、ライラを始めとする子供達、センターにいる老人達が皆スイが病気になってしまうのでは、と心配する程だった。結局、スイは明日リョウと一緒に何を弾くのかも決められず、バイオリンを手に取る気力も失くし、ベッドの中でうずくまってただ泣き続けた。
そうして夜はあっと言う間に過ぎた。スイは誰にも気付かれないようにセンターを出発した。
誰もいないリュケイオンの音楽棟の練習室。此処で私は初めてリョウちゃんに出会ったんだ。彼女が弾いていたハープは片付けられてしまっていたが、グランドピアノが1台置かれてあった。黒く重厚な蓋を持ち上げる。赤いフエルトがスルスルと床に落ちた。スイはこれまでピアノを教わった事はなかったが、ドレミファソラシドがそれぞれ何処に配置されているかは分かっていた。
たどたどしい指使いで、あの時彼女が歌っていたJ.S.バッハとグノーのアヴェ・マリアのメロディを奏でる。
「…お別れなんて、寂しい。寂しいよ、リョウちゃん…」
涙に堪え切れず、ピアノの前で俯いたスイのその後ろで、音楽室の入口に人影が現れた。リョウだった。
「おはよう、スイちゃん。早かったのね」
リョウはそれ以上何も言わず、学生鞄からハンカチを取り出すと、涙でぐしょ濡れになったスイの顔を拭ってやった。そして何も言わず、優しく抱擁し、スイの頭を撫でた。それはまるで母親の腕の中の様な心地であった。
「そろそろセッション、始めてみましょうか。チューニングはした?」
首を横に振ったスイに代わり、リョウはスイのバイオリンケースの蓋を開けた。
「とっても綺麗なバイオリンね。本当に美しいわ」
リョウは恭しくバイオリンを手に取り、丁寧に、慣れた手付きでチューニングを施した。
「リョウちゃん、バイオリンも弾けるの…?」
スイの問いかけに、リョウは笑顔で頷き返し、そのまま構えるとE.エルガーの「愛の挨拶」を弾いた。彼女の弾き方は落ち着いていて、淡々としている様で、だが滑らかで優しい音が部屋一杯に響き渡り、全身から心の隅々へと染み入ってくる様だった。
思わず最後まで聞き入ってしまい、曲が終わると同時に拍手をしかけたスイに向かって、リョウは悪戯っぽく微笑んだ。
「スイちゃんもこの曲、弾いてみない?」
リョウはスイにバイオリンを返すと、学生鞄から今では珍しい紙の楽譜を取り出して、譜面台に並べてくれた。バイオリンを手に取り、楽譜を前にすると、興奮状態だった心が一気に落ち着きを取り戻したようだ。リョウが弾いていたのを真似て弾こうとするスイに、自分のスタイルで弾いて構わないのよ、と教えた。スイが楽譜を覚えると、リョウはピアノで伴奏した。彼女は時々譜面通りでなく、ジャズの様なアレンジでピアノを弾いて見せたりもして、型に嵌らない音楽を奏でる楽しさというものをスイは実感した。
「どう?楽しかった?」
「リョウちゃん、凄いね。貴女と一緒に弾くのがこんなに楽しいなんて」
「私、スイちゃんなら、もっともっと難しい曲も弾ける様になれると思うのよ?何ならちょっとだけ挑戦してみる?」
貸して、と言ってスイのバイオリンを手にしたリョウは、微笑むのを止めて真面目な顔付きになると、N.パガニーニのカプリースの第24番を弾き始めた。さっき迄のリョウとは打って変わり、それは悪魔に取り憑かれたかの様にすら見えた。超絶技巧が散りばめられた激しい旋律にスイはすっかり萎縮してしまった。
「怖がらないで。確かにこの曲を弾ける様になるには、努力だけではどうにもならない。才能もかなり必要だけど、貴女には素質がある」
リョウはそう言うと目線を音楽室の入口にやった。そこにはディレクターのダムロッシュの姿があった。
「やはり私達の楽団のメンバーではなかったんだな」
「今日は、ミスターダムロッシュ。音楽室を無断で利用した事をお詫び申し上げますわ」
「いや、それは構わない…練習時間外だからな…しかし、君は確か去年"フレデリック"の…」
「ええ、前にそんな事もありましたわ。よろしけばピアノもお目にかけましょうか?」
リョウは何かを思い出しかけたダムロッシュの言葉を遮る様に、バイオリンをスイへ返すと、そのままピアノの前に座り、J.ブラームスのパガニーニの主題による変奏曲を楽譜も見ずに演奏してみせた。バイオリンと同じフレーズでも、ピアノの場合はより軽やかで、ところどころに悪意のない無邪気さを感じさせるものだった。
リョウが演奏を終えると、間髪置かずにダムロッシュは拍手をした。
「それで…君は私達の楽団に入りたいのか?その腕前ならば、我々がテストする迄もなさそうだが…」
「いいえ、折角のお誘いは大変ありがたいのですが、私、近々復活する"ピョートル"に出るつもりですの」
「そうか…それは仕方ないな。君の健闘を祈るよ」
「それはそれと、ミスターダムロッシュ。彼女、アサナギ・スイは此処での活動に留めてはいけません。よりハイレベルな指導者の下で、世界の舞台を目標に教育を受けさせてあげるべきです」
リョウはそう言いながら、グランドピアノの鍵盤にカバーをかけ、蓋を閉じた。
「スイちゃん、絶対に忘れないで。貴女がどんな状況に置かれても、音楽は最後まで貴女を裏切らない。どんなに辛くても、悲しくても、貴女にはバイオリンがある。それは貴女のご両親の思いそのものなのだから。いい?約束よ。私、貴女と同じ国際コンクールの舞台で競い合える日を心待ちにしてるわ」
そういうとリョウはスイとハグをし、両頬に欧米人の慣習である挨拶のキスをした。
その瞬間、スイの脳裏に一つのヴィジョンが浮かんだ。時は夜、星空の下、海に浮かぶ火山島が噴火し、たちまち空は光を一切通さぬ噴煙に包まれ、赤々とマグマが溶岩となって山の斜面を流れ落ちて行く。その噴火口に向かい立つ一人の人物の影。その人物が後ろを振り向く。それは他でもないリョウ、紛れもなく彼女その人であった。噴煙の隙間から微笑む彼女の顔は、何処か悲しそうだった。此方を振り向いたまま彼女は噴煙の中へ自ら足を踏み入れた。その瞬間にマグマが激しく吹き出し、彼女の姿は何処にも見えなくなってしまった。
そのあまりの恐ろしい光景に、スイは咄嗟にリョウから身を離した。突き放されたリョウの顔から微笑みは消えていた。またね、と小さく発した彼女の言葉から、とうとう恐れていたこの時が来てしまった事を悟ったが、スイは行かないで、と口に出す事が最後まで出来なかった。
沈黙のまま悲痛に溢れた表情でその場に立ち尽くすスイ。何が2人の間で起こったのか知らず、黙って佇むダムロッシュ。そんな2人を残し、リョウは学生鞄を持ち、エルガーの楽譜を残して音楽室を風の様に去って行った。
音楽棟の廊下でリョウは一人、彼女が来るのを待ち構えていた若者の前で歩みを止めた。若者、かつてスイにバスの中で話しかけ、オーケストラ部の入団テストの前に激励の言葉を贈った人物は親しげに彼女に話しかける。
「もういいのかい?リョウちゃん」
「ありがとう、ヒカル君。もういいわ」
「そう。じゃあ、行こうか。アフロディーテが君との再会を待ち焦がれてるんだ」
リョウははにかむ様な目でヒカルの赤い瞳に向かって微笑んだ。




