82章
再度グラスの水を飲むドゥーリトルを前にして、スイは答えた。
「ドゥーリトル所長、私、計画に協力します。ただし、私だけでなく、私と一緒にいる子供達の生活と将来を保障して頂けるなら。あと、キュクロプスから剣の製造方法を習得した暁には、私の家族に関する過去の情報をすべて私に開示して貰えるとお約束頂けるのであれば」
その返事を聞いてドゥーリトルは表情を変えず、スイに右手を差し出した。
「いいだろう。私のアシスタントから正式に契約書を用意させる。受け取り次第、ドクターマクドナルド、彼女の指示に従うように。我々の科学の勝利とならんことを」
スイは黙って自らの右手を出し、握手をした。
「さて、私はネオ・ムセイオンへ戻る。ドクターマクドナルド、君は例の件についてボニー君と話を進めたまえ」
「承知しました」
ドゥーリトルはソファから立ち上がり、会議室を出て行った。会議室の扉が閉まると同時に、スイは後に残されたドリーとボニーに向かって問いかけた。
「ドリーさん、私にお願いしたい事って…?」
「テタルトのパートナーについて、貴女の知っている情報を全て教えて貰いたいの」
「美崎君の事を?何故?」
「テタルトを動かすためには彼が必要だからよ」
「でも…ドリーさん、アバター研究については畑違い、専門外なのでは?」
「そりゃあね。だけど、ネオ・ムセイオンに残って活動を続けていく為にはこうする他なかったの」
「ドリーさん…」
何かを言いかけたスイの言葉を遮り、ボニーがママ、と呼びかけた。
「ママはいつだって私の自慢だよ。ありがとうママ」
ボニーの言葉に、ドリーは思わず涙ぐむ。
「ラスムス、近々此処はネオ・ムセイオン直属のセンターになる。スイもネオ・ムセイオンから派遣されたメンバーとして此処の運営に関わって貰うの。そうすれば、一緒に来た子供達も安心するでしょ?」
今までバツが悪そうにスツールに座っていたラスムスが、突然名を呼ばれ、驚いて背筋を伸ばし、数回瞬きをした。
「何ですって?彼女は未成年者ですよ?」
「年齢は関係ないわ。スイにはネオ・ムセイオンでの活動と学業の合間に、時々当センターの広報活動でも手伝って貰えればそれなりに良い宣伝になる。それに此処もネオ・ムセイオン直属のセンターになれば、財政面でもかなり優遇されるし、取引先をもっと増やせるわ。とてもいいチャンスよ」
「はぁ…」
ラスムスはややボニーの勢いに押し流される様な形で言葉が出なかった。彼女の決意は固い。たぶんどう言っても反論されるだろう。彼は大人しく彼女の方針に同意した。
その約2時間後、スイはドリーや元アリッサの部下である数名のスタッフ達と共にアリッサのラボを訪れていた。部屋の中央に鎮座する巨大な水槽の中は空ではなく、赤い液体で満たされていた。だがその液体は、浄化装置が作動していないのか、全体的にやや濁り気味だった。部屋の中は血の様な臭いが微かにした。スイは数日前に此処を訪れた時の一部始終を思い出し、胸の奥が苦しくなった。
「彼のパーツは何処に?」
「この機械の後ろです」
スイは大型コンピュータの後ろの小さい扉を開いた。その中は相変わらず凍てつくような寒さだった。
「0番のケースを探して頂戴」
扉が開くや否や、ドリーが同伴していたスタッフに指示を出す。程無くして中へ入った数名の内の1人が何層もの透明なケースの中心に収められた試験管らしきものをドリーに見せた。
「ありがとう。これだわ」
「ドリーさん、これは…?」
「ミサキ・カナメの初期胚から採取したサンプル。グールド前所長の置き土産みたいな物だわ」
ドリーが縦に首を動かすと、ケースを持ったスタッフがそのままラボを出て行った。
「…本当に、いいんですか?」
「私達はアメリカ支部を、私達の大切な此の場所を守らなければ。その為には手段を選んでいては手遅れになるかもしれないもの」
こうしてスイはネオ・ムセイオンの中でチーム6ではなく、特別チームの中に組み込まれる事になった。と言っても、アバターの実験には直接関わらない為、以前よりも時間による拘束は少なかった。
彼女の生活はチーム6にいた時やフォスターケアセンターにいた時よりもゆとりがあった。普段はエミールシステムで学習し、時々リュケイオンで実習を受け、たまにボニーの指示で、センターで生活する人々や子供達、センター内で育てているプラントや農産物の事や、此処での生活の事などを世間に紹介するレポートを発表し、公開していた。そのレポートを障害者や年少者達のプライバシーの侵害だとか、売名行為だとか、様々な理由で火事を起こそうとする、顔も名前も明かさない人々がネット社会の内に存在はしたが、ボニーの手腕で大事にもならず、スイは何も気にする事なく、空いた時間に好きなだけバイオリンの練習に専念できるのが心から嬉しかった。
そんな彼女が通うラボは、そこはアリッサの地下のラボだったが、その中央に鎮座する水槽の中は再びLSLで充たされ、循環装置は再び作動し始めた。その中で冷凍庫から取り出され、解凍されたサンプルが細胞分裂を繰り返していた。スイは日々成長していく細胞が群れを造り、組織を構成していく様子を見守るのが日課となっていた。
ある朝、スイがラボに着くと、他には誰もいないラボの中央の水槽の前に、後ろで手を組み中をじっと見つめて立つ先客がいる事に気が付いた。
「…リョウちゃん?」
名前を呼ばれ、彼女はスイの方を向く。その顔は穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「おはよう、スイちゃん」
「おはよう…リョウちゃんどうして此処に?」
「貴女が此処に来ると思って」
「私の事…待っててくれたの?」
「ええ。スイちゃんに会いたくて来たの」
リョウの言葉にスイはどぎまぎしてしまった。何か言わなきゃ、と心の中で焦るスイをリョウは優しい眼差しで見ていたが、真顔になってポツリと言った。
「実はね…私、此処を離れないといけないの」
突然の事にスイはポカンとした表情になってしまった。
「どうして…?」
「そろそろ学院に戻らないといけなくて」
「…学院」
スイはリョウが急に遠い存在の様に思えた。
「いつ、行ってしまうの…?」
「明日のお昼頃には此処を出発するわ」
「そうなんだ…」
悲し気な表情のスイにリョウはこう提案した。
「良かったら明日の午前中、一緒に楽器でセッションしない?」
「セッション…?」
「そう。スイちゃんのバイオリンに合わせて私が何か伴奏するわ」
「でも、私、即興で弾いた事なんてないよ…」
「大丈夫、 スイちゃんの知ってる曲を何か弾いてくれたら、私、それに合わせて弾くから」
リョウの唐突な提案に、スイは驚きながらも渋々承諾した。明日の朝、リュケイオンの音楽室で、と言ってリョウは風の様に去って行った。
スイが一人残されたラボの中で、水の中で気泡が浮かんでは消える音と循環装置の機械音だけが、ただ静かに鳴り響いていた。




