81章
ラスムスはスイを応接室へ案内した。自分の背後を歩くスイが一瞬靴紐を直した様子を認めてはいたが、彼女の靴の中に隠された物の存在には気付かなかった様だ。
応接室の扉の脇にある呼び出し用ブザーを鳴らし、そのまま中へ通される。
「お待たせいたしました。彼女をお連れしました」
部屋の中央のローテーブルを挟んで左側の黒い革張りのソファに腰掛けていた、ロマンスグレーの髪をオールバックにした男性と会うのは初めてだったし、誰なのかも分からなかった。ただ、ローテーブルの右側にいた車椅子の女性と、その片端の黒い安楽椅子に座る女性は、二人ともスイのよく知る人物だった。ドリーとボニー母娘だった。
「では、私は失礼します…」
スイを残して退室しようとしたラスムスを、ボニーが車椅子に取り付けられたモニター上に示した文字で引き止める。
「貴方も同席して」
応接室で会うボニーはオフィサーの顔をしていた。そして普段の愛嬌ある奇声を封印してはいたが、モニター上に表示する言葉は読んだ者に対して非常に重みを感じさせた。
「スイ、久しぶりね。貴女が無事で何よりでした」
ドリーもまた、ハウスでの彼女ともネオ・ムセイオンでの彼女とも異なる、妙な緊張感を全身から漂わしていた。ドリーに薦められるまま、スイはドリーの傍らのもう1脚の安楽椅子へ、ラスムスは応接室の隅にあったスツールに腰掛けた。
一方で初対面の男性は、スイの姿を見て穏やかな微笑を浮かべた。
「初めまして、アサナギ・スイ」
「彼はアリッサの後任の新しいアメリカ支部の所長、フランシス・ドゥーリトルよ」
「こんにちは、所長」
「早速だが、本題に移らせて貰おう。私が何を頼みたいか、分かるのかね?」
「いいえ」
「結構。君に再びネオ・ムセイオンの研究に協力して貰いたいのだ」
「デフテロは其処にはないのに、何故ですか?」
「例のテタルトの暴走について、君も一枚噛んでいるんだろう?」
「私はあの事故の被害者でもあります」
「君がそういう立場を取るのであれば、我々はあの時どうやって君が関係者以外立入禁止の地下のラボに侵入し、そしてテタルトをどうしようとしたのかについて、然るべき対応を取らねばならない。分かるね?」
スイは言い込められて唇を軽く噛んだ。
「だが、私はその件については不問にする。その代わりに君には私の新しいプロジェクトに協力して貰いたいのだ」
「新しいプロジェクト、ですか?」
「そうだ。一貫して神統記 計画と呼んでいる内の一部に過ぎないがね」
「ヘシオドスの神統記ですか?」
「ああ。君も読んだ事はあるかね?」
スイは小さく首を縦に振ったが、正確には実際に文献を読んだのではなく、セイと同調している間に得た記憶に起因する物だった。
「神統記計画は、かつて人間が進化の途中、神話から歴史への移行の間で失った能力の分析でもあり、万物、或いは宇宙との関連性の証明でもある。アバターもその計画の派生に過ぎない。何より君とデフテロが地上から持ち帰ってくる新たな情報は、計画内の新しい課題にもなっている」
ドゥーリトルはそこでローテーブル上のグラスの水を飲んだ。それ以外の者は黙って彼の話に耳を傾け続けた。
「そのうち君には改めて北極圏にあるというヒューペルボリアの探求もしてもらいたいがね。まず手始めにキュクロプスを見つける事と、あの金属の鋳造技術の入手がしたい」
「金属?」
「デフテロが最初のギガスから奪って来た剣。あの刀身は鉄でもなければ合金の様にも見えない。あれがもしダイヤモンドではない、正真正銘のアダマントだとすれば、我々はまた歪められた歴史の修正をし、失われた技術と能力を取り戻す事ができる」
スイは頭の中で兄シンと初めて会った時の会話をうっすらと思い出しながら、ドゥーリトルの申し出を断る理由を探した。
「仮に私がその計画に加わるとしても、キュクロプスの居る場所について、その鍵を握るのは私じゃありません」
「やはりデフテロと同調が必要なのか?」
「…はい」
「君達のその記憶と知覚の共有の方法についても、これからの人類の進化の為にぜひ解明したい所ではあるがね。デフテロの持つ情報を何とかして探り出し、我々の物とする事ができないか?」
スイは首を傾げた。
「私はセイ…デフテロの意識と365日24時間繋がっているわけではないですし、平和維持軍の本部を離れてからは一切彼女と意思疎通をしていません。私にもどうしたら彼女と交信出来るのか分からないのです」
「成程。確か君は、平和維持軍に行く事もネオ・ムセイオンに残る事も拒んで、フォスターケアセンターに行ったそうだね。そのセンターがあんな状態になった今、これからどうやって生活して行くつもりだね?」
「生きて行く為の選択肢は僅かですが、皆無ではありません」
「そうか。ならば私達と取引をしないかね?」
「取引ですか…?」
「そうだ。噂に寄れば君は自分の出生について調べているそうだな?」
「…はい」
「もし、キュクロプスの居場所を突き止め、デフテロが持っていた剣を造る技術を我々に伝授してくれる様仲介してくれたなら、ネオ・ムセイオンの前身たるネオ・アカデメイアの研究の記録の一部を君に開示しよう。少なくともこの中にデフテロの基となったサンプル体、№59049とその提供者についてのカルテも存在するはずだからね」
「それって、セイと私の両親についての記録という事ですか…?」
「そうだよ。ただ、北太平洋コロニー諸共海に沈んでしまった記録の一部だ。君の期待にどれだけ添えるかは分からないがね」
スイは沈黙の内で様々な思考を巡らせた。ネオ・ムセイオンのデータベースでどんなに検索をかけても見つけ出す事が出来なかったデフテロとセイに関する過去の記録と、自分についてのデータにも記されていた例の謎の番号について、何かを知る手掛かりになるかもしれない。だが、それ以上に、自分の身が危険にさらされる懸念と、自分に無関係な者をその危険の道連れにしてしまう恐れがあった。
「所長、そのご提案はとても魅力的ですが、私個人の私的な理由で、関係のない人々を危険の巻き添えにする事や、センターにいた他の子供達を見捨てる事はできません」
スイの真顔の回答に、ドゥーリトルは両眉を八の字にしてみせた。その目線の先には、スイではなく、ほれ見た事かとでも言いたげなドリーの顔があった。それを見て、ドゥーリトルは再びスイの方を向き、口を開いた。
「つまり、君は何が何でも我々と手を組まないと言う事だな?」
スイは無言で首を縦に振った。
「分かった。それならば我々は君が再び平和維持軍か、或いはアブラハムの宗教団の何者かによって拉致監禁されたとしても、一切関与しないというスタンスを取らざるを得ない」
それを聞いてスイの表情が変わった。
「それって…」
「言葉の通りだよ。私が知る限り、平和維持軍はデフテロだけ手中に納めても無意味だったと言う事に薄々気がついている。君が自由になれば、再び君の身柄を拘束しようとする動きが活発化するだろう。フォスターケアセンターがああなった時点でボニー女史に相談したのはとても賢明な判断だったが、君がネオ・ムセイオンに戻らないと決めた以上、この先の安全は保障できない」
ドゥーリトルの言葉はスイの予想外のものであった。沈黙の後、スイは静かに決断を下した。




