80章
バスの揺れに身を委ねていると、背後にヒュプノスが忍び寄っていても、人は全く気付かないものだ。だが、時として乗り物が静止した瞬間、ふとその魔の手から解放される事がある。スイもまた、バスが目的地に着いた瞬間に微睡みから目を覚ました。
「スイ、起きた?」
「はい」
「着いたわよ」
スイが窓の外を見ると、そこは一見リュケイオンのキャンパスの様な施設があった。
「ボニーのハウスではないんですね」
「ええ。あっちのハウスはネオ・ムセイオンとの共同研究の場でもあるから、全員を今すぐに受け入れるのが困難だったの。代わりにボニーの会社の方で運営してる施設で保護してくれる事になったのよ」
ボニーの本業は以前ドリーが教えてくれたように、彼女の母親の研究を民間で実践する為の土台を構築するコンサルティングであるが、副業である障害者や孤児、老人達の自立支援センターの運営も悲しいかな順調に右肩上がりであった。そんな中で孤児達の受け入れ先を急遽用意するのはそれなりの苦労があった筈だが、スイのメールを読んだボニーの決意が多くの人々を動かしたのだ。
スイはその善意の連鎖を自然に汲み取り、心の中で深く感謝した。
「それじゃスイ。私はホームに戻るけどいい?」
「ユリアさん、来てくれてありがとうございました。ボニーさんにも、シェアハウスの皆さんにも…」
スイの言葉は後半から涙で上手く聞き取れなかったが、ユリアは優しくスイを抱擁した。そしてそっとスイの手に小さく折り畳まれた手紙を握らせる。
「大丈夫、きっと貴女なら上手くやれる」
スイは無言で頷いた。そして、夜勤のスタッフがスイとライラを連れて施設内へ入って行くのを、ユリアはほっとした様な表情で見送った。
「あのリーダー格の娘とうちのボスと君はどんな関係なんだ?」
サイモンの唐突な質問にユリアは、何故この男はそんな事を質問するのだろうとでも言いたげな顔付きで答えた。
「家族よ」
スイはスタッフに案内された部屋で、先に着いた子供達が大勢でベッドで眠っているのを見て安堵した。そしてベッドの空きスペースにライラを寝かせ、自分は床に毛布を敷いて眠ろうとしたところ、ライラがベッドの上から左手を差し伸べて来たので、そっと右手で握り返した。ライラが眠りにつくまで、スイはずっと手を繋いでいた。
「明日、練習行けるかなあ…」
スイの左手は自然とシベリウスの交響曲の楽譜通りにバイオリンの弦を押さえる動きをなぞっていた。ひたすら頭の中で音のイメージを繰り返し再現する。そうしている内にいつしか長い夜が終わりを告げようとしていた。
「…おはよ」
センター内での規則正しい生活が染み付いているせいか、夜が明けて6時が半分を過ぎた頃には、部屋にいるほとんどの子供たちが目を覚ましていた。
「朝ご飯はー?」
そう言えば昨晩は皆、センターの台所にあったパンの残りを皆で分け、トマトの缶詰とキャベツで即席で拵えたスープを少しずつ口にしたのみだった。朝ご飯、という言葉に触発され、誰もが空腹を急激に覚えた。
その時、突然扉が開く。そこに立っていたのは背中がくの字に曲がった2人の老婆達であった。
「おや、小さなお客さん達、もうおっきしてたのねぇ」
フォスターケアセンターの中で会う年上者はせいぜい中年の聖職者か職員位のものであった。その為その場にいた子供達の中には、急に現れた老婆達を見てヘンゼルとグレーテルの童話に出て来る魔女を想像したのか、キャッと叫び声を上げ、スイの後ろに隠れた子供も少なくなかった。スイはそんな子ども達を優しくなだめながら、何の罪もない老婆達に挨拶をした。
「怖がらないで、皆。おはようございます」
「はい、おはようございます。私はジーナ。こちらはテリーよ」
「私達、皆に新しい服を持って来たの」
「急だったからねえ、サイズが合えばいいのだけれど」
「遠慮しないで、好きなの着てね」
ジーナとテリーと名乗った老婆達は持ってきた大きなバスケットの中から、甲斐甲斐しく子供用の上着やら下着やらを取り出した。
「ジーナさん、ついでに此処の建物の中についても教えて頂けますか?」
「ええ、勿論」
「あと、空腹の子供達に何か食べる物を…」
「ああー、そうね、お腹が空いては何もできないわね」
スイ達はすっかりジーナとテリーのペースに呑まれてしまっていたが、世話焼きな2人は皆を食堂へ案内してくれた。其処ではスイがボニーのハウスで見たのと同じ、老若男女多様な人々がグループを作ってそれぞれのテーブルを囲み、互いの障害を補い合いながら食事を楽しんでいた。
初めて見るその光景に、幼い新人達はどぎまぎして食堂の隅に立ち尽くしていたが、
「おちびさん達、此方にどうぞ。椅子は此処にあるのを自由に使ってね」
と、テリーに言われ、素直に返事をして、或いは黙り込んだまま、指し示された場所から椅子を持って来て空いているテーブルの横に並べた。
子供達が銘々好きな場所に座ると、数人の男女が鍋や皿やパンの入った籠を持って来てテーブルに並べ始めた。
「お手伝い、します」
そう思い切って少年が話しかけた相手、皿を並べようとしていた女は視覚に障害を持っていた。彼女の指先で恐る恐る確認するような仕草に気づいて、自ら進んで行動した少年は、今迄経験した事のない位の賛辞と感謝の言葉を受けた。
「食事の前のお祈りは誰が?」
「此処ではね、せっかくの温かいお料理を目の前にして、そのまま冷ましてしまうような習慣はしてないわ。東洋式に両手を合わせて、ただ一言皆で『頂きます』と唱えるだけでいいのよ」
スイは初めて行なった筈のこの行為に、何故か前にもやったことがあるようなデジャヴュを覚えた。そしてこの場では温かい食卓を共に囲み、その言葉を発する人々は皆、誰もが笑顔を浮かべている。
「テリーさん、この習慣は何時から?」
「そーねぇ。此処が造られた当初いた東アジア人 が教えてくれたのかしら?そうだったわよねジーナ」
「いいえテリー。どの宗教にも縛られない様にとボニーが教えてくれたものだわよ」
「いや、ボニーではない。ジョーだ」
ジーナとテリーのやり取りに他の老人達が加わり、たいそう賑やかな場となった。皆、この若い新人達に興味津々で集まって来たのであった。
「皆、もう食べようよ」
そう言ったライラの言葉に、一同は両掌を合わせ、短い感謝の言葉を唱えた。そして、銘々に好きなものを手に取る。
スイの中で、今日は一日エミールによる単独の講義が主だったので、もしリュケイオンに行くとすればオーケストラ部の練習だけでも良いという、ほんの僅かな気の緩みがあった。
そんな心境で食事を済ませた彼女の元に、一人の男性スタッフが訪れた。
「君がアサナギ・スイだね?」
「はい」
「挨拶が遅れて済まなかった。私が当施設の責任者のラスムス・バークリングだ」
「あ…昨晩は私達を受け入れて頂いて、本当にありがとうございました。こちらこそ、御礼を言うタイミングが遅くなりました事をお詫びします」
「食事が済んで早々に申し訳ないのだが、君に客人が来ている」
「客人ですか?私に?一体誰が?」
「ネオ・ムセイオンからお偉方だよ。たぶん君もよく知ってる人物かと思う」
そうにこやかに言ったラスムスを見て、スイが此処から連れて行かれる、と云う不安に駆られたライラを始めとする数名の子供達が、いきなり立ち上がってスイの腕や胴にしがみついた。
「おやおや…君は子供達にとても懐かれてるんだねえ」
子供達に囲まれてハッと我に返ったスイは子供達に優しく応えた。
「大丈夫よ、また戻って来るわ」
「ほんとに?」
「うん。約束する」
「絶対ね」
「早く帰ってきてね」
子供達から解放され、ラスムスの後に着いて廊下を進む途中、スイはふと昨晩ユリアから渡された紙片の存在を思い出した。
ラスムスの背後でそっと彼に見られぬ様に上着のポケットから紙を取り出し、中身を盗み見た。
「親愛なるスイ。
この手紙を読む頃には、貴女が私達の想像を超える悪夢のような待遇から無事逃れられている事を祈ります。もし貴女さえよければ、ボニーは貴女にサイドビジネスのパートナーになって貰いたいとも言っています。その他にも貴女に私からもお願いしたい事があります。近々貴女に会うつもりです。詳しい事は再会した時に話します。幸運を。ドリー・マクドナルド。
P.S. この手紙は読んだら誰にも見つからない様にすぐ処分して下さい。」
スイは手紙を何度か繰り返し黙読し、内容を頭の片隅に刻み込んだ。そして、音を立てぬ様に手紙をそっと手で握り潰し、文字が判別出来なくなる迄もみくちゃにした。すっかり繊維が解れて柔らかくなった紙を2つにちぎり、立ち止まって左右の靴紐を結び直すふりをして、各々の靴の中に隠した。




