78章
アンディのスタジオに着いたスイは、そこでリョウと別れた。もっと一緒にいて、色々話し続けていたかったが、交差点で彼女を待ち構えていた迎えの車を見て、これ以上自分の我儘に付き合わせる訳にはいかないと悟った。それでも、スイにとっては「またね」と言い合える仲がいるというのは、何だか胸の奥が甘酸っぱく感じられる体験だった。
スタジオに入ると、アンディはスイを快く出迎えた。オーケストラ部の様子について問われると、ただ一言、とても楽しくて刺激的です、と答えた。
ちょうどレッスン中だった子供達と一緒に基礎練をし、アンディと世間話をし、あっという間にセンターへ帰らなくてはならない時間となった。
「スイ、また何時でも顔出して頂戴ね」
「はい!」
そうアンディと挨拶を交わしてフォスターケアセンターに戻ったスイは、入口の前に警察の車両が何台も並び、建物内から数名の職員と聖職者達が連行されて行く様と、マスコミ関係者らしき人物が何かを聞き出そうと、建物内から出てくる者を片っ端なら質問攻めにしている様子を目の当たりにした。
「何事…?」
スイは留守の間に、センター内で当然の様に横行していた聖職者達による汚職と不正、そして数々の醜聞が明るみに出て、一気に司法のメスが入った事を知らなかった。
そして、この光景を目の当たりにした時、彼女の脳裏に過ぎったのは、ライラとネルの存在であった。
「助けなきゃ!」
スイはセンター内に業者が出入りする時にのみ使用される裏口から構内に入る事が出来た。予想はしていた事だが、中は騒然としており、脱走の準備をしている者も多かった。
「ライラ!」
彼女は年少者達の教室の隅で、他の子供達と一緒に固まってうずくまっていた。
「…‼」
一瞬スイに対して感情を出す行為をその場でして良い物か、ライラの中で躊躇う仕種があった。だが、他の子供達がそれぞれ自分の事で精一杯になっているのを見て、無言のままスイの腰に抱きついた。
「恐かったね、もう大丈夫だから!」
スイのシャツの腹部辺りがジワっと熱く湿っぽくなるのを感じた。ライラの涙だった。
「ライラ、ネルは見た?」
ライラの頭部がぐりぐりと横に揺れながらスイの腹部に押し付けられた。
「ねえ、スイ。何が起きてるの?」
「わからない。でもネルを探しに行かなきゃ。ライラは皆と此処で待ってて」
「やだ!一緒にいく!」
「わかった。じゃあ一緒においで」
するとその場にいた子供達の目が一気にスイ達の方を向いた。
「いいよ。皆全員で此処から出よう」
スイの言葉に子供達が一斉にワアッと騒いだ。子供達もまた、実際には関わらないものの、施設内にスイへの陰険な嫌がらせが横行している事は知っていたが、ママと呼ばれている職員達や年長者達が次々と警察官に連行されて行く様を目の当たりにして、誰が正しくて何を信じれば良いのか、誰もが非常に混乱していたのだ。
スイが群衆を率いる自由の女神なのか、破滅に導こうとするハーメルンの笛吹き男なのか、子供達に判別は出来ない。だが、どちらにせよこの場に留まっていてはいけない。スイはただ、ほんの些細なきっかけとなったに過ぎなかった。
施設の内部の出入りはどこも自由だったが、子供達が唯一入れない部屋が一つあった。職員達の部屋だ。其処に行けば必ず外部と通信する手段があるはず。スイは其処から外へ助けを呼ぶつもりだった。
「開け…!」
決して子供達の手で開けられる事のなかった出入り口の扉が、スイの手によっていとも簡単に開かれる。その中は呆気ない程整然としていた。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教とそれぞれが祈りを捧げる場があり、唯一マリア像だけが一段高い位置に鎮座していた。
そのマリア像は何故かムツキ・リョウの顔を彷彿とさせた。
「皆、部屋の中にコンピュータか電話か無線機か、外に連絡出来るものを探そう」
子供達は自ら進んで部屋中の壁や床の上を慎重に調べ回った。間もなくして蔓草模様のラグマットの下に蓋が発見され、その中から旧式のスマートタブレット端末が見つかった。
恐る恐る電源を入れてみると、特にパスワードを入力する事もなくホーム画面が現れた。スイは少し考えこんだ後に、ボニー・マクドナルドの施設宛にSOSを送信していた。
「ボニーさん、ゴマさん、ケアセンターの職員達が一斉に連行されて、幼い子供達だけが取り残されています。一晩だけでも保護して貰えませんか?」
スイはスマートタブレットをポケットにしまい、他に施設に誰が残っているか探しに行く事にした。ついでに調理室も覗いて、何か子供達に食べ物を配る事が出来れば。
ケアセンターの内部はやたら広く、4分の3近くはスイが出入りした事のない部屋ばかりだった。そして、空調も止まってしまったのか、空気がどんどん淀んでいる気がした。食料もだが救急用具入れも探して酸素ボンベも確保した方が良いだろう。
「スイー」
「どうしたの?」
「シェンが…」
ライラが指差す方を見ると、シェンと呼ばれた男児が床にしゃがみ込んでいた。
「大丈夫?」
シェンはスイの呼び掛けに対し、しゃがみ込んだまま怒りの表情を向け、スイがはてな?と思う間もなく臭気でその原因が判明した。
「ずっと我慢してたんだね、気付いてあげられなくてごめんね」
嫌そうな顔でシェンから距離を置く子供達に掃除用具と着替を探して来るよう頼み、スイは彼をバスルームへ連れて行った。
シェンは年上のスイに世話をされるのを恥ずかしく思ったのか、自分でできる、と主張してシャワーカーテンを締めてその奥に閉じ籠もった。
スイはそんなシェンの反応に苦笑しながらも、自分が逆の立場だったらそうしたかもしれないな、と考えた。
「他の皆も、我慢しなくていいからね」
そう呼び掛けた側から、ライラ達が何処からか掃除用具と雑巾と着替を持って戻ってきた。
「ありがとう、皆。シェンを洗うついでに自分達もシャワー浴びておいで」
子供達は歓声をあげてバスルームでお互いにシャワーをかけあった。そんな子供達の様子を見ていて、スイの胸裏にごみ捨て場で共に暮らしていた仲間達との生活が浮かぶ。
「…ネル、何処に行っちゃったの?」
そう漏らしたスイの顔に微笑みはなかった。




