76章
壮絶な一夜が明け、スイはケアセンターに戻っていた。そこで彼女を待ち受けていたのは、事情を何も知らない女児達の侮蔑的な態度と言葉攻めであった。通りすがりのネルやライラですらも、スイから視線を逸らし、だんまりを決め込んだ。スイは相手に反論する元気もなく、それにとても疲れが溜まってはいたが、好きな事に打ち込みたくてオーケストラ部の早朝練に行く事にした。
早朝練に参加するには、一般のシティバスに乗らなければならない。スクールバスの到着を待っていれば遅れてしまうからだ。何よりスクールバスなら、スイと同様、センターからリュケイオンに通う女児達の嫌がらせに遭う事も、他の学生達の視線を気にする事も、心配しなくて済むのが気楽であった。
乗客が疎らなバスに乗り込むと、嫌でも昨日の事がじわじわと思い出された。突然の天変地異の様な水害。為す術もなく負傷した市民達。バスが市街地の中心に近付くにつれて、事故の大きさと云うものを改めてスイに見せつけた。
スイは心苦しさを覚えた。そして誰かにこの心の内を吐露したかった。
「美崎君…」
タラッサと呼ばれていた時の彼は、初めて会った時から一度も見せた事のなかった彼の一面だった。彼の最期は余りにも悲しかった。
悲痛な面持ちのままスイは、バスを降りるとまっすぐリュケイオンの敷地内にある音楽棟へ行った。普段なら数名のメンバーがいて、それぞれ楽器のチューニングや自主練をしているものだが、この日に限って誰も来ていないのか建物内は静かだった。
そんな静けさの中で、たった一つハープの音が聞こえてきた。
今、オーケストラ部で練習中のシベリウスの交響曲にはハープのパートはない。部員以外の誰かが来ているのだろうか。
スイは不思議な胸騒ぎを覚えた。そのはやる気持ちを抑えつつ、恐る恐るハープの音が鳴り響く音楽室の中を覗き込む。
其処には1人の見慣れぬ制服姿の黒髪の少女がハープを演奏していた。そしてその旋律に合わせ、少女は澄んだ声で歌い始めた。それはJ.S.バッハとグノーのアヴェ・マリアだった。
ハープの音は穏やかで優しく、聞けば聞くほど心の内が雑念から解放される様だった。少女の歌声は泣きたくなる程美しく、何もかもを優しく包容する様な響きを持っていた。聞いている内にスイの中にあった心苦しさが、何時しか涙となって彼女の外へと溢れ出していた。
「おはよう、朝凪翠ちゃん」
スイは音楽室の入口で少女の演奏を聞いていたのだが、歌い終わった少女に突然知らない言葉で呼び掛けられ、スイはギョッとした。分からない言語だったが、自分の名前を呼び掛けられた事だけは分かり、咄嗟に言葉が出てこなかった。
「ごめんなさい、日本語より英語の方が良かったかしら?」
彼女が英語で話しかけてくれたので、スイはおずおずと質問してみた。
「貴女もオーケストラ部のメンバーなの?」
「いいえ」
「じゃ、どうして貴女は私の名前を知ってるの?」
「私もアバターのペアリング・パートナーの候補の一人なの。貴女と共に実験や地上調査に加わる日を楽しみにしていたのだけれど、貴女が辞めてしまったと聞いて、とても残念に思ったわ」
「貴女はネオ・ムセイオンに所属してるの?」
「ええ、そうよ」
スイは改めて少女をまじまじと見つめた。癖のないサラサラとした黒髪と、サファイアの様な濃い深い青色の大きな両眼は、透き通る様な白い肌によく映えた。そして年上ながらも少しあどけなさを残した顔付きは、何故かヒューペルボリアで会った兄シンととても良く似ていた。
「ごめんなさいね。私、もう行くわ。早朝練で此処、使うのよね?」
「ううん、まだ私以外誰も来てないみたいだから急がなくても大丈夫…」
スイは何故かこの初対面の少女と仲良くなりたかった。
「あの、貴女のお名前を聞いてもいいですか?」
「私はムツキ・リョウって云うの。リョウって呼んでね、スイちゃん」
そう言って微笑んだリョウの姿は、慈愛と寛大さに満ち溢れていた。リョウに右手を差し出されたスイは、躊躇う事なく握手し返した。
「ありがとう、宜しくお願いします」
互いに右手を握りあった瞬間、スイの脳裏に恐ろしい怪物の様な存在が火山の噴火口から姿を表し、その怪物と対峙するデフテロのヴィジョンが鮮明に走った。
「…?!」
俄に顔付を曇らせたスイとは対象的に、リョウは悲しそうな表情を浮かべた。
「今のは何…?」
「未来よ」
驚いてスイはリョウの顔を見つめた。
「未来ですって…?」
リョウは悲しげな表情のまま、静かにスイの手を離した。
「また会いましょう、近いうちに」
スイは平和維持軍の本部でデフテロと別れてから、殆ど先の事を予見する力を発揮していなかった。それ故、その能力はデフテロと同調した時のみ発動するものと思い込んでいた。その仮説が、リョウとの接触でたちまち崩壊してしまったのだ。
「リョウちゃん、貴女は何者なの…?」
そう呼び止めたスイの言葉とはすれ違う様に、リョウは沈黙のまま音楽室を出た。慌ててスイも後ろを振り返って彼女の後を追おうとしたが、リョウの姿は何処にもなかった。
同日昼過ぎ、ヴァーシポリスとネオ・ムセイオンのアメリカ支部の被害状況が報道され、理事達が各方面の問い合わせや対応に追われる中、ライオネル・ドーキンスとウォルター・マーギュリスの両名より、アリッサ・J・グールドの後任が決定した旨が発表された。それはアリッサが要請したドリー・マクドナルドではなかった。
同日夕刻頃、ヨーロッパから1体の航空機が到着する。その飛行機を別室で待ち構えていたのは、カビーア、ドミニク、ソヒョン(スー)、ドリーの現任の理事達であった。
「ドリー、残念だったな」
ドミニクが軽い調子で話しかける。
「いえ、別に。今迄通り研究とビジネスに専念させて頂ける様になって、寧ろ感謝していますよ」
会話している側から飛行機の中から防護服姿の人物が複数名現れた。
「さ、いよいよ新理事長ご一行のお出ましだ」
数分経って別室に防護服を脱いだ人物が5名現れる。
「お待ちしておりました、フランシス・ドゥーリトル所長」
「歓迎ありがとう。ドクターグールドの後任として慣れない所も有るだろうが、どうかご協力の程、宜しく頼む」
ドゥーリトルはアリッサより3歳程年長だったが、欧州科学研究所や世界自然保護委員会等の世界連合の傘下における機関での幹部クラスを歴任した実績を持っていた。そしてアフリカ支部のドーキンスと、同じ大学のゼミナールで共に学んだ間柄でもあった。ロマンスグレーの髪をオールバックにしたスタイルが印象的な男は、かつてアリッサの席だった椅子に座った。
「早速だが、昨日の事態については、テタルト並びにそのパートナーの制御不能と暴走が原因との事で間違いないのだな?」
「はい。ドクターグールドからはそう報告が上がっております。また、昨日のテタルトとパートナーのフィジカルデータがこの様になっております」
「成程、館内の24時間分の防犯カメラの記録はすべて残してあるな?」
「はい。只今設置してある全6561台分の記録の調査分析を進めております」
「宜しい。全ての分析結果については私のアシスタントのヴェルナドスカヤ君に報告してくれたまえ」
ドゥーリトルと共に入室した残り4名のうち、末席にいたブロンドの女性スタッフが軽く右手を挙げた。
この最初のミーティングから1時間後、ドゥーリトルは所長として記者会見を行なった。外部のネオ・ムセイオンに対する疑問視や追求を迅速に収めた手腕は、他の理事達や病室のアリッサ、ユリア母娘も納得せざるを得なかった。
ドゥーリトルは1日のスケジュールを全て終えた後、漸く自分の部屋に落ち着く事が出来た。因みにアリッサのラボとは別に新所長室を急ごしらえで設けて貰ったため、だだっ広い室内には未だデスクと椅子が2脚あるのみだった。片方の椅子には部屋の主が、もう片方の椅子にはリョウが座っていた。落ち着いた物腰で優雅にティーカップを傾けながらドゥーリトルが口を開く。
「これで良かったのかね?ピュッティアー殿」
「ええ、フラン。すべて予見した通りに進んでますわ」
そう言ってリョウも右手のティーカップを口元へと運び、紅茶を一口飲んだ。
「それで、貴殿の託宣はそろそろ開示して頂けるのかな?」
「あら、太陽神と詩神達の要塞の一つを手中に収めた貴方を、世界中が一目置いてますのに、まだ足らないと仰るのですか?」
リョウは笑ってそう言いながらティーカップを干し、ソーサーに戻すと、今度はデスクの上に座り直しドゥーリトルを見下ろす様にしてこう告げた。
「とにかく今は残りのアバターを全て覚醒させる事に注力なさい。まだギガントマキアは終わっていないのですよ」




