74章
テタルトの拳から逃れる様に、要の身体は跳躍した。だが、先程一瞬だけでもプールの水を沸騰させたり冷却させたりした反動なのか、タラッサには要の身体の動きが急に鈍くなったように感じられた。
「小癪な…!」
タラッサ=要は両腕の肘から指先を、身体を伝う水ごと瞬時に凍らせた。それは一見両腕が両刃の剣となった様にも見えた。
「貴様等ごと傀儡を破壊してやる!」
無謀にもタラッサ=要はテタルトの脳天目掛けて両腕の刃で斬り掛かる。だが、テタルトは逆にプールの水を両手で要の身体に浴びせかけ、その水飛沫ごと要を凍らせた。
「無駄だ!」
要を覆う氷は砕けたが、その周囲の水飛沫は凍ったままだった。その流れの道筋をスケートで滑走するかの様に要はその境地から抜け出た。
テタルトの巨体から繰り広げられる、力による攻撃と防御、要の速さと俊敏さで交わす防御と至る所に仕掛けられる攻撃、二者の勝負は実に拮抗していた。だが、何度となく水が蒸発と凝結を繰り返し、そのせいでアクリルパネルが曇っていた事で、スイのいるコントロール室からはなかなかその全貌を見渡す事が難しかった。
「何をしてるの、カナメ!」
その声にテタルトと要は動きを止めた。無言で声がした部屋の出入り口の方に視線を向ける。そこには銃を構えた白衣姿のアリッサの姿があった。
「貴方、テタルトを破壊する事がどういう事なのか分かってるの?」
要は無表情でアリッサの方を向いた。
「貴様、妾に命令するのか?」
アリッサは要が何を喋っているのか全く理解できなかった。というのも、タラッサが今迄発していた言葉は、歴史上残されていない、古代に用いられていた言葉だったからだ。だが、コントロール室内でモニター越しにタラッサ=要の言葉を聞いていたスイには、何故か彼の言葉が理解出来た。だからこそ、アリッサがこの場にいる今の状況がどんなに危険であるのかも察する事が出来た。
「この器に収められていた魂とダイモンの器をずっと貴様は『要』と呼んでいたらしいな。だが彼の者はずっと貴様が思う要ではない事を自覚し、貴様の元を去ると決めていた様だ。そして、皮肉にも彼の者の魂は此処にはない。奴は妾と取引した事で、やっと貴様という牢獄から解放されたのだ」
タラッサはカラカラと気味の悪い声で笑った。アリッサは目の前にいる要が尋常でない事を悟り、銃を発砲した。
「フン」
タラッサ=要は不服そうに言うと、アリッサとの間に一瞬にして氷の壁を創り上げた。アリッサが発砲した銃弾は虚しくも氷の壁に突き刺さり、要の身体には一つも届かなかった。
「妾に命令した罰を貴様に下してやる」
アリッサが全ての弾丸を撃ち尽くしたのを見計らうと、タラッサ=要の手で瞬時に氷の壁は融解した。刺さっていた弾丸がぼしゃぼしゃと水溜まりの中へ落下する。タラッサ=要は床にヘナヘナと座り込んでしまったアリッサに向かって距離を縮めると、右手の氷の刃を振り下ろそうとした。
「ダメ!!」
アリッサの背後にコントロール室から駆けつけたスイが立つ。それと同時に要の動きが急に停止した。
「兄さん達の戦いに私は手出ししない。でも所長に手出しするのなら、全力で阻止するわ!」
「アサナギ・スイ…!」
何故此処に、と言いかけたアリッサの言葉を遮り、スイは要から視線を逸らさない様にアリッサの前に立った。
「所長、ユリアさんが私を此処へ連れて来る途中で大怪我をしました。どうか、今すぐ彼女がいる病院に行って下さい」
「それは出来ない!私はミサキ・カナメをこの世に送り出した責任と、ネオ・ムセイオンのアメリカ支部の所長としての責任がある!」
「ならばその責任は、此処から生還して、貴女が行なってきた過去と今起きた事の説明を皆に公表する事で全うして下さい!」
スイの言葉にアリッサはバットで激しく打たれたかの様な衝撃を受けた顔付きをした。
「貴様、余裕だな?」
動きを止められたタラッサ=要は邪な薄ら笑いを浮かべ、スイ達の様子を眺めていた。
「タラッサ、貴女が歴史的に人間達から受けた暴力や侮辱を許せない気持ちは当然だわ。だけどその気持ちをグールド所長やネオ・ムセイオンにぶつけるのは間違ってる!」
「解せんな。どうして貴様はそこまでして特定の人間どもに偏った思いを抱き、肩入れしようとするのか?」
「それは私がセイともう一度会う為よ」
きっぱりとそう言い放ったスイの周りで、何処からか数名による拍手の音が響き渡った。だがその音はアリッサだけには聞こえなかった。スイは突然の喝采の音に一瞬怯んだ顔付きをしたが、冷静さを取り戻し、要との間を一歩、また一歩と詰めていった。
「タラッサ。貴女はやり過ぎた。これ以上街をめちゃくちゃにしたり、破壊を続けたり、人の生命を奪い続けたりするようならば、もう容赦しない。此処から即刻立ち退け!」
スイの口調はアリッサが知る彼女とはまるで別人だった。勿論、アリッサには目の前に立つ彼女が何を言ったのか理解は出来なかったが、それでも彼女の言葉と共に、テタルトが動き出すのを見て自身の目を疑った。
スイの発言に合わせるようにテタルトは右腕をゆっくりと上げ、掌を大きく天井に向けて広げる。その掌に煙の様なもやが集まり、それはデフテロが地上に出る時常に所持している両刃の剣とそっくりの形に変化した。
テタルトがその仮面の下でどんな表情をしていたのか、それはその場に居合わせた者達、誰一人として分からない。ただ、テタルトは空中に浮かぶ煙の剣の束を右手で握ると、その剣は瞬時に氷と化した。そして、そのまま剣はタラッサ=要に向かって真上から振り下ろされた。
剣が振り下ろされる直前、タラッサ=要はスイ達に向かって苦虫を噛み潰した様な顔付きをした。そして足から地中に根を生やしたかの如く両足が動かなくなり、それでもはや此処から逃げられないと悟ったせいなのか、急に全身が赤黒く染まり、たちまちのうちに風船の様に膨らんだ。そこへ刀身が要の右肩の首元付近だった箇所に触れる。ほぼそれと同時に赤黒い球体は中身を全方位にぶち撒ける形で爆ぜた。
頭から血肉の飛沫を浴びる形で、スイはその様を瞬きもせずに凝視していた。自爆した要の血肉は異臭を漂わせて部屋中を真っ赤に染めた。
「…うぅ」
アリッサのうめき声を聞いてスイは後ろを振り返った。彼女もまた要の血に染まりながら、肩を落とし、むせび泣く様に涙を流していた。
「グールド所長」
スイはかがんでアリッサに手を差し伸べた。アリッサは弱々しくその手を取る。
「…ありがとう」
アリッサの目にはスイが初めて会った時とはまるで別人の様に写った。
「行きましょう。ユリアさんの所へ」
そう言ってスイはアリッサを立ち上がらせかけ、ふとテタルトの方を振り返ると、ある異変に気が付いた。
「テタルトが泣いてる…?」
「いや、それは違う。たぶん結露でしょう」
弱々しいながらも的を得たアリッサの即答にスイは無言で頷くと、揃ってその場を離れた。




